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442 《資 料》 近世一農書‥徳山 『 農業子孫養育 の 成立 一本農書の 内容 日本農書の構成 ⇔本農書の『農業全書』との対比照合 日本農書の『農業子孫養育草控』との異同 二本農書成立の 背景-地域の 特質 H山中地域の概況 0上徳山村の農業生産 三本農書成立の 背景-家と人 目徳山家の概略 ⇔徳山家の経営状況 目徳山敬猛の人と業 四本農書の成立 日本農書の 地域的特質 日本慶喜の成立 -・( 以上本号) 220

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442

《資

料》

近世

一農書

‥徳山敬猛著

『農業子孫養育革』の成立

本農書の内容

本農書の構成

本農書の

『農業全書』との対比照合

本農書の

『農業子孫養育草控』との異同

本農書成立の背景-地域の特質

H

山中地域の概況

0

上徳山村の農業生産

本農書成立の背景-家と人

徳山家の概略

徳山家の経営状況

徳山敬猛の人と業

本農書の成立

本農書の地域的特質

本慶喜の成立

-・(以上本号)

220

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近世一農書 :徳山敬猛著 『農業子孫養育草』の成立 (1)441

(2)

本論は'これまでに翻刻を行なってきた

一八二六

(文政九)年の徳山敬猛著

『農業子孫養育草』の成立過程

を検討し'本書の特質を検討するものである。

この農書は、すでに小野武夫編

『近世地方史料

第四巻』(一九三二年

同刊行会)に翻刻されており、つとに世

に知られている農書である。そこでは、「文政九年丙戊六月、美作の人、徳山敬猛の著す所にして、農事の沿革

概要より、麦の陽、稲の陰なるを説き、夫より種芸、節気、分限、男女子の使用法、種籾の撰択、耕作方等を

記したる有用の書なり。其の父清延にも椎子道教抄の薯ありと云へり。原本は岡山県より農商務省に進達する

所にして、美作国大庭郡徳山村徳山馬太郎の蔵書を借写せしものに係る」(四ページ)という解題がなされてい

て'「有用な農書」として紹介されている。また

一九七〇年代からの農書への関心の高まりのなかで刊行された

農書読書手引ともいうべき古島敏雄編著

『農畜の時代』(一九八〇年

農山漁村文化協会)においては、その地域別主

要農書1覧に本書もあげられ、「農事の沿革、麦の陽草、稲の陰草、種芸'分限、農具の選択、飼牛、種籾の撰択などの項目

からなる。『農業全書』『農稼業事』に類似した点も少-ない」(二五九ページ)との解題がつけられている。農業全書と

の類似の多いことを指摘しているが、この一覧の選択基準の一つに

「他の農書からの引用が多いものや偽版も

どきの書は省いた」(二四八ページ)とあり、『農業全書』等との類似はあ

ってもオリジナルな農書としての評価

を受けているのであるC

前掲の小野武夫編纂書の序によると、農商務省によって収集された農書類は

1九二三

(大正

一)年の関東

大震災によって灰塵に帰したが、農商務省に勤務していた小野武夫は同省文庫の農書類のかなりのものを筆写

していて'前掲小野武夫編纂書に翻刻

・収禄された本農書はそれをもとにしたものである。活字本に収録され

219

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た本農書の小野筆写本は残

っていない。ところが'この農書を筆写していた者が他にもいた。福島県の人、初

瀬川健増がその人で'彼は農商務省に赴き同省文庫にある進達筆写本を筆写していて'それは初瀬川文庫中に

ある。進達本は焼失し、小野筆写本もいまはな-、小野筆写本をもとにした翻刻

・活字本があるのみという状

況では、この初瀬川筆写本が原本に最も近いものと考え'この初瀬川筆写本にもとづき、本書の翻刻を行なっ

たoLかしその後に'徳山敬猛自筆本が発見されたCそこでこの徳山敬猛の自筆本による翻刻を行ない、『農業

(-)

全書』との対比を行なった。

ところで、この徳山敬猛には本書作成の二年前に

『農業子孫養育革控』という、本文中に

「農業子孫養育草

となつけ」とある、まさし-本書と同

7の書名のものを作成している。この

『農業子孫養育草控』の翻刻と本

(2)

書との比較対照も行な

った。

本論はこのように原本を翻刻、紹介した本農書の成立過樫を検討し、本書の特質を考察するものである。

218

7

本農書の内容

本農書の構成

本農書は、農業子孫養育草序という自序と、本論部分'そして中福田村福田神社神官の藤原重行による鉄か

ら成

っている。

自序では本書執筆の理由を記している。母方の祖父の本名清延は

「稚児道教抄」という書を記している。そ

れは家相続を図るうまでのすぐれた遺訓であるが、しかし家存続の基礎である農業についてのものではない。

家相尿のもとは農業であり、「去によって当家先祖より代々相続の農法

数代なれハ略し、只今存(坐)の敬寛中にも

(3)

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近世-農書 :徳山敬猛薯 『農業子孫養育草』の成立 (1)439

(4)

農功アリ。田地開発の成功を子孫に伝ソため、石塔に鍬を持し老人ノ(餐)を切付たり。此心を感心スへし

を無情怠いと

な、,、勤なバ幾代も相続すへしと」と思い、「日頃の工夫に四寸の胸中をいたミ'愚者も千慮すれハ一ツ徳ありと

いへる語にもとつき、千慮

ハをろか万々虞を尽し」たが、「無知短才の老惇」で、「よき分別も出」ない。その

ようなときに、「農業全書を粗

へ?I.,h)見」たが、これに、「久世便数の旨を伺ひ、近郷に老農

(頴

の)の説を聞、

功あるを取まLへ、予か尺寸の試覚あるを加へ、此土地に応すへき要を拾ひ」、1書としたCこれを

「農業子孫

養育草と号て子孫に授与す」る。このように本書を執筆する理由を記している。

ひきつづき、「しかハあれと、吾本より無学なれハ著作の才な-たゞ魯魚の誤り多からん。はた文詞を飾る事

あたハす。(仮名

ハいゐひ'ゑへ、うふ、やうよう、をお、の違ひ多かるべLo)かなつかひも知らされとも、

此書は偏に農家の為に用る事なれハ、文盲の耳目に通し安からしめんと、此辺通用の俗語にうつせり」、とこの

書は農家のために書いたものであると記している。そして、「子孫を憐ミ農術におゐて当地の土宜にしたかひ'

217

万か

助けとならんことを思ひ、管見の及ふところを書綴」

ったものである。なお,文才のある者が出て増

I

補などしてよりよいものにし、それにもとづいて農業を勤めれば、家は末長-栄えるであろう。

本論部分は、農事

l殻について述べた前段部分と四

1項目にわたる後段部分からなる。前段部分は、「抑農業

は国家の大本なり。上ミ天子より下モ庶人に至るまて、生を養育する五穀を作り出して納るものなれは、是天

下の宝といふものなり。故に古

へ聖賢の政事にも耕作を根元とし給ふといへり」に始まり、「此理ハ農に限らす

万事に心得あるへし。皆勤慎なり」までである。農事の沿革概要'麦の陽草、稲の陰草、そして農業の陰陽の

理にしたがうべきことを説いている。これは、すでにみたように、美作国久世代官所代官の早川八郎左衛門正

妃の

一七九九

(寛政八)年の

『久世傑教』という農民教諭書の

「勧農桑」からの養蚕に関する部分を除いた大

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幅な引用である。

この前段部分のあとに四

1項目にわたる叙述があり、これが本書

の中心部分である。それを第

1項から順次

みていく。

農業全書は元禄のむかし筑前宮崎安貞翁'四十余年農民を友としてみつから心力を尽し手足を労して農業をいと

な,,、種椿の道に委し-、又貝原希信先生農法審なれハ、此二老人唐の農書を考へ本邦の土宜

八㍍

にしたかひ、

農功の助となるへき事を撰らみ編集して世に著し給ふO・・-・是ヲなけく思ひ農業全書をあミて万民を恵,,,玉ふは

本邦農書の権輿

(小シ)万世不朽の御厚恩なり.

凡いにLへ聖人の政は、専ら教養の二つに出す。農業の術

ハ人を養ふ本なれハ'農法-ハしからされハ五穀すく

なくして人民生養をと-る事なし。-…然るに日本の地ハ南北の中央に当れるにや'陰陽の気正し-寒暑も中和

にかなひ'甚しき天災地禍もな-、・

-・・農事を励、種桂の道をよ-弁へ無怠勤る時は農術世々に熟し五穀よく実のり、衣食の養ひたりて各相続せは

をのつから貴る心もな-、風俗すなはに和順し'‥・

此書をよみ其大概をしるといふとも、日々農事を専らに心を尽し力を用て実に其理を執行し、修練会得せされ

無益の徒事なり--

此書も度々よみ記諭する人ありとも'其身にハ勤メ疎にしてよく呑込た顔付にてJよりノ\のロ遊

一座の物かた

りなとにしては更に益なし。・

凡手芸の事にハ四季八節二十四節を考て

四季ハ春夏秋冬1.<節ハ・・・・-其時日にを-れす、時々に耕種るを肝要とする

なり0--

(5)

216

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近世-農事 :徳山敬猛著 『農業子孫養育草』の成立 (1)437

⑤⑥⑦⑧⑨⑲⑪㊨⑬⑭⑮⑲⑰⑬

(6)

五穀其外草の類ハ大かた節気に先達て生る物なるゆへ、少早きかよし0-…寓の物其時分〈

の気を得て発生す

るゆへ'それ-′トの物生る時分をよ-はかりて己に生せんとする時うえ'・

惣て蒔物は午

へ爪)の刻前宜Lo蒔たる土の其目かハ-をよしとす。昼より前ハ陽気も盛んなれハなりO

八州サ)類稗荏子なとの苗を外へ移しうゆる物は午

(豊

の後よLo

前条にも述ること-農人ハ常に暦を見て土用八専節かハりを考へ風雨ホの変あらんことを心にかくへし。・

惣て事を前に走る工夫

ハ農事に限らねとも'農人ハ取分心を用ゆへし。‥

耕作

ハ天地の恵にてそたつものゆへ年中陰陽の考第

1なりO夫陰陽の埋りハ至て探しといへとも、耕作に用る所

ハ其心を付ぬれハさとり安Lc・・

〇耕作にハ多-の心得ありO先我身の分限をよ-71はかりて田島を作るへし。・・・-

道教抄第二巻に一年の計ハ春耕にあり、春耕されハ秋の功なし。・

百姓ハ農具を撰らみて遣ふへし。農人精力を尽すといへとも農具あしけれハ仕事のしるしなきものなり。・

農業ハ牛

(悪症の牛又は高値の牛求へからす、中くらいよし)のよしあしにて益不易有O又牛の飼やう甚大事な

り、'--

田島

ハ年々に土地をやすめて作るをよしとす。・

種子ものハ五穀に限らす種をゑらふ事肝要也。・

栗稗の類

ハ其畠にて穂ふと-色よきをぬき穂にしてつり置へLo

大小豆の類ハ粒揃ひて色つやよきを種とすへし。

物種を置所ハ土蔵をよしとす。されとも湿気にふれさる心得すへし。

惣て物たわハよ-i

吟味して少し損したるをもうゆへからす。-‥

2 15

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㊨㊨㊨㊨㊨㊨㊨㊨㊨㊨㊨㊨㊨㊨㊨㊨

雑りたるたわをうゆへからす。春て多-減てもしらけになりかたし。・

いねに赤米其外色のあしき米の経るなとハ其たわのゑらみあしきゆへなり。・・・・・・

耕作

(")物を作りてハあしきものなりと老人の唯を聞伝ふ。…-

春の耕ハ冬至より五十五日にあたる頃菖蒲の初て芽たつを見て

菖蒲ハ百草に先立て生るものなるよし耕し始るものと

古書に見へたり。…・

春の耕ハ撃てそのま・・1把にてかくへLo春

ハ風おはきゆへすきて久しく置ハ'土かわき過うつけて土性ぬ-るも

の也。

撃て間を置日数をふれハ雨にあひて塊の性ぬけ陰気そこにとをして甚あしき事なり。

一棟六と云事あり。是

ハ一度撃てハ六度かきこなせといふ事なり。--

耕しハ肥土斗りを平かにすへLo若深-して底の生土をうこかせハ、-・

土の性によりしげ-か-へからさるも間にハあるへLO細砂の弱-やハらかなる地、・・・

田ハ秋耕も宜し。秋稲を刈おハりて一日も早-撃たて'よこ

何へんもかき置、=

夏至

へ相月)ハ天気始て著し。されとも陰気

ハ此時始てきさすO・・・・・・

田の角をうつ事深-打て其土をさらへ出し置へし。--

睦のぬりやう大事。稲

ハ水にてそたつものゆへ少し水洩たる所ハ稲の出来あしく実入りわろし。

苗代の事

一大事なり。右にも述ること-種ものハ生物の根元'秋の実のりの元なれ

ハ'大切にこしらへて蒔

し。-・

百代水引やう、ほしめハ随分浅-苗の延るに随ひ少しっゝ深-すへし。-・

苗代こへに青芽とて柳の芽立を短-刈て入ル事あり。されとも此辺にてハ芽立遅-'何ほとも芽吹不申、-

(7)

2 1 4

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近世-農書 :徳山敬猛著 『農業子孫養育草』の成立 (1)435

田島を仕付て後草を去て其板を絶へし。租秀とて苗によ-似たる草あり。・

島物ハ苗生して烏耳のこと-なる時中打するともいへり。-≡

作物の中うちをあら-うつ事あし-、只草の根を葱にうちきりて作りの板にあたへるへからすo

中うちハほしめさら-1と軽-うち、二遠めハ深-、三遠めハ浅きかよし。いかんとなれハ‥

穀子ハ立板の精より生るものなれハ、突入を求る類の物ハ立板のさきをよくやしなふへし。-

芸事心あし-てハ悪Lo心を静にlLは-ハし-恋にすへし。・

田畠に良薄

(如jVぁり、土に肥鹿

(監

)ぁり0薄-やせたる土地に糞を用るハ農事第

1の事也。

中福田村福田神社神官の藤原重行による欧文は、農の尊ぶべきことを説き、すでに宮崎安貞'貝原篤信の著

作があり、それはすぐれたものであるが、「其国所によりてさむさとあたゝかさのけちめもいささかあれ

ハ、天

か下を

一筋にも論ひかた」いのである。「此むねを徳山敬猛主ふか-かんかへて、年ころ農の道にこころをつ-

し身をはたからかしめて、このさとによ-叶ひてあきの実のりの助となるへきす

へを、みつからこころみしり

て其おもむきをねむころに書あつめて'子孫養育草となん号て永く伝て農に幸を得んことをはかられけるハ、

いとしまめやかなるこころはへになんありける」と敬猛を讃え、敬猛の求めに応じて

一筆書き添えた、という

ものである。

本農書の

『農業全書』との対比照合

本書には

『農業全書』に類似した箇所が少な-ないことはすでに指摘されているところであるが、著者徳山

敬猛自身がこの

『農業全書』を読み'これを讃え、これによったことを記している。本書とこの

『農業全書』

213

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434

との関わり、その依拠の度合が

1論点である。以下、本書

『農業全書』と

の類似箇所

について検討

してい

.′\本書本論中の各項と同

一文章、類似文章を

『農業全書』から拾

いだし'そのページ数を示すと

つぎのように

なる。(②

)…・・・凡いにLへ聖人の政

ハ、専ら教養の二つに出ず。・

・(1六-1七ページ)

抑日本の地ハ'南北の中央に当れるにや、陰陽の気正しく、寒暑も中和にかなひ'・-二

一九ページ)

故によ-農術をしりて後農功を勤むべし。--衣食たりて後'礼節行ハる1理なれば、民種植の道をよ-しりて

五穀ゆたかに、′衣食の養ひた

Ji

て'其所を得バ、-

・・(1九ページ)

(③)農家此書をよミ其大概をしるといふとも、日々いとなむ農事について、心を尽し、力を用て、実に其理を事の上

に執行

八景

紬VL、勤めて修練会得

(㍑認

)せずハ、唯是無益の徒事なるべし

・・・・・・(二九~三。ページ)

(④)-・=凡手芸の事にハ、四季、八節'二十四節を考えて

四季ハ春夏秋冬、八節ハ--其時日にをくれず時分i

に耕し

種るを肝要とするなりO-≡

(七九~八〇ページ)

212

(⑤)又五穀其外事の類ハ、大かた節気に先立て生ずる物なるゆへ'少早まきでハよし。

(八〇ページ)

又万の物其時分-ト

の気を得て発生するゆへ'それ--1の物の生ずる時分をよ-はかりて、巳に生ぜんとする時

うへ'‥・-

(八〇~八一ページ)

(⑥)‥

・l日の内といヘビも蒔物

ハ午の前宜し。・・‥(八1ページ)

(⑦)又菜

薄さ)滋どの酉を仕立をき、時至りて移しうゆる物ハ'午の後よし。・・・≡

(八1-八二ペ・ジ)

(⑧)又農人ハつねに暦を見て、土用八寺、其外節気のかハりを考へ、風雨等の変あらんことを心にか-べLo

(9)

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近世-農書 :徳山敬猛著 『農業子孫養育草』の成立 (1)433

(10)

二ページ)

(⑨)抑事を前に走る工夫

ハ'農事にハ限らねども、農人

ハ取分心を用ゆべし。…-

(八二

~八四ページ)

(⑲)・・・・=夫陰陽の理りハ至て深Lといヘビも、耕作に用ゆる所

ハ、其心を付ぬれはさとりやすLo-

・・(四八~四九ペー

ジ)抑

耕作にハ多-の心得あり。先農人たるものハ'我身上の分限をよくはかりて田島を作るべし。・

-(四七~四八

-

∴,)

古語にもいへるごと-、

l年の計

ハ春の耕

こあり二

日の計は鶏鳴

(塁

の)にある事なれば・・・-

(五〇ページ)

(⑪)惣じて農具をゑらび、それ71

の土地に随て宜きを用ゆべLo・・・・(六七ページ)

・・・・・・農具の類あしけれバ'農人精力を尽すといヘビも'仕事のしるしハなき物なり.・・・・・・(五1ページ)

(⑬)‥-・又田島

ハ年々にかへ、地をやすめて作るをよしとす。-≡

(四八ページ)

(⑲)五穀にかぎらず、万づの物、たねをゑらぶ言肝要なりO--

(六九ページ)

(⑮)‥…・又粟稗などの類

ハ、其畠にてよ-秀て色よきをゑらび、ぬき穂にしてつ-り置へし。・・・・(六九ページ)

(⑰)・--物だねをおさめ置所

ハ、土蔵をよしとすO・・・・・(六九~七〇ページ)

(⑩)文物だねをゑらぶ事'--能吟味して、少も親したるをハ必うゆべからすO・-

(七〇ページ)

(⑲)--尤雑りたるたねをうゆべからず。春て多-減てもしらげになりがたし。--

(七〇ページ)

(㊨)又稲に赤米其外のあしき米の雑るなど

ハ、多-

ハ、其たわをゑらぶ事委しからざるゆへなり。-

=(七二ページ)

(㊨)又前漢書に記しをけるハ、穀を種ること

ハl色を、多-ハ作るべからずと。・・・-

(二

二-1一三ペI.I,三

(㊨)さて春の耕

ハ、冬至

(叶i月)より五十五日に当る時分、菖蒲の初てめだつを見て耕し始る物なり.・-・・・(五1ペ-

・・・t

t)

211

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432

(㊨)又春の耕

ハ手に尋で労すとて、撃てそのま1把にてか-べし。・・・・・・(有二~五二ページ)

(㊨)=-・撃て間ををき'日数をふれバ、雨にあひて、塊の性ぬけ'陰気そこにとをりて、甚きらふ事なり。(五二ペ-

・・・:.)

(㊨)文筆

へ!)1.橋

へ:)六と云ふ事あり。(五T<ページ)

‥‥文筆ことハいかにも平らかにむらなく、か-事

ハ二三べんもいか程も-ハしきをよしとする事也。--

(五

二~五三ページ)・

(㊨)--重くてす-事ふか-して、生土をうごかせバ'毒気上にあがりて、却てうへ物いたむものなり。--たわ生

土の毒気にあたりて、生じがたく'さかへがたし。

(五三ページ)

・・・高

の立板が底の細土と思ひ合ざれ

ハ、ミのりよからぬものなり。物ごとは穀子

ハ立板より生ずると心得べ

し。‥・・・・(五八~五九ページ)

(㊨)--但文士の性により、しげ-か-べからざるも、間にハあるべし。--(五九ページ)

(㊨)又耕す事

ハ麦を蒔地の外も大かた秋耕

(詔

)に宜し。・・・・・・(五九ページ)

(㊨)又夏至

(柏月)ハ天気姶て暑Lo・・・-

(五四ページ)

(㊨)すでに'種子を蒔、苗をうへて後、農人のつとめハ'田島の草をきりて、其板を絶べし。・・・・‥(八四~八五ページ)

(㊨)又畠物

ハ苗じて、馬耳

(指

の)のこと-なる時中うちするともいふなり。・・・-

(r(五~八六ページ)

(㊨)又五穀其外の中うちすること'-…憩にうつことなり。-…強-あらく中うちする事

ハよからぬ事なり。-‥∴八

六ページ)

又日春の中うちハ地を起し、夏

ハ削殺し、からすと心得べし。

(八六~八七ページ)

(㊨)又中うちハ初めの第

一遍

ハ深きを好まず。さら--\とかる-うち'二遠めハ深くすべし。三遍めよりハ次第に浅

(〓)

210

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近世一腰書 :徳山敬猿著 『農業子孫養育草』の成立 (1)431

(12)

きがよしO-・・・・(八七~八八ページ)

(㊨)≡-穀子ハ立板の精より生ずる物なれバ'実のりを求る類の物ハ、立板のさきをよ-やしなふべし。‥-・(八九

ページ)

又中うちハ、しめりたる時'必うつべからず

‥(八九~九六ページ)

(㊨)・-・・すべて、万の中うち、芸る事'心あら-てハなりがたしQ・

・・(九〇ページ)

(㊨)田島に良薄

八郎jVぁりC土に肥廃

(崇

)ぁり。蒋-やせたる地に'糞を用るハ、農事の、急務

(詣

りo‥-I(九一~九二ページ)

以上、本書本論の各冒頭部分と同

一、ないし類似文章を

『農業全書』から書き出してみた。『農業全書』中に

1'ないし類似文章がないのは、第

一、第

1六、第三〇から第三四の八項目のみである。

この八項目のうち、「農業全書は元禄

のむかし筑前宮崎安貞翁、四十余年農民を友としてみ

つから心力を尽

し手足を労して農業をいとなミ種櫓の道に委し-」が冒頭で、「是ヲなけ-思ひ農業全書をあミて万民を恵

玉ふは本邦農書の権輿

八㌧

)万世不朽の御厚恩なり」を結とする第

一項は、その間の

「古へより本朝の貿君農業を尊ひ給

ひ'前条に述ること-神代より連綿として農事盛ンなりといへとも'農術を教る書ハ世に伝らすCされは耕夫へ崇

")皆農法

を委し-しらずして稼穂

(":)の道明らかならさるゆへに'身を労し心を苦しめて勤るといへとも、秋の実のり不足を見る

事しハ-1なりけれハ」は、『農業全書』の

「-=・古本朝の賢君、多-ハ農業を重くし給ふといヘビも、農術を教るの書ハ世

に伝ハらずO故に農法世に委しからず」(1七ページ)、「--然るゆ

へに、身を労し心を苦しめて、勤めいとなむとい

へ共、効を得る事すくなくして、やゝもすれば'秋のなりはひの不足をみることしバ-

なり。--唯ひと

に民皆農術をしらずして、稼穂

へ紬=)の道明らかならざるゆへなり」(7<ページ)を組み替え摸したものといえる。

209

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430

ここでは各項目の冒頭部分を中心にみたのであるが、冒頭部分が

『農業全書』と同

1、あるいは類似文章で

あるからとい

って'そのすべてがそうであるということではな-、独自の記述もみられるのである。

このようなことを含むが、まずは四

一項目中独自のものは七項目に過ぎないということは、本書が

『農業全

書』からの適宜など

ック

・アップ、大幅の引用によ

って成り立

っていることを示すものといえよう。

その独自の内容

の項目をあげると'

つぎのようになる。

農業ハ牛

(悪症の牛又は高値の牛求へからす、中-らいよし)のよしあしにて益不易有。又牛の飼やう甚大事な

り。其家主たるもの大家中家共牛を大切にすへし。下人まかせにすへからす。先此辺にてハ山野の草ハ申及す、

年中の糠類、藁、大小豆のから'稗粟のから切こしらへ'ぬかの交りけん縄手草ハ(牛の喰ぬ芋類也)あしき草を

除ケて干、又麦刈の時を考へ、扱水の飼やう朝夕四季のかけん有

夏土用中ハ昼水呑てよし白水樹下の洗水ホ猶以て

冬春の飼料別て大事なりO春の牛やせたる家ハ必身上あしきもの也O牛ハ其家の妻女たる者銅やう心掛へし'男たるものハ

外トへ出るものゆへ行届ぬ事あり。

大小豆の類ハ粒揃ひて色つやよきを種とすへLo

田の角をうつ事深-打て其土をさらへ出し置へし。左な-てハ荒椀の時耗すみ-

へゆかぬものにて、あら土残

てあしゝ。

畦のぬりやう大事O稲ハ水にてそたつものゆへ少し水洩たる所ハ稲の出来あし-実入りわろLoあせハ土を随分

丈夫につけて水のもらぬやうにすへし。惣て睦ハ上へi

とあがるものゆへ、其心得にて春はしめて畦をけつる

時上工平ラ斗りけつり、下夕平ハ其侭捨置'ひょせあせといふてぬる時心を付穴なとよ--

ふさき'中華の時

睦の下夕平をよ--1けつり、草のなきやふにして置ハ、本睦をぬる時勝手よし。本あせをぬる時人々一遍つ1なてる

(13)

208

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近世-農畜 :徳山敬猛著 『農業子孫養育草』の成立 (1)429

(14)

もの也。余ハ二へんつ・1なてゝ試ルに水拝もよLo猶む-ろがへしあとなとに心を付てよ-ノ1さらへ、山あせもほそ-ならぬやう年々丈

夫にぬるへし。あとしぼ打やう窪数をかそへあと見合長サ壱尺七八寸、二尺-らい、巾六寸七寸可持見合あり。

苗代の事

1大事なり。右にも述ること-種ものハ生物の根元、秋の実のりの元なれ

ハ'大切にこしら

へて蒔

へし。

予壮年より心を付るに、苗のあしき

ハ稲出来後レ実のりまて違ふもの也o百代

ハ牽擾入念随分地を平かにして、

種子

ハ少し

へう)す-蒔

へし。尤不熟の年

ハ籾の取やう念を入ても生立悪敷ものゆ

へ、種子も少し余分取置平生

よりあっ-蒔

へし。甫代地よ-′~

こしらへ種子を蒔へき所ハ手こて悉-押へ、草もこへも稲かぶも皆々底二人'こへ土斗うへに上

り,いかにも村な-こしらへて水毒

し,少も障りのな-して蒔へLo扱又苗代地に

(監

鮒S.SSて)冬こへハあし-夏こへの

鮎かなるを春入て耕

へLo又蒔時のこへハ当家代々の仕来

ハ冬こへの禦

なるにす-もを

合、断

‥j

T)を

かけ置、春に成苗代以前十余日にして、右のこへを打砕、又よきこへをかけ置

此こへの廻りにハ夏こへわらこへをつミ

て、其中によく-

ませて置也

苗代地に入来りぬれとも、隣家なと

ハ春に成て右のことくこへを掠苗代に用るに散

こへ

て替る事なしと承り、文政八乙酉年才

春に成て件の通り糞をこしら

へ苗代に用るなり。

予苗代を大切に思ひいろ

-工夫して先麦を千田に蒔、翌年田はこ作にして其次の年苗代にせしか'苗の生立甚よし。如此年々替地にし

て苗を作りけれハ、麦ハ夫食となり醤油にもよし'煙草ハ相応の価となり益筋多Lo只秋の麦まき人歩(余分)いれとも百の出来よ-柄

の育早-実入よし。

百代水引やう、ほしめ

ハ随分浅く苗の延るに随ひ少しっゝ深くす

へLo尤種子を蒔て五七日の頃晴天見合水を干

てよし。薪のこと-二日も干セハ早-芽ふきてそたつもの也O又常に天気のよき日

ハ小睦のはしをせき溜水にす

ハ水温りて時刻の移るに随ひ水

へりて'苗の菓ちらノ-水上に出れ

ハ'恩の外苗よく延るもの也。中の時頃せ

きをはっし置

ハ夜分迄に水湛るなり。毎日心を付誠に赤子を育るやうにす

へし。惣て植付後水の見やう至て大事也。晴雨

の時夕立昼夜のかけんて述ルにいとまなLoロ侍。

207

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428

苗代こへに青芽とて柳の芽立を短-刈て入ル事あり。されとも此辺にてハ芽立遅-、何はとも芽吹不申'四五日

前にかりて束ひ、日向の水につけてよしといへり。是ハ、年々柳の芽たち早きを求植置

挿木よし可申事也O東伯

大鳥居辺を見るに田地のはしー

に株柳多し、彼地ハ芽たち早く苗代こへに甚よしと乗る。予思らち

此辺早稲刈揚

の田に一時も早-菜たねを蒔そたて置、折々こゑを仕込翌年百代こへにいたし度存なから、何とな-延引せり。当年文政九の秋より作り初

用で試可申。右のこへをして心して聞。

本農書の

『農業子孫養育葺控』との異同

ところで本農書の著者徳山敬猛は'本農畜作成の二年前の

一八二四

(文政七)年に、『農業子孫養育草控』と

いう書を記している。それは

『農業子孫養育草控』という控とな

っているが'本農書との関連が論点となる。

この

『農業子孫養育草控』は本文と欧文とからなる。本文は'「それ農業は国家の大本なり。上ミ天子より下

モ庶人に至るまで生を養育する五穀を作り出して納るものなれは、是天下の宝といふものなり。故に古

へ聖賢

の政事にも耕作を根元とし給ふといへり」ではじまり、農事の沿革概要、麦の陽草、稲の除草、そして農業の

陰陽の理にしたがうべきことを説-前段部分と、石賀清教なる人物の溜池修復

・築堤、畑田開発を讃える後段

部分とからなる。

前段部分は'本慶喜本論の前段部分とほぼ同

1文章ではじまり、その全体がほぼ同

l文章である。これは、

ともに美作国久世代官所の早川八郎左衛門正妃が

一七九九

(文政

ll)年に記した

『久世便数』という農民教

諭書の

「勧農桑」からの、養蚕に関する部分を除いた大幅な引用である。すなわち'『農業子孫養育草控』も本

書もともに本論部分の前段はいずれもこの

『久世候教』の

「勧農桑」の部分からの引用文などである。

本農書は、このような前段部分のあとに四十

一項目にわたる本論中心部分が続くのであるが、『農業子孫養

(15)

206

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近世-農書 :徳山敬猛著 『農業子孫養育草』の成立 (1)427

(16)

青草控』にはそれはまったくなく、それにかわって石賀清教なる人物にょる溜池堤築堤と畑田開発を讃える後

段部分となるのである。

この部分の大筋をみていこう。前段部分の末尾

「農すはか1

る尊き事なれは、頗しき下司わさなとゝ露おも

ふへからす」のあとに後段が-る。

「歪に真嶋郡東茅部村石賀清教

(伯州日野郡香田氏産也)天資無病堅固篤実にして農術を好ミ、田畑を開発し、

土地相応の種椿の道を能弁

へ、農具を撰ミ照降を考

へ'誠に撃

l嬬六を尽し、天命に率ひ、朝には星を戴て

起、夜半に寝、九夏三伏の炎天を不厭、玄冬素雪を凌き、無間断其業に催す」と石賀清教なる人物を措写した

後'その溜池築造の事績をつぎのように記している。

然るに近年畑田開発の心狙有之といへとも、当村の儀ハ水上近-累年用水無数'早魅の年ハ古田すら動ハ水不足し

て作物不熟多LDさるによって、いぬる末の春堤普請を-・・・発起して、勝山侯江奉願たれハ、御見分の上堤修固すへき

旨命を蒙り、究意の地を撰ミ、数多の人夫を集め、若干の入用にて数日土砂を運ひ、自身にも粉骨細身して荷ひけれハ、

諸人足是に励されて勢力を尽し、汗水に成て働けるはとに、其功空しからすして秋の末に至り堤全-成就し'水湛て濫

満たる湖水に異らす。

このような石賀清教の事績を記した本論末尾に、「右

ハ此ほとはるのつれ-′トなるま1に清教の成功を恐し、

ったなき言の葉をのへ、農業子孫養育草となつけ'ろむのよしあしを弁

へたる人に見せはやと思ふにあらす、

只希く

ハ清教志節功労をもて子孫にきちを与し大恩を恐悦し--」と'この書を記した動機を述べている。

欧文は'

一八二六

(文政九)の本書の験文と同じ-福田神社神官の藤原重行によるものであるO同じ人物に

2 0 5

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よるが、内容は、石賀清教が荒れ野を拓いて田とし、池を掘

ったことを讃える徳山敬猛がこのt書に奥書して

はしいということにこたえて、

一筆添えた、というものである。

本農書成立の背景-山中地域の特質

H

山中地域の概況

徳山家の居村上徳山村は、岡山県の西北部に位置し'北に大山に連なる1100-二

一〇〇メートルの蒜山

三山が聾え、南には

1000メ1-ル級の中国山地の山々が聾えるというように'四囲を高い山々に囲まれた

蒜山盆地の一隅にある。蒜山盆地は、その中央を旭川の上流、当時この地方では久世川、あるいは高田川と呼

ばれていた川が流れ'その西側に耕地が開けている。盆地の中央部で旭川の沿岸が標高四二〇メートル位で、

上徳山村は標高五〇〇メIトルである。この現在の真庭郡の北部に位置するこの地域は山中地域と呼ばれてき

た。こ

の蒜山盆地は'その標高の高さによる高冷地で'また降雪も多く積雪地であり、さらに、「黒ばこ」と呼ば

れる強酸性の火山灰土地帯である.このように厳しい気候

・土地条件のもとにある所である。

なお、伯蕃往来枝道が東西に通り、大山往来がそれと上徳山村で斜めにクロスするように東南から西北に

rr・二

っている。

1八八八

(明治二1)年の

『岡山県農事調査書』によって、この上徳山村の属する大庭郡と上徳山村等とと

(4)

26

もに蒜山盆地に所在する村々が属する真島郡の様子をみよう。

4

(17)

204

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近世一農書 :徳山敬猛著 『農業子孫養育草』の成立 (1)425

大庭郡

地質及土性

気候

降霜

降雪

降雨

恒風

真島郡

地質及土性

気候

降霜

降雪

降雨

恒風

本郡

ハ凡ソ嘘土四分

ニシテ、壌土五分

二居り、他

ハ砂地ナリ

始十月十日頃、終四月三十日頃

大雪六尺、小雪7尺

降雪十

1月十日頃'融雪四月十日頃

雨量未詳へ凡六十日'最多六月頃、最少八月頃

ハ東'秋

ハ西、冬

ハ酉北風ナリ

本郡

ハ凡ソ埴土六分、植土

l分、砂地小石交二分

始北部十月十五日、南部十

一月

1日'終北部五月十五日、南部五月二日

大雪北部五尺'南部

一尺

小雪北部

一尺、南部二寸

雨量未詳、最多五月頃、最少七月頃

ハ東南'夏

ハ南、秋冬

ハ西北風ナリ

203

「農産物中需要

二余アル品及不足ノ品」の有余として、大庭郡は

「米

・麦

・大豆

・柿

・棉

・煙草」、真島郡は

「米

・煙草

・椿

・茜義

・生糸

・茶」として'大庭郡には麦もあるが、このような自然条件のもとにあって、「本

郡北部

ハ山汝多ク'寒気強ク'麦

・綿

・茶

・桑等成育セズ」(大庭郡)、「本郡北部積雪多ク、冬作ヲ為ス能

ズ」(真島郡)という'寒気、あるいは積雪が多-、これによって北部、すなわちこの地域は冬作が困難なとこ

ろであった。

その

「農家労働の状況」は、「本郡

二於テハ冬間

ハ屋内1〓ア夜業ヲ営、、、」(大庭郡)'「本郡北部積雪多ク冬作

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424

第 1表 農産物構成 1887(明治10)午

嘉島郡 大庭郡 全県 真島郡 大庭郡 全県

栄 63.3 63.1 59,2 甘 薯 0.19 0.43 2.0

精 米 5.5 6.1 6.6 馬鈴薯 0.15 0.01 0.13

小計 68.9 69.2 65.8 小計 0.34 0.44 2.1

五色日 大 麦 9.9 0.5 3.8 合 計 91.1 80.5 86.0

過負産 小 麦 1.5 1.2 2.3 特 実 線 0.00 2.4 6.6

裸 麦 1.3 3.6 8.2 蘇 0.55

小計 12.7 5.2 14.3 ま ゆ 0.39 0.35 0.14

莱 0.56 0.57 0.57 育 藍 菓 0.67 0.28 0.62秦 0.18 0.07 0.15 製 茶 0.21 0.50 0.28

秤 0.24 0.32 0.08 農 甘 煮 0.21大 豆 7.7 4.2 2.2 椿 皮 0.76 0.51 0.32

物 蕎 麦 0.50 0.40 0.49 塵 漆 液 0.00 0.00局 番 0.01 0.12 0.09 菓胸章 5.0 12.1 0.89

玉萄黍 0.02 0.01 0.14 物 菜 種 1.8 3.2 4.5

小計 9.2 5.6 3.7 蘭合 計 0.448.9 19.5 14.0

註 1) 「明治10年全国農産表」(『日本農学発達史 第10巻』1958年 中央公論社)より作成.

ヲ為ス能

ハズ、冬春

ハ男女共屋

二居り垂

二自作煙草ノ雛伸シ

等、南部

ハ麦其他冬作物ノ培養

ノ手人等ヲナス」(真庭郡)と

記している。

ここには麦

・綿

・茶

・桑等が

成育しないとあるが、

一八七七

(明治

10)年の

『全国農産

表』によ

って、この両郡の農産

物構成をみておこう。第

一表は

それを示す。農産物価額合計を

lOOとする種目別のウェイ・L

をみると、岡山全県は米六五・

八%、麦

一四

二二%、雑穀三・

七%、藷薯二二

%

(以上普通

農産物八六

・〇%)'特有農産

一四

・〇%のとき、大庭郡は

それぞれ六九

一%、五

二%'五

・六%、〇・四四%'

(19)

202

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近世-農書 :徳山敬猛著 『農業子孫養育草』の成立 (1)423

(20)

(八〇・五%)'

一九

・一菟%'真島郡は、それぞれ六八・九%、

七%、九

一%、〇二二四%、(九

一・一%)'八

・九%となっている。両郡ともに全県よりも米のウェイトが大きいこと'ともに麦が小さいこ

と'ことに大庭郡のそれが著しいこと、ともに雑穀が大き-、そのなかで大豆が大庭郡四二

一%、其島郡七

七%、(全県二・二%)で両郡ともに大きいこと、特有農産物は大庭郡は全県を上回り、真島郡は下回るが'煙

草のみをみると大庭郡は

一・一%、真島郡も五・〇%で全県の〇・八九%をはるかに上回る大きさであるこ

と、などをその特徴として指摘することができるであろう。

麦は小さく、米と雑穀

(と-に大豆)'それに煙草が大庭郡の農業を特徴づけているのである。それよりやや

南にある真島郡も北部の蒜山盆地地域は同様であったろうと思われる。

上徳山村の農業生産

以上は明治初期の大庭郡の状況であるが、ついで当該の時期の上徳山村、あるいは周辺の村々の農業事情を

みよう。

この上徳山村には'ほぼ同じ内容の1七九九

(寛政

1こ

年'

1八〇八

(文化五)年、

一八三八

(天保九)

(5)

年の三つの

『村明細帳』があるが、そのうちの1八〇八

(文化五)年の

『村差出明細帳』と、『川上村史』に掲(6)

載されているほぼ同

一の時期の周辺の上福田村、東茅部村、西茅部村の三力村の

『村明細帳』からの引用記事

によって、以下検討してい-0

上徳山村は東西

一里

一五町、南北二五町の村で、石高、耕地面積は、石高四

石六斗八升四合

・反別三二

町九反二畝八歩である。その田畑構成は、田高は三四七石四合

・反別二五町六反四畝二二歩半、畑高五六町八

斗四升

一合

・反別六町四反四歩で、田がちの村である.

1反歩当りの石高は、田

l石三斗五升三合、畑は八斗

201

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422

八升八合となるが'前者は中田の石盛

一四を下回り

(下田の石盛

i)'後者は下々畑の石盛八を少し上回る程

(下畑の石盛は

lO)であって、田畑ともに劣等のものが多-、土地生産力は低いCその土質は、三割黒泥

土'三割黒灰土、四割砂受地である。

また、村柄は、「高山ノ麓谷間ノ村

二而日清悪敷、例年作方不熟多御座候へ共'農業之外何之稜も無御座候」

で日照がよくなく、近村の上福田村の

「西北伯州大仙鵜ケ仙より北東へ草薬仙と申す高山相続き、殊の外寒気

強く、毎年九月下旬より雪積り翌三月迄は消申さず侯大雪所」という記載のように、冷涼、着雪の地である。

土壌条件がよ-な-、冷涼、墳雪の地であることにより、生産力は低いのである。

家数は

一〇二軒で'うち高持百姓九九軒、寺

1軒、鍛冶

1軒、牛頭天官鍵取

1軒である。それに牛四二頭、

馬四頭がいる。高持百姓

当り石高は四至

斗五升八合で'田畑面積は三反三畝八歩である。先の

「村明細

1

帳」には、「農業之外何之稜も無御座候」とあり'また、

一八三八

(天保九)年のそれにも、「伯州大山同州米

200

子往還駅

御座候得共,農業之外何之稜も無御座候」とあるように,農業以外の生業の機会の乏しい所であ

-

るo農

業生産の状況をみよう。

田方に作付される稲作については、播種期は春土用

(上福田村は春土用前、東茅部村は春土用より八

・九日

経つ頃、酉茅部村は春土用から七

・八日経つ頃)、収穫期は早稲は秋彼岸より、中晩禾は九月中旬迄

(上福田村

は早稲は彼岸中、晩稲は九月上旬迄、西茅部村は早稲は九月中旬迄'晩稲は秋彼岸から九月末迄)である。播

種量は'反当

一・八~二斗四'五升'下田は増量

(上福田村は

一・八~二斗四'五斗、下田は増量'東茅部村

は二斗位'西茅部村は上中下田ともに二斗)である。反当播種量はこのように多いが、それは

「是ハ水冷リ生

立不宜井壱坪二付稲株百四五拾株も植付申侯」という故である。品種は

「稲老第

一枚谷

・勘助撰出し稲作付

(2t)

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近世-農事 :徳山敬猛著 『農業子孫養育草』の成立 (1)421

(1982年 8月1日筆者撮影)谷あいの村上徳山村辺

(22)

侯」という記述にみる

「牧谷」「勘助」という

ものである

(東茅部村には

「よりだしぼつ」

「こ-しらかわ」「あざれもち」「あぜこしも

ち」があげられている)。

畑方には

「畑方之義、麦大小豆稗粟蕎麦之

類少し宛うへ付申供」とあり、

1八三八

(天

保九)年にはほかに煙草が記載されている。

近村も上福田村は麦、大豆'小豆'栗、稗'

蕎麦、煙草であり、西芽部村は麦、莱'稗、

大豆、小豆'蕎麦、芋、大根、煙草である。

これらのうちの麦作であるが、「麦

ハ秋彼岸

才蒔付侯。麦種壱反二付弐斗七、八升位.大

雪所

二而年

二寄無同前、漸麦種程取侯事度々

二御座候ゆ

へ少し宛仕付申侯」とな

ってい

る。近村も、上福田村は、播種期は彼岸後'

播種量反当二斗

~二斗五、ないし二斗六升、

「九月下旬より翌三月迄雪敷申し侯につき'

大方腐り皆無の年多-侯」、東茅部村は、播

種期は秋彼岸後'播種量反当二斗

~二斗四

199

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420

升、収穫量は反当五~六斗、「大雪所、若し雪きへかた-て春のひがん迄雪供えは、残らず腐り--」'酉茅部

村は、播種量反当二斗'収穫量は反当五斗、となっている。積雪によって作付も小さ-、生産力も低いのであ

る。前項でl八七七

(明治

lO)年の大庭郡の農産物構成における麦のウェイトの小さいことをみたが、それ

はこのような事情を反映したものといえよう。

このように、米麦のほかでは、粟、稗、蕎麦などの雑穀、大小豆という豆類が作付される。このような米麦

雑穀豆類のほかでは、大根'そして煙草がある。先のl八七七

(明治

70)年の

「農産表」ではこの煙草の

ウェイトが大きいことがこの大庭郡の特徴であることをみたが、この菓たばこがかなり栽培されているのほ、

この地域特有の

「黒ぽこ」とよばれる火山灰質の強酸性土草がその栽培に適するからであるが'稲の生産力が

低く'麦は作付そのものが小さいこの地域では年貢米にもことかくなかで、年貢納入を補完するものとして積

極的に栽培されたといえよう。

つぎに、以上のような農業生産を可能とする条件である用水と肥料についてみよう。

この蒜山盆地の中央を流れる旭川、ここでは久世川、あるいは高田川とも呼ばれるが、これが最も大きい用

水源である。上徳山村の

『文化五年

村差出明細帳』には、「川四筋」であるが、「用水ハ久世川上大川筋

水元

伯州境当村之内鷲ケ仙.b流落申侯久世川川上池内海谷川当村之内

二而

1所二落申侯。天谷川ハ当村之内才流出

下徳山村へ落申侯」と記されている。しかしこの久世川は水量に乏し-、また耕地面よりも数段低いところを

流れているために水引も不便で、用水の大部分は谷川によっていた。近村も

「村明細帳」にょると'「明達

・目名木川

・久世川通より引水」

・「山中の荒川、雪消時分夕立など度々洪水侯て、御田畑川欠け砂人など

毎度出来任侠」(上福田村)、「高田川より二分'粟墨川より二分、各州より六分引水」・「惣じて早損水損の村

方にて'畑方弐分通り水損所、早損は無-候」(東茅部村)、「高田川通より引水」、「田方壱分通り水損所九分通

(23)

198

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近世-農書 :徳山敬猛著 『農業子孫養育草』の成立 (1) 419

第 2表 農家階層別牛飼育状況 1818(文化15)午

階 層 戸 数 牛 馬 .同1戸あたり 牛馬のある戸数 同 比 率

30石 1戸 2頭 2.0頭 1戸 100.0%

10石~15石 8 8 1.0 7 87.5

5石′-10石 20 21 1.1 19 95.0

1石.-5石 36 16 0.44 16 44.4

1石 未 満 29 1 0.33 1 3.4

0 8 0 0 0 0

註 1)文化15年 『寅年宗門御改帳』(徳山家文書No.1)より作成2)牛馬の内わけは牛46,烏2である.

(24)

りは早損所、畑方残らず早損処にて供」

・「田方用水は谷水を引申し侯」

(西茅部村)という状況である。平常時はともすれば水不足の

「早損所」

になりやすいが、長雨や雪どけ時などには水が氾濫して、

一転して

「水損

所」になってしまうことが多かった。したがって、まずは用水確保はきわ

めて重要な事柄であり、そのための努力や工夫は様々にされたであろう。

「文政六年石賀重兵衛辰ノロ荒神ケ原ヲ開墾ノ計画ヲ立テ用水池トシテ溜

池ヲ築ク。面積

l反七畝pl土手敷五畝ナリ。文政七年該池ガカリニ旧来ノ

(7)

畑ヲ起シテ田-ナスo此反別

l町三反歩ナリ」と後世に記される

一八二三

(文政六)年の東茅部村の石賀清教による溜池築造とそれによる畑田開発

はこのような時期に行われたものの著例であろう。いた-感銘した徳山敬

197

猛がその事績を記す

『農業子孫養育草控』を執筆する動機となったもので

ある。

肥料については、

一八八八

(明治二こ

年の

『岡山県農事調査書』は、

大庭郡は

「本郡

ハ柴草山多キヲ堪

ア柴草ヲ得ルニ便ナリ」と記している

が、採草などによる自給肥料によっていた。上徳山村の採草場は、「肥シ草

山ハ三平山

・内海

・谷

・天

・谷猶尾うね」「肥シ草柴山

真嶋郡西戸村中

山」とあるO村入会、村々入会である。

この

『文化五年

村差出明細帳』には、この村の牛馬について、牛四二

頭、馬四頭と記している。『八束村史』には一八一八

(文化

1五)年から

1

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418

八六九

(明治二)年に至る上徳山村の戸口・牛馬数の推移を掲載しているが、それによるとこの間、牛は四

(8)

三~四六頭である。この山中地域では牛が農耕、運搬用として飼育されていたが、ここ上徳山村でも高持百姓

九九戸に対して四六頭の牛馬

(牛四四頭

・馬二頭)がいて、

一戸当り〇・四六頭、すなわちおおよそ二戸に一

戸がもっていたことになる。第二義は一八一八

(文化

一五)年の農家階層別牛馬所有状況を示すものである。

農家

7戸当りは全体は〇・四七頚、所有農家割合は全体では四二二ハ%であるが、石高所持なし、

!石未満層

はそのいずれもが小さ-、上層はそれがともに大きい。所持石高の大きい農家はど牛を飼育する農家の割合が

大きく、また

一戸当りの頭数もそうなのである。いずれにしても牛飼育がここの大きな特徴となっているので

ある。

読(-)

(2)

(3)

(4)

(LLl)(6)

(7)

(

8)

拙稿

「徳山敬猛

『農業子孫養育草』(文政九年)-原本による翻刻」『岡山大学経済学会雑誌』第二六巻第

7号

一九九四午.

拙稿

「徳山敬猛

『農業子孫養育草控』(文政七年)とその成立」『岡山大学経済学会雑誌』第三〇巻第

7号

i九九八年0

川上村史編纂委員会

『川上村史』

一九八〇年

川上村、第一三早第二節三

(難波保夫執筆)を参照。

以下の明治二1年の岡山県農事調査は、『明治中期産業運動資料

一集農事調査

巻岡山県』大橋博編集、吉岡金市校

・解題

一九七九年

日本経済評論社による。

『文化五年

村差出明細帳』(岡山大学附属図書館所蔵

r徳山家文庫m六三こ。

以下の上徳山村以外の各村の

『村明細帳』からの引用は'前掲

『川上村史』のl九〇-1九

一ペ-.I,L間の折り込表によるo

「開発新開等

二開スル件」(川上村役場資料)O

八束村史編纂委員会

『八束村史』

Z九八二年

八束村

7八三ページo

(25)

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岡山大学経済学会雑誌30(2),1998,195-220

《Materials≫

AStudyofanAgriculturalBook,"N6gy6shison

yashinaigusa"byYoshitakeTokuyama,1826(I)

HarukiKandatsu