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チェ・ゲバラ チェ・ゲバラのサイン エルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セル Ernesto Rafael Guevara de la Serna1928 6 14 - 1967 10 9 )は、 アルゼンチン ⽣まれ 政治家⾰命家 で、キューバ ゲリラ 指導者。 チェ・ゲバラ」の呼び名で知られるが、「チェ」は主 にアルゼンチンやウルグアイ、パラグアイで使わ れているスペイン語リオプラテンセ・スペイン をはじめとする諸⽅⾔)で「やぁ」、「おい」、「お 前(親しみを込めた)」、「ダチ」といった砕けた 呼び掛けである。ゲバラが初対⾯の相⼿にしばし ば「チェ。エルネスト・ゲバラだ」と挨拶してい た事から、キューバ⼈達が「チェ」の発⾳を⾯⽩ がり付けたあだ名 である。ラテンアメリカ では キューバ⾰命以降「チェ」もしくは「エル・チェ(El Che)」(「el」男性定冠詞 単数形)といえば彼の事 を指す。 1 年譜 1928 6 14 ⽇、アルゼンチン第⼆の都市サリオ で裕福な家庭に⽣まれる。 1930 年 ブエノスアイレス に住んでいたとき、 最初の喘息発作 を起こす(2 歳)。 1932 重い喘息のため、⼀家はコルドバ 暑地 アルタ・グラシアに転居する。 1941 コルドバの⾼等学校 に⼊学。喘息に もかかわらず、 ラグビー サッカー などの激 しいスポーツ を愛好した。 1948 ブエノスアイレス⼤学医学部に⼊学、 アレルギー の研究を志す。 1950 北部アルゼンチンをモペッド で単独 ⾛破。 1951 年 アルベルト・グラナード とともに、 オートバイで南アメリカをまわる旅に出てテンアメリカ をつぶさに⾒聞。(第⼀のラテ ンアメリカ放浪) 1952 南⽶旅⾏の最終地点ベネズエラ ラカス で、アルベルトと別れ帰国して医学部 を卒業することを決意。 1953 通常 6 年の課程を 3 年で終え、 医師 許を取得。フアン・ペロン⽀配下で軍医 にな ることを避け、カリーカことカルロス・フェ レールとともにアルゼンチンを起つ(第⼆の ラテンアメリカ放浪)。ボリビアで農地改⾰の 現実を⽬撃。アルベンス社会主義政権下のアテマラ で出会ったペルー⼈社会主義者ルダ・ガデア の紹介で亡命キューバ⼈と知り 合う。 1954 グアテマラのハコボ・アルベンス・グ スマン による政権がカスティージョ・アルマ ⼤佐率いる軍部(アルマスはこの功績でグ アテマラ⼤統領に祭り上げられる)にクーデ ター で倒され、怒りとともにメキシコ に亡 命。 1955 イルダ・ガデアと結婚1956 ⻑⼥イルディタ誕⽣。メキシコ亡命中 のフィデル・カストロ、弟のラウル・カスト と出会い意気投合、従軍医として反独裁闘 争に参加することを承諾。グランマ号(10 乗りのヨットに 82 ⼈)でキューバに上陸(12 2 )、以後 25ヶ⽉間におよぶゲリラ戦に 従軍。 1957 反乱軍第 2 軍(75 名)の指揮官)、少佐の階級章 (⼀つ星)をつけた⿊のレー帽 は後年チェのシンボルマーク となる。 ベレーには上下を逆にした騎兵 章(交差し サーベル)を付ける事もあった。 1959 バティスタが国外逃亡しキューバ⾰命 成⽴。キューバの国⽴銀⾏総裁に就任。イル ダ・ガデアと正式に離婚 し、志願して来たの を迎え⼊れて以来副官同然だった同志、アレ イダ・マルチ・デ・ラ・トーレと結婚し 4 をもうける。アジアアフリカ の親善⼤使と して来⽇、12 ⽇間滞在した。このとき、広島 原爆資料館 を訪問し、「アメリカにこん 1

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チェ・ゲバラ

チェ・ゲバラのサイン

エルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナ(Ernesto Rafael Guevara de la Serna、1928年6⽉14⽇ - 1967年10⽉ 9⽇)は、アルゼンチン⽣まれの政治家、⾰命家で、キューバのゲリラ指導者。

「チェ・ゲバラ」の呼び名で知られるが、「チェ」は主にアルゼンチンやウルグアイ、パラグアイで使われているスペイン語(リオプラテンセ・スペイン語をはじめとする諸⽅⾔)で「やぁ」、「おい」、「お前(親しみを込めた)」、「ダチ」といった砕けた呼び掛けである。ゲバラが初対⾯の相⼿にしばしば「チェ。エルネスト・ゲバラだ」と挨拶していた事から、キューバ⼈達が「チェ」の発⾳を⾯⽩がり付けたあだ名である。ラテンアメリカではキューバ⾰命以降「チェ」もしくは「エル・チェ(ElChe)」(「el」男性定冠詞単数形)といえば彼の事を指す。

1 年譜

• 1928年 6⽉ 14⽇、アルゼンチン第⼆の都市ロサリオで裕福な家庭に⽣まれる。

• 1930年ブエノスアイレスに住んでいたとき、最初の喘息発作を起こす(2歳)。

• 1932年重い喘息のため、⼀家はコルドバの避暑地アルタ・グラシアに転居する。

• 1941年コルドバの⾼等学校に⼊学。喘息にもかかわらず、ラグビーやサッカーなどの激しいスポーツを愛好した。

• 1948年ブエノスアイレス⼤学医学部に⼊学、アレルギーの研究を志す。

• 1950年北部アルゼンチンをモペッドで単独⾛破。

• 1951 年 アルベルト・グラナード とともに、オートバイで南アメリカをまわる旅に出てラテンアメリカをつぶさに⾒聞。(第⼀のラテンアメリカ放浪)

• 1952年南⽶旅⾏の最終地点ベネズエラのカラカスで、アルベルトと別れ帰国して医学部を卒業することを決意。

• 1953年通常 6年の課程を 3年で終え、医師免許を取得。フアン・ペロン⽀配下で軍医になることを避け、カリーカことカルロス・フェレールとともにアルゼンチンを起つ(第⼆のラテンアメリカ放浪)。ボリビアで農地改⾰の現実を⽬撃。アルベンス社会主義政権下のグアテマラ で出会ったペルー⼈社会主義者イルダ・ガデアの紹介で亡命キューバ⼈と知り合う。

• 1954年グアテマラのハコボ・アルベンス・グスマン による政権がカスティージョ・アルマス⼤佐率いる軍部(アルマスはこの功績でグアテマラ⼤統領に祭り上げられる)にクーデター で倒され、怒りとともにメキシコ に亡命。

• 1955年イルダ・ガデアと結婚。

• 1956年⻑⼥イルディタ誕⽣。メキシコ亡命中のフィデル・カストロ、弟のラウル・カストロと出会い意気投合、従軍医として反独裁闘争に参加することを承諾。グランマ号(10⼈乗りのヨットに 82⼈)でキューバに上陸(12⽉ 2⽇)、以後 25ヶ⽉間におよぶゲリラ戦に従軍。

• 1957年反乱軍第 2軍(75名)の指揮官(少佐)、少佐の階級章(⼀つ星)をつけた⿊のベレー帽は後年チェのシンボルマークとなる。ベレーには上下を逆にした騎兵 章(交差したサーベル)を付ける事もあった。

• 1959年バティスタが国外逃亡しキューバ⾰命成⽴。キューバの国⽴銀⾏総裁に就任。イルダ・ガデアと正式に離婚し、志願して来たのを迎え⼊れて以来副官同然だった同志、アレイダ・マルチ・デ・ラ・トーレと結婚し 4児をもうける。アジア・アフリカの親善⼤使として来⽇、12⽇間滞在した。このとき、広島市の原爆資料館を訪問し、「アメリカにこん

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2 2 ⽣涯

な⽬に遭わされておきながら、あなたたちはなおアメリカの⾔いなり(対⽶従属)になるのか」と案内⼈に語った。

• 1960年著書『ゲリラ戦争』出版。ソ連を初訪問。

• 1961 年 ⼯業⼤⾂に就任。故郷アルゼンチンへ 8年ぶり(最後)の帰国をするが、滞在時間はわずか 4時間だった。

• 1963年アルジェリア独⽴⼀周年記念式典に出席。

• 1964年ベン・ベラ ⼤統領の招きでアルジェリア訪問。12⽉ 11⽇、国際連合総会でキューバ主席として演説*[1]、7⽉ 26⽇運動の合⾔葉『祖国か、死か!』を紹介する。

• 1965 年 国際的な⾰命闘争に参加するためキューバを離れる。アフリカ各地を歴訪し、コンゴでは⼀時的に闘争(コンゴ動乱)に参加。キューバ共産党中央委員会でカストロはゲバラから⾃分宛に遺された「別れの⼿紙」を発表。

• 1966年コンゴ動乱から引き揚げ、チェコスロバキア のラードビー(プラハ の南東 25 キロにある町)に 3⽉から 7⽉まで、チェコ情報機関に匿われ滞在。「⼀つ、⼆つ……数多くのベトナムをつくるために」(1967年に公表されたメッセージの⾔葉)ラテンアメリカに戻り、変装してボリビアへ。ボリビアでの様⼦を記した⽇記は『ゲバラ⽇記』として死後刊⾏。

• 1967年10⽉ 8⽇バジェグランデ近郊のイゲラ村の近くで捕えられ、⼤統領レネ・バリエントス・オルトゥーニョの命令で10⽉ 9⽇に処刑(銃殺刑)された。39歳だった。

• 1997年死後 30年⽬、ボリビアで遺⾻が発掘され、ハバナに移送された。

• 2004年1⽉ 25⽇⽶国俳優ロバート・レッドフォードが、ゲバラの著作『モーターサイクル南⽶旅⾏⽇記』(邦訳・現代企画室)と、ゲバラの友⼈アルベルト・グラナードの著作『トラベリング・ウィズ・ゲバラ』(邦訳・Gakken)を下敷きにプロデュースした新作映画『モーターサイクル・ダイアリーズ』を携え、ハバナを訪問。遺族やハバナ市⺠が映画を鑑賞した。

• 2007年10⽉ 8⽇没後 40周年式典や追悼式典がキューバのサンタクララなどで⾏われる。

• 2008年〜2009年死の⼆⽇前まで記された⽇記『Reminiscences of the Cuban Revolutionary(⾰命戦争の経過)』(邦題:『⾰命戦争回顧録』)を基にした映画『チェ28歳の⾰命』『チェ39歳別れの⼿紙』が世界中で公開される。

• 2010年5⽉ 22⽇、ゲバラを逮捕したボリビア陸軍のガリー・プラド (Gary Prado) 元将軍が、ボリビア東部の分離独⽴を画策するために右派の⺠兵組織を結成した容疑で、⾃宅軟禁措置を受けた。プラドは容疑を否認している。

• 2011年6⽉ 14⽇、⽣誕 83年にあたるこの⽇、永らく発表されていなかったキューバの⾰命戦争の時の⽇記がオーストラリアのオーシャン・プレス社から出版された*[2]*[3]。

2 生涯

2.1 幼年期

5才。伝統的なガウチョ の 装で に乗る(1933年)

1928年にアルゼンチン第⼆の都市ロサリオでバスク系アルゼンチン⼈ とアイルランド系アルゼンチン⼈の両親のもとに誕⽣する。⽗はアルゼンチン⼈のエドゥアルド・ラファエル・エルネスト・ゲバラ・リンチ、⺟はセリア・デ・ラ・セルナ・イ・ジョサ。

1824 年 にシモン・ボリーバル、アントニオ・ホセ・デ・スクレらのラテンアメリカ解放軍とアヤクーチョで戦ったペルー副王、ホセ・デ・ラ・セルナの末裔であり、経済的には恵まれた家庭であった。両親はカトリック国であるアルゼンチンの保守的な慣習にとらわれない⽐較的リベラル な思想の持ち主であった(⺟のセリアは無神論者でもあった)。

未熟児として⽣まれ肺炎を患い、2歳のとき重度の喘息 と診断された。両親は息⼦の健康を第⼀とし、喘息の治療に良い環境を求めて数回転居している。幼い頃は痙攣を伴う喘息の発作で⽣命の危機に陥ることがあり、その度に酸素吸⼊器を使

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2.3 ⾰命家ゲバラ 3

17才の時(1945年)

⽤して回復するという状態であった。しかしラグビーなど激しいスポーツを愛好し、プレイ中に発作を起こしては酸素吸⼊器を使⽤し、また試合にもどっていた。重度の喘息は彼を⽣涯苦しめた。医学⽣時代には友⼈と「タックル」というラグビー雑誌を発⾏し、⾃ら編集もつとめた。

2.2 青年期

ブエノスアイレス⼤学 で医学 を学ぶ。在学中の1951 年 に年上の友⼈のアルベルト・グラナードとともにオートバイで南アメリカをまわる放浪旅⾏を経験した。旅の過程で、チリの最下層の鉱⼭労働者やペルーのハンセン病患者らとの出会いなど、当時⽐較的裕福であったアルゼンチン以外の南⽶各地の状況を⾒聞するほか、ホセ・カルロス・マリアテギの著書に影響を受けマルクス主義に共感を⽰すようになった(このことは著作『モーターサイクル南⽶旅⾏⽇記』に記され、後にこれを原作として映画『モーターサイクル・ダイアリーズ』も制作された)。

1953 年、⼤学卒業の 25 ⽇後、友⼈のカルロス・フェレルとともに再び南⽶放浪の旅に出る。J.D.ペロンの独裁政権下のアルゼンチンを離れ、当初はベネズエラのグラナードを訪れる予定だったが、ボリビア⾰命の進むボリビアを旅した際に、それまで虐げられてきたインディオが解放され、かつてないほど⾃由な雰囲気が漂っているのに⼤きな衝撃を受けた。その後ペルー、エクアドル、パナマ、コスタリカ、ニカラグア、ホンジュラス、エ

ルサルバドルを旅⾏し、ハコボ・アルベンス・グスマン時代のポプリスモ(社会主義とする⾒⽅もある)政権下のグアテマラに⾏き着いた。グアテマラで医師を続ける最中、祖国であるペルーを追われ、グアテマラに亡命していた⼥性活動家のイルダ・ガデアと出会い、共鳴し、社会主義に⽬覚め、急速にのめりこんで⾏くとともに、彼⼥と結婚する。

1950年 10⽉の選挙によって成⽴したグアテマラのアルベンス政権は、スペイン植⺠地時代から続く構造化された収奪や、⻑きに渡る腐敗した独裁政権による社会の荒廃の改⾰を進めていた。アメリカ企業(ユナイテッド・フルーツ社)による搾取 からの経済的独⽴や、グアテマラにおける農業資本主義 経済確⽴のため、マヤ 系インディオの復権のために、それまで半農奴的な扱いを受けていた⼟地無し農⺠への農地分与など、グアテマラ⾰命 と呼ばれるほどの急進的な改⾰を進めていた。しかし、アルベンス政権がユナイテッド・フルーツ社の社有地に⼿をつけると、アメリカ合衆国内で猛烈なグアテマラへの⾮難が巻き起こった。アルベンス政権が軍部の裏切りによりCIAに後押しされた反抗勢⼒のカスティージョ・アルマスに倒されると(PBSUCCESS作戦)、⺠主的な選挙によって選出され、ゲバラが「ラテンアメリカで最も⾃由で⺠主的な国」と評したグアテマラの⾰命政権は崩壊した。この出来事が直接のきっかけとなり、ゲバラは武⼒によるラテンアメリカ⾰命を本気で志すようになった。

その後、アルマス新政権によってゲバラの暗殺指令が出されたため、妻のガデアとともに、失意と怒りを抱いてメキシコに移る。1955年7⽉、この地に亡命中の反体制派キューバ⼈のリーダーである、フィデル・カストロと出会う。7⽉ 26⽇運動を率いてキューバのフルヘンシオ・バティスタ独裁政権 打倒を⽬指すカストロに共感したゲバラは、このとき、⼀夜にして反バティスタ武装ゲリラ闘争への参加を決意したとされている。こうしてスペイン内戦 の共和派 の⽣き残りだったアルベルト・バーヨ中佐による本格的な軍事訓練を受けて、キューバ上陸への準備が進んでいった。

2.3 革命家ゲバラ

妻と娘のイルディーダをメキシコに残し、単⾝キューバへ向かう。1956年11⽉ 25⽇、フィデル・カストロをリーダーとした反乱軍総勢 82名はプレジャーボート「グランマ号」に乗り込んだ。しかしこの「グランマ号」は 8⼈乗りで、その 10倍も詰め込んだ収容過多によって衛⽣環境などが劣悪となったことに加え、⽬⽴たぬよう、嵐の中出航したことなどもあり、7⽇後にキューバに上陸した時にはすでに体⼒を消耗し、それに伴い⼠気も下がっていた。さらに反乱軍の上陸をカストロが事前に発表し、計画の内容もキューバ政府に漏洩していたため、反乱軍は上陸直後に政府軍の襲撃を受けて壊滅状態となった。結局⽣きて上陸でき

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4 2 ⽣涯

ラバに乗って 1958年 11⽉、ラスビラスにて

たのは 82⼈中、ゲバラ、フィデル・カストロ、ラウル・カストロ、カミーロ・シエンフエゴスなどを含む 12⼈のみだった(⽣き残った⼈数が 17⼈という説もある)。オルトドクソ急進⾏動の指導者で部隊の副官格のマヌエル・マルケスやバヤモ兵営襲撃の⽣き残りニコ・ロペス(ゲバラとカストロの仲⽴ちをした)ら多くの⼈間が拷問のすえ虐殺された。

上陸後、反乱軍はシエラ・マエストラ⼭脈に潜伏し、⼭中の村などを転々としながら軍の⽴て直しを図った。その後キューバ国内の反政府勢⼒との合流に成功し、反乱軍は徐々に増強されていった。当初、ゲバラの部隊での役割は軍医であったが、⾰命軍の政治放送をするラジオ局(ラジオ・レベルデ)を設⽴するなど、政府軍との戦闘の中でその忍耐強さと誠実さ、状況を分析する冷静な判断⼒、⼈の気持ちをつかむ才を遺憾なく発揮し、次第に反乱軍のリーダーのひとりとして認められるようになっていった。上陸から 1年後の兵員増加に伴う部隊の再編成に際して、カミーロやラウルらを差し置き、カストロから第 2軍(名前の上でだけは第 4軍)のコマンダンテ(司令官。司令官の下に分隊がある。分隊指揮者は「隊⻑」)に任命され、指揮権と少佐の階級を与えられ、名実ともにカストロに次ぐ反乱軍ナンバー2となった。

2.4 革命成就

1958年12⽉ 29⽇にはこの第 2軍 300⼈を率いて政府軍 6000⼈が迎え撃つキューバ第 2の都市サンタ・クララに突⼊する。そこで、政府軍の武器と兵⼠を乗せた装甲列⾞を転覆させ政府軍を混乱させる。反乱軍を⽀援する多数の市⺠の加勢もあり、激戦の末にこれを制圧し、⾸都ハバナへの道筋を開いた。

1959年 1⽉ 2⽇、⾰命成就直後に

1959年1⽉ 1⽇午前 2時 10分に、フルヘンシオ・バティスタがドミニカ共和国へ亡命し、1⽉ 8⽇カストロがハバナに⼊城、「キューバ⾰命」が達成された。闘争中の功績と献⾝的な働きによりキューバの市⺠権を与えられ、キューバ新政府の国⽴銀⾏総裁に就任するに⾄った。

2.5 日本来訪

1959年 7⽉ 15⽇、31歳のゲバラはキューバの通商使節団を引き連れて⽇本を訪れた。当時の⽇本での知名度は低く、『朝⽇新聞』が「カストロ・ヒゲ*[4]」と揶揄同然に報じたのみで、他社には無視された。7⽉ 23⽇には午前中に愛知県のトヨタ⾃動⾞⼯場のトラックやジープ型 4輪駆動⾞の製造ラインを⾒学、午後には新三菱重⼯の⾶⾏機製作現場を訪れた。24⽇には久保⽥鉄⼯堺⼯場で農業機械の製作を⾒学し実際に農業機械を動かして試した後、丸紅、鐘紡と回って⼣⽅に⼤阪商⼯会議所主催のパーティーに出席した。この他にもゲバラは通商のために東京都内の帝国ホテルで池⽥勇⼈通産相に 15分間の会談を⾏い、ソニーのトランジスタ研究所や映画撮影所、肥料⼯場などを回った。

7⽉ 24⽇の⼤阪に泊まった際、広島が⼤阪から遠くない事を知り、翌⽇、神⼾の川崎造船所を視察した後に、予定を変更してオマール・フェルナンデス⼤尉とマリオ・アルスガライ駐⽇⼤使を伴って全⽇空機で岩国空港に⾶んだ。広島県職員案内の下、広島平和記念公園内の原爆死没者慰

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2.6 政治家ゲバラ 5

霊碑に献花し、原爆資料館と原爆病院を訪れたほか、広島県庁を来訪し、当時の広島県知事だった⼤原博夫 と会談している*[5]。娘のアレイダ・ゲバラも 2008年 5⽉に原爆死没者慰霊碑に訪れている*[6]。なお、このゲバラの広島⾏に関しては、「市内のホテルで繊維業者と会う予定だったが、宿を密かに抜け出して夜⾏列⾞で広島に向かった」という説もある。しかし、この説を裏付ける証拠はオマール・フェルナンデスの主張以外にはなく、当時の通訳であった広島県外事課の⾒⼝健蔵が、⾶⾏機での公式の来訪を語っているほか、1972年の段階で広島県総務課には当時の記録も残っている。⽇本語の全く分からない 3⼈がこっそり抜け出して夜⾏列⾞に乗ることの不⾃然さ、無断で抜け出した場合の⽇本側の反応についての⾔及がないこと、カストロが⼀時的に⾸相を辞職するといったキューバ本国の政治的混乱の中で、使節団代表であるゲバラが、受け⼊れ国である⽇本政府や商⼯団体に対してそのような配慮に⽋ける⾏動をとるとは思えない点、また、夜⾏列⾞で抜け出したにもかかわらず広島で県庁職員が待っているのは不⾃然でもあり、フェルナンデスの記憶違いもしくは脚⾊である可能性が⾼いと考えられている*[7]。このとき、『中国新聞』の記者であった林⽴雄が単独取材した。その際ゲバラは「なぜ⽇本⼈はアメリカに対して原爆投下の責任を問わないのか」と問うたという。ゲバラが広島の状況をキューバに伝えて以来、同国では現在でも初等教育で広島と⻑崎への原爆投下をとりあげている。

⽇本各地を視察した後、27⽇に⽇本を発ってインドネシア、パキスタン、スーダン、ユーゴスラビア、ガーナ、モロッコを歴訪して 9⽉ 8⽇にハバナへ戻った。翌年には⽇本とキューバの通商協定が締結され、現在も継続中である。

2.6 政治家ゲバラ

キューバを訪問したジャン=ポール・サルトル、シモーヌ・ド・ボーヴォワール 夫妻(左側の男⼥)と(1960年)

⾰命達成の 1ヶ⽉後、旧バティスタ派の⼈々に対する裁判が⾏われ、およそ 600 ⼈が処刑された。ゲバラは処刑の責任者を務め、さらに政治犯収容所の建設を指揮した。この時迅速に処刑を決断し

たのは、「グアテマラ⾰命の失敗は、軍内部にアルベンスへの裏切りがあったため」と後に語っている。6⽉には通商⼤使として独⽴したばかりのアジア、アフリカ、東欧などを歴訪し、各地で熱狂的に迎えられた。帰国後、農業改⾰機構⼯業部⻑および国⽴銀⾏総裁に就任。農地改⾰と企業の国有化を進めた。

1960年8⽉ 6⽇、カストロがアメリカの資本から成る⽯油関連産業を接収、国有化すると、これに対してアイゼンハワー⼤統領はキューバへの経済封鎖を⾏った。翌1961年4⽉にはジョン・F・ケネディ ⼤統領がキューバ侵攻作戦を認可したため、プラヤ・ヒロン侵攻事件が勃発し、アメリカに⽀援された傭兵軍がPBSUCCESS作戦後軍事独裁政権が続いていたグアテマラからキューバに侵攻したが、ゲバラはカストロと共に侵攻軍を破った。この事件の後、5⽉ 1⽇にカストロはキューバ⾰命の社会主義⾰命化を宣⾔した。

ゲバラは各国に外遊を⾏い、8 ⽉にウルグアイのプンタ・デル・エステで開催された⽶州機構の総会では、ブラジル のジャニオ・クアドロス ⼤統領から南⼗字星勲章を授与された。帰国後同年10⽉に、⼯業相に就任した。経済封鎖による資源不⾜、さらに社会福祉事業の無料化により経済が徐々に逼迫していく中、「⽣産効率の低下は⼈々の献⾝的労働によって補える」とし、⾃らも休⽇はサトウキビ の刈り⼊れや⼯場でのライン作業の労働、道路を作るための⼟運び、建物のレンガ積み等、積極的にボランティアに参加した。しかしこうした⾏動も経済を好転させるには⾄らず、理想主義的なゲバラは徐々にキューバ⾸脳陣の中で孤⽴を深めていった。

1964年 12⽉ 11⽇、国連総会にキューバ主席として出席。演説の中でこう述べた。

我らの⼈⺠は声を上げた、“もう⼗分だ”と。この偉⼤な⼈⺠の⾏進は、真の独⽴を勝ち取るまで続く。あまりにも多くの⾎が流されたからだ。代表の皆さん、これは、アメリカ⼤陸における新たな姿勢だ。我らの⼈⺠が⽇々上げている、叫び声に凝縮されている。また全世界の⺠衆に⽀持を呼びかける叫びだ。特にソ連が率いる社会主義陣営の⽀持を。その叫びとは、こうだ――“祖国か、死か!”

1964年 12⽉ 11⽇、国連総会にて

1965年1⽉、各国との通商交渉のために外遊を⾏う。2⽉ 27⽇に独⽴の過程によりキューバの盟友だったアルジェリア のアルジェ で⾏われた「第⼆回アジア・アフリカ経済会議」において、ベン・ベラ⼤統領と共に起草した*[8]演説を⾏い、当時、キューバの最も主要な貿易相⼿国だったソビエト

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6 2 ⽣涯

連邦の外交姿勢を「帝国主義的搾取の共犯者」と⾮難し、論争を巻き起こした。3⽉に帰国後、キューバ政府は「ゲバラをキューバ⾸脳陣から外さなければ物資の援助を削減する」旨の通告をソ連から受ける。これを受けてカストロにキューバの政治の⼀線から退く事を伝え、カストロ、⽗⺟、⼦供達の三者に宛てた⼿紙を残してキューバを離れた。この事はしばらくカストロの側近以外には知らされず、半年後の10⽉ 3⽇のキューバ共産党⼤会においてカストロが⼿紙を読み上げたことで、初めて世⼈に知られる事となった。

2.7 再び革命の戦いへ、そして死

コンゴ で

ゲバラは 1965 年中にコンゴ⺠主共和国 に渡り、コンゴ動乱 後混乱が続く現地で⾰命の指導を試みたが、コンゴの兵⼠達の⼠気の低さに失望する。

コンゴでは喘息を再発、発作に苦しめられるようになり、1966年 3⽉から 7⽉までチェコスロバキア のプラハ 近郊の町ラードビーにて、情報当局に匿われながら潜伏していた*[9]*[10]*[11]。偽名を使ったほか、髭を剃り落とし、髪を短く切るなどして別⼈になりすまし、ドイツ⼈らと滞在した。そこでチェコスロバキアの現状を⽬の当たりにし「これは社会主義ではなく、その失敗作だ」と述べたと伝えられている。7⽉ 19⽇にウルグアイのパスポートでチェコスロバキアを出国し、モスクワを経由して秘密裏にキューバに帰国した。

カストロとの会談の後、新たな⾰命の場として、かつてボリビア⾰命が起きたものの、その後はレネ・バリエントスが軍事政権を敷いており、南⽶⼤陸の中⼼部にあって⼤陸⾰命の拠点になるとみなしたボリビアを選んだ。ボリビアと国境を接するアルゼンチン、パラグアイ、ブラジル、ペルー、

チリに連絡組織が作られ、チリ社会党の指導者サルバドール・アジェンデはこれを⽀援した。1966年 11⽉、ウルグアイ⼈ビジネスマンに変装して現地に渡る。

ボリビア での最後の戦いにて

ゲバラが収容されたイゲラ の⼩学校

独⾃の⾰命理論に固執したため、親ソ的なマリオ・モンヘ率いるボリビア共産党からの協⼒が得られず、カストロからの援助も滞り、また⾰命によって⼟地を⼿に⼊れた農⺠は新たな⾰命には興味を持たなかった。さらに、元親衛隊中尉クラウス・バルビーを顧問としたボリビア政府軍が、冷戦下において反共軍事政権を⽀持していたCIAと⽶軍特殊部隊「グリーンベレー」から武器の供与と兵⼠の訓練を受けてゲリラ対策を練ったため、ここでも苦戦を強いられる事となる。農⺠とは異なり、6 ⽉ 24 ⽇にカタビ鉱⼭では鉱⼭労働者がゲバラを⽀持する動きを⾒せるも、先⼿を打った政府軍がシグロ・ベインテ鉱区でサン・フアンの虐殺を⾏って労働者を制圧すると、ボリビア国内勢⼒からのゲバラへの⽀援は事実上失われた。

1967年10⽉ 8⽇、20名前後のゲリラ部隊とともに⾏動、アンデス⼭脈にあるチューロ渓⾕の戦闘で、ガリー・プラド⼤尉率いる政府軍のレンジャー⼤隊の襲撃を受けて捕えられる*[12]。部隊を指揮していた“ウィリー”シメオン・クバ・サラビアとともに、渓⾕から 7キロほど南にある村イゲラに連⾏され、⼩学校に収容された。翌朝、60キロ北のバジェグランデからヘリコプターで現地に到着し

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2.8 死後の影響と「帰国」 7

た CIAのフェリックス・ロドリゲスがイゲラで午前 10時に「ゲバラを殺せ」を意味する暗号「パピ600」の電報を受信*[13]。午後 0時 40分にウィリーがベルナルディーノ・ワンカ軍曹*[14] にM1 で銃殺された後、午後 0時 45分、政府軍兵⼠のマリオ・テラン軍曹*[15]に右脚の付け根と左胸、⾸の根元部分を計 3発撃たれたが絶命せず、最終的には別の兵⼠に⼼臓を撃たれて死亡した。死亡の証拠として両⼿⾸を切り落とされ、遺体は無名のまま埋められた*[16]。銃撃を躊躇する兵⼠に向けて放った「落ち着け、そしてよく狙え。お前はこれから⼀⼈の⼈間を殺すのだ」が最期の⾔葉であった*[17]。ゲバラのゲリラ戦術は、キューバでの実戦経験に裏付けられて完成されたものだった。少⼈数のゲリラで⼭岳に潜伏し、つねに前衛、本隊、後衛とわけて組織的に警戒し、必要があれば少⼈数で奇襲的な襲撃を仕掛けるというものだった。

2.8 死後の影響と「帰国」

ジム・フィッツパトリックによる『英雄的ゲリラ』

ゲバラの⽣涯と思想は、反⽶ 的思想を持つ⻄側の若者や、冷戦下における南アメリカ諸国の軍事政権下で⾰命を⽬指す者たちに熱狂的にもてはやされ、その写真は1960年代の後半頃からTシャツやポスターに印刷されるシンボルとなった。南アメリカ諸国の⼤学では、現在でもゲリラ時代のゲバラの顔を描いた⼤きな垂れ幕を掲げているところがある。

1997年、キューバとボリビアの合同捜索隊により、

コロンビア国⽴⼤学 のチェ広場(サンタンデル広場)

死後 30年にして遺⾻がボリビアで発⾒され、遺族らが居るキューバへ送られた。キューバではゲバラの「帰国」を迎える週間が設けられ、遺体を霊廟へ送る列には多くのキューバ国⺠が集まった。フィデル・カストロは⻑時間のスピーチで有名であるが、この時のスピーチは珍しく簡潔であった。遺体は霊廟に葬られた。

思想的にはラテンアメリカ解放の英雄、シモン・ボリーバル、ホセ・デ・サン・マルティン、ホセ・アルティーガス、ホセ・マルティ、アウグスト・サンディーノらのアメリカ主義の系譜を引き継ぎ、同時代に同じ南⽶で⽣きたチリの⾰命家サルバドール・アジェンデとは、お互いを敬愛し続けたといわれた。また、ボリビアの⼭中で活動していた際にはトロツキーの全集を読んでいた。

冷戦体制が崩壊し、アメリカの後ろ盾を失った独裁者 が南アメリカ諸国の多くから去った今⽇でも、ゲバラは南アメリカ諸国を始めとした第三世界では絶⼤な⼈気を誇るカリスマである。特にボリビアでは「イゲラの聖エルネスト」と呼ばれ聖⼈同然の扱いである。ゲバラが最期を迎えた⼩学校は現在記念館として開放されている。

⽇本でもゲバラの肖像写真などがプリントされたTシャツが売られている他、サッカースタジアムのゴール裏のファンがゲートフラッグにゲバラの顔を描いたものを掲げていることがある。⽇本では浦和レッズのサポーターなどである。またロック・ミュージックにおいても影響を与え、⼀部アーティストは公認グッズでゲバラの顔写真を使⽤している。レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンのTシャツ、ステッカーなどである。元プロレスラーディック東郷 はゲバラを崇拝し、最後の地ボリビアにて引退している。

プロフェッショナルレスラーの⽮野啓太率いるプロフェッショナルレスリング・ワラビーが、2012年にワラビー⾰命を達成した“世紀の聖戦”、7.1「ワラビー×DDT」の DVD には、⽮野のゲバラへの多⼤なる尊敬⼼から、ジャケットにはゲバラの肖像画と共に、「ワラビー⾰命第⼀章完結」と記

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8 4 話

されている。

3 人物

アメリカの爆撃で 没した貨物船「ラ・クブル号」の犠牲者追悼⾏進に参加するカストロ(左 )とゲバラ(右から 2⼈⽬、背広の⼈物の左 )

誰よりもよく⾏動し、⾰命達成後も喘息を抱える⾝でありながら寝⾷を忘れて公務と勉学に励んだという。しかし、⾃⼰に課す厳格な規律を周囲の者にも求めたため、閣僚だった当時の部下からは「冷徹、尊⼤で、まるで我々の教師であるかのように振る舞う」と囁かれ、必ずしも好意は持たれていなかったとされる。ゲリラ軍に志願して来た農⺠にも、資格として読み書きが出来る成年者である事を最低限要求し、条件を満たさない者はどんなに熱意があろうと容赦なく切った。⼀⽅で⺠衆からはその勤勉ぶりを褒め称えられ、絶⼤な⼈気を得ていた。

フランスの作家レジス・ドブレは、⾰命軍に帯同した際のゲバラの印象を「好感は持てないが、驚嘆に値する⼈物」と評した。他にもジャン=ポール・サルトル から「20 世紀で最も完璧な⼈間」、ジョン・レノンには「世界で⼀番格好良い男」、カストロには「道徳の巨⼈」「堅固な意志と不断の実⾏⼒を備えた真の⾰命家」と評された。逆に(当然ながら)親⽶・反共主義の諸国・⼈々の間では

評価されていない。

「2つ、3つ、もっと多くのベトナム(反帝国主義⼈⺠戦争)を作れ」という彼の⾔葉に象徴されるように、武⼒闘争を圧政から逃れる唯⼀の道と断じ、アウグスト・サンディーノらの過去のゲリラ戦争をよく研究してゲリラ戦の⼿引き書である『ゲリラ戦争 (La Guerra de Guerrillas)』(1960年)を著した(しかし、その『ゲリラ戦争』においてすら「平和⾰命と選挙による変⾰の道は可能性があるのなら望ましいし追求するべきだ。しかし、現在の条件のもとではラテン・アメリカのどの国においてもそのような希望は実現されることはありそうもないと思われる」と情勢規定している)。また理想主義者でもあり、⼯業相時代にキューバ国⺠の労働意欲の低さを⽬の当たりにし、「共同体のために尽くし、労働を喜びと感じる『新しい⼈間』」の育成を⽬指し、その出現を国家展望の下敷きとした(狭義でのゲバラ主義はこれにあたる)。しかしキューバに招聘されたソ連・ヨーロッパの左翼学者達からは「理想論に過ぎる」と反発を招くとともに、現実的な政治路線を⽬指すキューバ新体制の中で、徐々に彼を孤⽴させる遠因となった。彼の直接⾏動主義と理想主義 は、前者は⼀⾯として「戦禍を撒き散らす男」のイメージとなって各国に広まり、後年彼⾃⾝のゲリラ闘争の障害となった。⼀⽅で後者は彼の⾃⼰犠牲的な⾏動⼒と相俟って、「清廉で理想に燃えた⾰命家」としての肯定的なイメージを作り出す要因ともなった。

ゲバラは喘息持ちでありながらも葉巻の愛好家として知られている。葉巻は⾰命家の象徴であり、ゲリラ戦での⾍除けにも⽤いられた。また、キューバの特産品でもあるため、これを世界に向けてアピールする狙いもあったとされている。酒は飲まず、マテ茶(アルゼンチンの国⺠的飲料)が好物。⽗親がマテ茶をプランテーション 事業で⼿がけていたこともあり、幼い頃から親しんでいた。

趣味は写真撮影で「司令官になる前、僕は写真家だった」と彼⾃⾝が語っている。カメラ は 1954年に発売されたニコン S2(レンズはNikkor-N 5cmf1.1)を愛⽤していたが、⾰命戦争中に同じ部隊にいた軍医オスカル・フェルナンデス・メルに譲った。代わりに旧ソ連製のキエフを貰った。上記のS2 は現在もハバナのカバーニャ要塞に保管されている。

4 逸話

• 国⽴銀⾏総裁に就任した際、それまでフルネームで⾏うことが慣例だった紙幣へのサインに「チェ」とだけ記した。貨幣に否定的な考えから⾏われたものだとされる。また、⾦融に関して素⼈であるゲバラの総裁就任を訝った⼈々が、以下のようなジョークを囁いていた。「新政府の閣僚を決めるに際し、カストロが「誰かエコノミスタ(経済通)はいないか?」と

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尋ねた。連⽇の激務で疲労し、居眠りをしていたゲバラがこれを「コムニスタ(共産主義者)」と聞き間違えてとっさに⼿を挙げ、彼の国⽴銀⾏総裁就任が決まった」実際にはこのような事実はなかったが、正式な就任発表の際には⼩規模ながら預⾦の取り付け騒ぎが起きるなど⾦融不安が広がった。

• 現在のキューバ 3ペソ紙幣にその肖像を⾒ることができる。

• 常⼈離れした⼤胆な発想と⾏動⼒で知られるが、キューバ上陸直後に仲間の半数以上が死亡、捕縛されたにもかかわらず「俺たちは『17⼈も』⽣き残った。これでバティスタの野郎の命運は尽きたも同然だ!」と⾃信満々にいってはばからないカストロを⾒て、悲嘆のあまり発狂してしまったのかと本気で⼼配してしまった。しかしその後に、情報の重要性に注⽬したカストロの戦略眼や、ゲバラの「捕虜は殺さない」という⽅針が功を奏し⾰命に成功した。

• ボリビアのゲリラ基地に⼊る際、トヨタ製のジープ型 4輪駆動⾞に乗っていた。

• 1956 年 12 ⽉、グランマ号がキューバに上陸して直後、アルグリア・デ・ピオの地で、政府軍から突然の集中砲⽕を受けたためゲリラ部隊の仲間達がサトウキビ畑の中に逃げ込もうとしている時、仲間の⼀⼈がゲバラの⾜元に、中⾝の詰まった弾薬箱を置き去りにして⾏ってしまった。もうひとつ彼の⽬の前には、医薬品の詰まった背嚢があったが、弾薬箱と医薬品の両⽅を背負うのは重すぎると思われた。彼⾃⾝もまたサトウキビ畑に逃げ込もうとする際、「医者としての天職と⾰命戦⼠としての義務のどちらかを選ぶかのジレンマに直⾯させられた⼀瞬であった」*[18]が、弾薬箱だけを⼿に取り、⾛り出した。

• ゲバラを処刑した元兵⼠は後年、⽬の治療のために第三世界で最も⾼度な医療を無料で受けられるキューバを訪れたが、同国政府は特に問題にせず、彼は無事に治療を受けることができた。

5 語録

• バカらしいと思うかもしれないが、真の⾰命家は偉⼤なる愛によって導かれる。⼈間への愛、正義への愛、真実への愛。愛の無い真の⾰命家を想像することは不可能だ。(国連総会出席のためにニューヨーク滞在中、インタビューでの質問“⾰命家にとって重要なことは?”に応えて)

• 祖国か、死か!(これは7⽉ 26⽇運動のスローガンでもある)

• 酒は飲まない。タバコを吸う。⼥を好きにならない位なら、男を辞める。だからと⾔って、あるいはどんな理由であっても、⾰命家としての任務を全う出来ないのなら、僕は⾰命家を辞める。

• 世界のどこかで誰かが被っている不正を、⼼の底から深く悲しむ事の出来る⼈間になりなさい。それこそが⾰命家としての、⼀番美しい資質なのだから。(5 ⼈の⼦供達に遺した⼿紙の⼀部キューバを去ってボリビアに向かうに当たり⾃分の死を予感して)

• もし私達が空想家のようだと⾔われるならば、救い難い理想主義 者だと⾔われるならば、出来もしない事を考えていると⾔われるならば、何千回でも答えよう、「そのとおりだ」。

6 日本語訳著作

• 1967年『ゲリラ戦争』(『三⼀新書』)、五⼗間忠⾏訳、三⼀書房

•『ゲリラ戦争キューバ⾰命軍の戦略・戦術』中公⽂庫 BIBLIO、2002

• 1967年『⾰命戦争の旅ゲバーラ回想記』、⻘⽊書店

• 1967年『⾰命の回想』筑摩書房

• 1968年『ゲバラ⽇記』(『三⼀新書』)真⽊嘉徳訳、三⼀書房

• 仲晃・丹⽻光男訳 -- みすず書房、1968、新版 1998

• 朝⽇新聞社外報部訳 --朝⽇新聞社、1968• ⾼橋正訳 --⾓川⽂庫、1969、復刊 1989、改版 1999

• 真⽊嘉徳訳 --中公⽂庫BIBLIO、2001.

• 1968年『ゲバラ選集』第 1、⻘⽊書店

• 1956年 - 1961年 4⽉、フィデルに捧げる歌、他 32編

• 1968年『⾰命ゲバラは語る』合同出版

• 1968年『国境を越える⾰命』レボルト社

• 1969年『ゲバラ選集』第 2、⻘⽊書店

• 1961年 4⽉ - 1962年 10⽉、キューバの⼯業発展に関する報告、他 18編

• 1969年『ゲバラ選集』第 3、⻘⽊書店

• 1962年 12⽉ - 1964年 3⽉、アントニオ・マセオ、他 19編

• 1969年『ゲバラ選集』第 4、⻘⽊書店

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10 7 参考⽂献・関連資料

• 1964年 3⽉ - 1967年 10⽉、ジュネーブでの演説国連貿易開発会議、他 19編

• 年譜: p315 - 326

• 1982年 8⽉『⾰命戦争の⽇⽇』(訳:三好徹、集英社⽂庫)ISBN 4-08-760071-8

• 1997年 10⽉『チェ・ゲバラモーターサイクル南⽶旅⾏⽇記』(訳:棚橋加奈江、現代企画室)増補新版、2004年 9⽉ ISBN 4773804084

•『モーターサイクル・ダイアリーズ』(⾓川⽂庫、2004年)ISBN 404-3170025

• 2001年 10⽉エルネスト・ゲバラ・リンチ編『チェ・ゲバラ America放浪書簡集ふるさとへ1953-56』現代企画室、ISBN 4-7738-0102-6

• 2004年 11⽉『チェ・ゲバラ第 2回 AMERICA放浪⽇記』(訳:棚橋加奈江訳、現代企画室)ISBN 4-7738-0410-6

• 2007年 11⽉『ゲバラ⽇記新訳』(訳:平岡緑、中公⽂庫)ISBN 978-4-12-204940-6

• 2008年 2⽉『⾰命戦争回顧録』(訳:平岡緑、中公⽂庫)ISBN 978-4-12-204981-9

• 2008年 5⽉『ゲバラ世界を語る』(訳:甲斐美都⾥、中公⽂庫)ISBN 978-4-12-205027-3

• 2008年 7⽉『ゲリラ戦争キューバ⾰命軍の戦略・戦術新訳』(訳:甲斐美都⾥、中公⽂庫)ISBN 978-4-12-205097-6

• 2010 年 6 ⽉『マルクス = エンゲルス素描』(訳:太⽥昌国、現代企画室)ISBN 978-4773810097

7 参考文献・関連資料

• リデル・ハート編『解放の戦略⽑沢東とゲバラ』佐藤亮⼀訳、番町書房、1965年

• レジス・ドブレ『⾰命の中の⾰命』(『晶⽂選書』)⾕⼝侑訳、晶⽂社、1967年 11⽉

• ⼩林富雄『⾰命児ゲバラ』⾵媒社、1968年

• 横堀洋⼀編訳『ゲバラ・⾰命と死知られざる⻘春と闘いの記録』講談社、1968年

• リカルド・ローホ『わが友ゲバラ』伊東守男訳、(『ハヤカワ・ノンフィクション』)早川書房、1968年 10⽉

• ジャン・ラルテギー『ゲバラを追って中南⽶のゲリラたち』岩瀬孝、根本⻑兵衛訳、冬樹社、1968年

• カストロ、ドブレほか『回想のゲバラ』⼤林⽂彦編訳、太平出版社、1969年 5⽉

• ⽶州機構安全保障に関する特別協議委員会編『ゲバラ⽇記の分析⽶州機構の報告書』ラテン・アメリカ協会訳、ラテン・アメリカ協会、1969年

• ブエノスの灯編『ゲバラ写真集チェ』現代書館、1969年

• ⼭本満喜⼦『炎の⼥性たちカストロ、ゲバラを⽀えて⼗年』読売新聞社、1969年

• キューバ国⽴出版協会編『タニアゲバラと運命をともにした若き⼥性ゲリラの闘いと死』桃井健司訳、サイマル出版会、1971年 7⽉

• アンドリュー・シンクレア『ゲバラ』皆藤幸蔵訳、(『現代の思想家』)、新潮社、1971年 9⽉

• 原著: Guevara, London: Collins, 1970; CheGuevara, New York: Viking, 1970; SuttonPublishing, 1998 (reprint), ISBN 0-7509-1847-0

• 三好徹『チェ・ゲバラ伝』⽂藝春秋、1971年

• フィリップ・ガヴィ『チェ・ゲバラ』⼭⽅達雄訳、福村出版、1975年 9⽉

• レジス・ドブレ『ゲバラ最後の闘いボリビア⾰命の⽇ 』々安部住雄訳、新泉社、1977年 9⽉

• 三好徹『異郷の罠』(『徳間⽂庫』)、徳間書店、1985年 2⽉

• エドワルド・リウス『チェ・ゲバラリウスの現代思想学校』⻄沢茂⼦、⼭崎満喜⼦訳、晶⽂社、1986年 6⽉、ISBN 4-7949-2024-5

• 原 著: AbCHE: Biografía simple ysencillamente de un revolucionario de nuestrotiempo, Grijalbo, 1978, ISBN 968-419-052-2

• フェリス・I.ロドリゲス、ジョン・ワイズマン『秘密⼯作者チェ・ゲバラを殺した男の告⽩』落合信彦訳光⽂社、1990年 10⽉、ISBN4-334-96051-0

• 原著: Félix I. Rodríguez, John Weisman,Shadow Warrior/the CIA Hero of a HundredUnknown Battles, Simon& Schuster; (October1989), ISBN 0-671-66721-1

• マリア・デル・カルメン・アリエット『チェ・ゲバラの政治思想』丸⼭永恵訳、IFCC 出版会、1992年

• 原 著: Maria del Carmen Ariet, Chepensamiento político

• フェルナンド・ディエゴ・ガルシア、オスカー・ソラ編『チェ・ゲバラ情熱の⼈⽣』レナーテ・ヘロルド訳スタジオ・ナダ、1997年

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11

• エドワルド・リウス『チェ・ゲバラ』⻄沢茂⼦、⼭崎満喜⼦訳(『リウスの現代思想学校』新装版)、晶⽂社、1997年 12⽉、ISBN 4-7949-1255-2

• 原著: Rius, Abche: Abche-Political Satire, EraEdicions Sa Published, 1999年、ISBN 968-419-052-2

• オズバルド・サラス、ロベルト・サラス『エルネスト・チェ・ゲバラ』星野弥⽣訳、海⾵書房、1998年 6⽉、ISBN 4-7684-8859-5

• 写真集、原著: Osvald Salas, Roberto Salas,Ernesto Che Guevara

• 三好徹『チェ・ゲバラ伝』原書房、1998 年 7⽉ISBN 4-562-03100-X

• アルベルト・コルダ写真、ハイメ・サルスキー、太⽥昌国『エルネスト・チェ・ゲバラとその時代』棚橋加奈江訳、現代企画室、1998年 10⽉ISBN 4-7738-9806-2

• Albert Korda, Jaime Sarusuky, Masakuni Ota,Ernesto Che Guevara y su epoca: Colección defotografías de Korda

• パコ・イグナシオ・タイボ II、フェリックス・ゲーラ、フロイライン・エスコバル『ゲバラコンゴ戦記 1965』神崎牧⼦、太⽥昌国訳、現代企画室、1999年 1⽉、ISBN 4-7738-9807-0

• 原著: Paco Ignacio Taibo, Félix Guerra,Froilán Escobar, El año que estuvimos enninguna parte: La guerrilla africana deErnesto Che Guevara, Txalaparta Argitaletxea,S.L., ISBN 84-8136-019-8

• 樋⼝聡『僕とゲバラとラティーノたちラテンアメリカ放浪記』スリーエーネットワーク、1999年 7⽉、ISBN 4-88319-136-2

• ⼾井⼗⽉『ロシナンテの肋チェ・ゲバラの遙かな旅』集英社、2000年 3⽉、ISBN 4-08-774464-7

• ⼾井⼗⽉『ゲバラ最期の時』集英社、2009年1⽉ 5⽇、ISBN 4087814122

• ⼾井⼗⽉『遥かなるゲバラの⼤地』新潮社、2006年 6⽉ 29⽇、ISBN 4104031054

• ⼾井⼗⽉『チェ・ゲバラの遥かな旅』集英社⽂庫、2004年 10⽉ 20⽇、ISBN 4087477533

• 恵⾕治『1967 年 10 ⽉ 8 ⽇チェ・ゲバラ死の残照』毎⽇新聞社、2000年 5⽉、ISBN 4-620-31442-0

• 太⽥昌国『ゲバラを脱神話化する』現代企画室、2000年 8⽉、ISBN 4-7738-0005-4

• パコ・イグナシオ・タイボ II『エルネスト・チェ・ゲバラ伝』上・下、後藤政⼦訳、海⾵書房、2001年 6⽉、上: ISBN 4-7684-8875-7、下:ISBN 4-7684-8876-5

• 原著: Paco Ignacio Taibo II, Ernesto Guevara,también conocido como El Che, 2001, PlanetaMexico; (January 2004), ISBN 970-690-981-8

• イルダ・バリオ、ギャレス・ジェンキンズ『チェ・ゲバラフォト・バイオグラフィ』鈴⽊淑美訳、原書房、2003年 12⽉、ISBN 4-562-03679-6

• Hilda Barrio, Gareth Jenkins, The CheHandbook, St. Martin's Press; (October 1,2003), ISBN 0-312-32246-1

• アルベルト・グラナード『トラベリング・ウィズ・ゲバラ』池⾕律代訳、Gakken、2004年 10⽉、ISBN 4-05-402609-5

• ジャン・コルミエ『「知の再発⾒」双書 120チェ・ゲバラ⾰命を⽣きる』松永りえ訳、太⽥昌国監修、創元社、2004年 12⽉

• フィデル・カストロ『チェ・ゲバラの記憶』柳原孝敦監訳、トランスワールドジャパン株式会社、2008年 5⽉、ISBN 978-4-86256-011-7

• アレイダ・マルチ『わが夫、チェ・ゲバラ愛と⾰命の追憶』後藤政⼦訳、朝⽇新聞出版、2008年 5⽉、ISBN 4-02-250432-3

8 ゲバラを題材にした作品

8.1 映画

• 1969年『ゲバラ!』(アメリカ、監督:リチャード・フライシャー、主演:オマー・シャリフ)ビデオ題『⾰命戦⼠ゲバラ!』

• 1985年 Fernando Birri, Mi hijo el Che - Un retratode familia de don Ernesto Guevara

• 1994年 Richard Dindo, Ernesto Che Chuevara, dasbolivianische Tagebuch

• 1997年Miguel Miño, Ernesto Che Guevara

• 1997年『伝説になった英雄』(フランス、監督:モーリス・ダゴソン)ドキュメンタリー

• 2000年『チェ・ゲバラ⼈々のために』(アルゼンチン、監督:マルセロ・シャプセス)

• ⽣前のチェ・ゲバラと寝⾷をともにした元闘⼠や写真家たちへのインタビューや現存する映像を駆使したドキュメンタリー。

• 2004年『チェ・ゲバラ DVD-BOX』

• 2004 年『モーターサイクル・ダイアリーズ』(イギリス・アメリカ、主演:ガエル・ガルシア・ベルナル)

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12 9 脚注

• ゲバラが南⽶⼤陸を横断した若き⽇々を綴る、ウォルター・サレス監督によるロード・ムービー。

• 2005 年『チェ・ゲバラ & カストロ』(アメリカ、主演:ピクトル・フーゴ・マルティン、ゲバラ役:ガエル・ガルシア・ベルナル)

• 主⼈公はカストロでゲバラは脇役。

• 2005 年『チェ・ゲバラ -⾰命と戦いの⽇々-』(アメリカ、主演:エドゥアルド・ノリエガ)

• 2008 年『チェ28 歳の⾰命 / 39 歳別れの⼿紙』(アメリカ・フランス・スペイン、主演:ベニチオ・デル・トロ)

8.2 音楽

• 1965年アスタ・シエンプレ(カルロス・プエブラ作詞作曲)。

• ゲバラがキューバを去ったことが発表されたことを受けて、そのゲバラへの感謝の気持ちを捧げるために作られた曲。その美しさから現在でも幅広く歌われ続けており、ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブもカバーしている。

• スライ &ロビー

• スライ & ロビーらが 1976 年にレヴォリューショナリーズとして発表したアルバム『Revolutionaries Sounds』のジャケットは『英雄的ゲリラ』を模写したものである。

8.3 ゲーム

•『ゲバラ』(SNK) - 1987 年にアーケード版と、1988 年にそれを移植したファミリーコンピュータ版がそれぞれ発売された。ジャンルは縦スクロールシューティングゲームで、プレイヤー1のキャラはゲバラ、プレイヤー2のキャラはカストロ。更にラスボスはゲバラ達がキューバ⾰命で追い出したフルヘンシオ・バティスタ。

•『メタルギアソリッドピースウォーカー』(コナミ)- 2010年に発売されたPSP⽤潜⼊諜報アクションゲーム。舞台となっているのは 1974年のコスタリカ、ニカラグア。チェ・ゲバラ本⼈は登場しないが、物語に少なからぬ影響を与えている。

•『トロピコ 3』(PopTop Software) - 2009年に発売されたシミュレーションゲーム。カリブ海に浮かぶ島国の⼤統領 に就任出来るキャラクターとして登場している。Xbox 360版では、チュチュ・ゲバン名義

8.4 漫画

•『⾰命児ゲバラ』(みやわき⼼太郎)- 週刊少年ジャンプにて、創刊 1周年記念作品として1969年 14号〜 16号まで掲載された短期集中連載作品。

8.5 絵画

•『Che Guevara (RED)』-ロンドン在住のアーティスト、コンラッド・リーチが 2008年に発表した新作。帽⼦を被った写真が有名なゲバラだが、この絵画では葉巻をくゆらす姿が描かれた。

9 脚注

[1] Che Guevara at United Nations

[2] チェ・ゲバラ未公開⽇記ハバナで出版

[3] チェ・ゲバラの未公開⽇記、50年を経て出版

[4]「東京へ来たカストロ・ヒゲ」朝⽇新聞 1959年 7⽉27⽇付け

[5] 1959年 7⽉ 26⽇、中国新聞

[6] Che Guevara's daughter visits bomb memorial inHiroshima, The Japan Times, Friday, May 16, 2008

[7] 三好徹『チェ・ゲバラ伝』⽂春⽂庫ISBN 456203386X

[8] ジャン・コルミエ『知の再発⾒双書 120チェ・ゲバラ⾰命を⽣きる』松永りえ訳、太⽥昌国監修、創元社、2004年 12⽉、97⾴

[9] “ゲバラ、ひげそって潜伏=チェコに死の1年前-地元紙”. 時事ドットコム (共同通信社). (2010年1⽉ 23⽇) 2010年 1⽉ 23⽇閲覧。

[10] “チェ・ゲバラ、処刑前年にチェコ潜伏の新事実か”. AFPBB News (フランス通信社). (2010年 1⽉ 23⽇)2010年 1⽉ 23⽇閲覧。

[11]“ゲバラ、死の前年に仲間とチェコ潜伏”. YOMIURIONLINE (読売新聞社). (2010年 1⽉ 23⽇) 2010年 1⽉ 23⽇閲覧。

[12] プラドは後に「"Como Capture al Che”」という回想録を出版し、その中で⾃分はゲバラを捕えただけで、殺害は命じておらず、関与もしていないとしている。

[13] 処刑は⽶国 CIAのフェリックス・ロドリゲスとともに到着したボリビア国軍情報局のセンテーノ・アナヤ⼤佐の指⽰による。ゲバラについては顔や頭は撃たないように指⽰した。

[14] ワンカ軍曹はその後報復を恐れ、ボリビアから離れてアメリカに亡命している。

[15] テラン軍曹は 30年近く基地内で暮らし、顔の整形⼿術を経て、現在はボリビア東部の農園で暮らしている。

Page 13: チェ・ゲバラsosin108.com/pdf/Che Guevara.pdfChe)」(「el」男性定冠詞単数形)といえば彼の事 を指す。1 年譜 1928年6 14 、アルゼンチン第 の都市ロ

13

[16] Che Guevara is executedThis Day in History, 2013, Oct 9

[17] Pasajes y personajes de la guerrilla de Ñancahuazú意訳のうえ、解釈が様々である為これ以外の表現もある。

[18]『⾰命戦争回顧録』平岡緑訳、中公⽂庫、p25

10 関連項目

11 外部リンク

• El sitio más completo sobre el Che en Bolivia(ボリビアでのチェ・ゲバラ直筆⽇記。スペイン語)

• 松岡正剛の千夜千冊『ゲバラ⽇記』

• 粉川哲夫の【シネマノート】(『モーターサイクル・ダイアリーズ』2004年 7⽉ 5⽇)

• Che Guevara in La Patria Grande Caracas - Video(英語)

• Che-Lives.com(英語)

• Wikiquote - Quotes by Ernesto 'Che' Guevara(Wikipediaの姉妹サイト Wikiquoteの引⽤集。本⽂はスペイン語)

• ART FOR A CHANGE: Alberto Korda (Rest inPeace)(アルベルト・コルダによる、もっとも有名な肖像写真の紹介。英語)

• Che, Guía y Ejemplo: Photos, Songs (mp3) andVideos