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2月4日、社会委員会は「教団の抱えている諸問題について―万国博覧会、東京神学大学機 動隊導入、沖縄キリスト教団との合同問題など―」をテーマに、発題を秋吉先生にお願いし、 学習会を開きました。 1941 年(昭和 16 年)の日本基督教団の成立から話を始められ、それぞれの問題について秋 吉先生の見た問題点を、レジュメをもとに分かりやすくお話して下さいました。 1時間ほどのお話の後、出席者それぞれの思うところの意見交換がありました。とても踏み 込んだ質問、それぞれの時代を背景にした貴重な体験談を聞くことが出来、有益な時間でした。 当初、このテーマでは参加される方が少ないのでは、と案じていたのですが、22 名 (男性8名、 女性 14 名)の方々が出席されました。 (社会委員長 発 題 要 旨 横浜港南台教会牧師:秋吉 隆雄 はじめに ◆教団の成立 1941 16 № 26 2007.3.4 ����� 発行:横浜港南台教会 社会委員会 〒234-0054 横浜市港南区港南台 7-8-29 Tel:045-833-5323 Fax:045 社会委員会学習会:「教団の抱えている諸問題について」 ―万博、東神大機動隊導入、沖縄キリスト教団との合同問題など―

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Page 1: 2007.3ykchurch/image/20070304.pdf2007/03/04  · 3 通りに戦争中教団は国のあり方に全面的に沿 って、戦争に協力するかたちを採りながら教 団の歩みを進めていったのです。

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2月4日、社会委員会は「教団の抱えている諸問題について―万国博覧会、東京神学大学機

動隊導入、沖縄キリスト教団との合同問題など―」をテーマに、発題を秋吉先生にお願いし、

学習会を開きました。

1941 年(昭和 16 年)の日本基督教団の成立から話を始められ、それぞれの問題について秋

吉先生の見た問題点を、レジュメをもとに分かりやすくお話して下さいました。

1時間ほどのお話の後、出席者それぞれの思うところの意見交換がありました。とても踏み

込んだ質問、それぞれの時代を背景にした貴重な体験談を聞くことが出来、有益な時間でした。

当初、このテーマでは参加される方が少ないのでは、と案じていたのですが、22 名(男性8名、

女性 14 名)の方々が出席されました。 (社会委員長:F.O)

❖ 発 題 要 旨

横浜港南台教会牧師:秋吉 隆雄

◆はじめに

社会委員会から標題のような教団の抱えて

いる諸問題について話をしてほしいという要

望をいただきました。私たちは教団に属して

いるわけですから、教団がどういう問題を持

っているかということを知ることは大変大切

であると思っています。ただ、はじめに申し

上げておきたいことは、「教団問題」について

の見方は、百人いれば百人見方が違うという

ことです。私が今から申し上げるのは、あく

までも私の見方、認識です。ですから、すべ

て正しいと考えることは出来ません。私は牧

師ですから、言葉に対しては自分の実存と主

体をかけてお話をしますけれども、それはあ

くまでも私の個人的な見方であるということ

です。そういう意味において、私の話を皆さ

んには相対化して聞いていただきたいと思っ

ています。 ◆教団の成立

教団の抱えている諸問題を考える場合、教

団の成立から話をしたほうが分かりやすいと

思います。私たちの日本基督教団は 1941年、

昭和 16 年、これは私の生まれた年ですが、

この年に合同して出来ました。当時は日本の

国が戦争をしようとしていた最中にあった時

社 会 委 員 会 通 信 № 26 2007.3.4�� � � ��

発行:横浜港南台教会 社会委員会

〒234-0054

横浜市港南区港南台7-8-29

Tel:045-833-5323 Fax:045-833-6616

社会委員会学習会:「教団の抱えている諸問題について」

―万博、東神大機動隊導入、沖縄キリスト教団との合同問題など―

Page 2: 2007.3ykchurch/image/20070304.pdf2007/03/04  · 3 通りに戦争中教団は国のあり方に全面的に沿 って、戦争に協力するかたちを採りながら教 団の歩みを進めていったのです。

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代で、プロテスタント教会がバラバラに分裂

しているよりも、一つにまとめた方が統制し

やすいと考えて、統合するように政府から要

請がありました。 しかし、先回の社会委員会の学習会で佐野

さんが教団創立について話をされた時に、い

ろいろな資料を調べると、国からの要請が確

かにあったけれども、教会の方から国へ摺り

寄っていった傾向が強いと言われました。私

はまさにそうだろうと思います。その理由と

して、当時「国は神道と仏教とキリスト教、

この3つの宗教を公の宗教として認める」と

いうような意味合いの発言があり、それは教

会にとってありがたいということで国に摺り

寄っていったというのが実情ではないかと思

われます。 当時、プロテスタント教会は 30 数教派あ

りました。しかし、この合同は非常に問題を

含んだ合同であったと思います。教会が合同

する、他教派と合同するということは大変な

出来事で、世界ではカナダやインドなどで合

同教会を形成していますけれども、その合同

のためには大変な労力と時間を費やし、お互

いにつき合わせて合同にまで達しているので

す。 ところが日本の場合は、非常に雑なかたち

で合同していったというのが現実の姿だろう

と思います。ここに日本基督教団の教憲・教

規がありますが、その最初に「教団成立の沿

革」が記され、そこに「これに基づいて 30余派の福音主義教会が・・・」と書いてある

のです。ということは、合同した時に教派が

いくつあったかはっきりしないということで

す。これは驚くべきことだと思います。非常

に乱暴なかたちで合同していったというのが

教団成立の現実だと思わされます。 しかし、教会として立つわけですから、宗

教法人法の認証を受けなければなりません。

いろいろ法的な整備をしていく中で教会の新

しいかたちを決めていったのです。そこで「生

活綱領」というものを決めました。これは、

クリスチャンとしてどのような生活をするこ

とが望ましいかということを決めた綱領です。

それにはこう書いてあります。 「第 7 条 本教団の生活綱領左の如し。1.

皇国の道に従いて信仰に徹し、各々その分を

尽くして皇運を扶翼し奉るべし。2.誠実に

教義を奉じ、主日を守り、公礼拝に与り、聖

餐に陪し、教会に対する義務に服すべし」。 1番は「皇国史観に従ってあなた方は教会生

活をしなさい」、2番目に「教義を信じて礼拝

を守り、聖餐式をしなさい」と言っています。

神礼拝の前に皇国史観が生活綱領に謳われて

いるのです。言うならば、キリスト教信仰の

前に、あるいは上に皇国史観、すなわち「万

世一系の天皇、これを統治す」という考え方

が出てくるのです。こういうかたちで生活綱

領が決められました。 もう1点は、後から申しますが、「教義の大

要」というものを決めました。教会が合同し

た場合、信仰告白を制定するのが当然ですけ

れども、信仰告白を制定出来なかったのです。

ですから「教義の大要」で、われわれの教義

は大体こういうもの、と列挙して作ったので

す。こういうかたちで日本基督教団が出発し

たわけですから、教団が国に対してどういう

関わりを持つかということは目に見えていま

す。それは国家の言いなりの教会ということ

です。こいうかたちで日本基督教団は出発し

たと考えざるを得ないのです。そして、その

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通りに戦争中教団は国のあり方に全面的に沿

って、戦争に協力するかたちを採りながら教

団の歩みを進めていったのです。

◆3つの問題点 その中で3点申し上げたいと思います。第

1点は、1910 年に日本が朝鮮を併合し、朝

鮮人に対して日本への同化政策を進めました。

そのために朝鮮に日本の神社をたくさん造り、

神社参拝を強要したわけです。そのことで朝

鮮の教会、朝鮮のクリスチャンたちは非常に

苦しんだのです。そして日本の教団、国に対

して神社参拝を強要することは止めてほしい

と要請したのです。ところが日本基督教団は

「神社参拝は宗教ではなく、国民儀礼だから

励行するように」と言って朝鮮のクリスチャ

ンの言い分をはねつけてしまったのです。そ

のことのために朝鮮のクリスチャンたちは非

常な拷問を受け、正確な数は分かりませんが

何百人もの方が殉教したと言われています。 ここに、安利淑著『たとえそうでなくても』

という本があります。彼女は、日本の統治時

代にクリスチャンたちがどのように神社参拝

を強いられ、それに抵抗していったかを自分

の体験の中から書いています。これは映画に

もなりました。日本の神社参拝に対する強要

は厳しいもので、それに苦しんだ歴史を朝鮮

の人たちは持っています。また、それに対し

て日本の教団は理解を示さなかったという事

実があります。 第2点は、日本のプロテスタタント教会は

合同したわけですが、その中で特にホーリネ

ス教会の人たちに国からの迫害が絞られてい

きました。ホーリネス教会は大変信仰熱心で

す。このホーリネスの牧師や信徒たちに迫害

の焦点を絞って警察に連行し、「天皇とキリス

トはどちらが偉いか」という問いの中で彼ら

を徹底的に追い詰めていったのです。処刑さ

れた人はいないのですが、獄死した人、出獄

後病死した人は7人いると言われています。

皆ホーリネス教会の牧師たちです。静岡県に

辻宣道という牧師がおられました。その方の

お父さんは弘前のホーリネス教会の牧師でし

たが、刑務所で獄死されたのです。お父さん

が死んだという連絡があった時、彼はリヤカ

ーを引いて刑務所まで遺体を引き取りに行き

ました。その時のお父さんの体は、まさに枯

れ木のようだったといいます。そのお葬式に

他の教会の牧師や信徒の方々は参列しなかっ

たのです。それは、ホーリネス教会が狙われ

ているということを皆知っていて、葬儀に行

ったとなれば、官憲から自分も睨まれるとい

うことを恐れて行かなかったのです。ですか

ら大変寂しいお葬式をしたのです。 その時、日本基督教団の執行部は「ホーリ

ネス教会は正当なキリスト教ではない」と言

ったのです。国の迫害を黙認したのです。黙

認しただけではなく、ホーリネス教会の牧師

に対して「あなた方は牧師を辞めなさい」と

言って辞任を強要したのです。 第3点は、沖縄は九州教区の中の沖縄支教

区というかたちで位置づけられました。そう

したかたちで日本の国策に従うような教会形

成をしていったのです。そのことを苦々しく

思っている牧師はたくさんいました。これは

間違いないことです。

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◆戦後の教会

1945 年に敗戦を迎え、戦後第1回の常議員

会が開かれました。常議員会は教団総会に次

ぐ議決機関ですが、その席上で教団の戦争責

任が問われたのです。谷口茂寿という議員が

戦争責任を問うたのです。こう記録されてい

ます。「右の挨拶の後、谷口氏より教団統理者

ならびに役職員は、この際戦争責任をいかに

考えるや、との質問あり」。谷口さんは、教団

の統理の富田満さん及び役職者たちに対して、

「戦争中の戦争責任をどう考えるか」と聞い

たわけです。それに対する統理の答えは、「予

は特に戦争責任者なりとは思わず。されど責

任を感じて辞任すべきものなりとせば、今辞

職するは軽きことなり。ただ、重要責務山積

せる今日、直ちに辞職するはかえって無責任

なり。辞職には時機あれば、その時機を待ち

いる次第なりと答う」です。これ、どこかで

聞いたような言葉ですよね。「今辞職は出来な

い。辞職したら、それは責任逃れになる。今

はやることがたくさんあるから」と言ってい

るのです。 この富田さんは戦争中に靖国神社はもちろ

ん、様々な神社に参拝し、アジアのクリスチ

ャンたちに対しても神社参拝することを強要

した方です。そういう方が「戦争責任は私に

はない」と言っているわけです。こういうか

たちで戦後を迎えたのです。ですから日本基

督教団の場合、戦争中の統理がそのままずっ

と継続して統理を務めたのです。全然変わら

なかったのです。 それで戦後は、皆さんご承知のようにアメ

リカの民主主義、アメリカのキリスト教に安

易に乗ってしまったわけです。指導体制は全

く変わらないで手のひらを返すようにアメリ

カの民主主義を謳歌し、精神的にも物質的に

も貧しい人々は教会にあこがれ、大勢が集ま

りました。けれども、見る人は、日本基督教

団とは何だと見ただろうと思いますね。

◆信仰告白の制定 教団はそのまま歩みを続け、1954 年になっ

て初めて「日本基督教団信仰告白」が制定さ

れたのです。ものすごく時間がかかりました。

そしてこの制定は非常に困難でした。この「信

仰告白」は、いろいろな教派が集まっている

ので最大公約数的なものをまとめたのです。

告白文は合同した時の「教義の大要」をなぞ

るかたちで、多くの教会がなるべく文句を言

わないかたちの文章にしています。私は、「教

義の大要」で戦争に協力したわけですから、

それをなぞった「信仰告白」はやはりおかし

いのではないかと思います。そう考えるのが

普通でしょう。 雨宮栄一先生が『日本基督教団教会論』と

いう本で、そのことを指摘しています。今、

教団の中で「信仰告白を守る」と声を大にし

て言う人がいます。確かに「信仰告白」は教

団を支えてきた部分がありますけれども、「問

題がありますよ」ということだけはちゃんと

抑えておかなければいけないと私は思ってい

ます。 私はこの「信仰告白」では伝道出来ないと

思っています。「信仰と生活との誤りなき規範

なり」とありますが、聖書の言葉が全部誤り

なき規範だったら、それは原理主義になって

しまうじゃないですか。その他さまざまな問

題を持っていると私は考えています。

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◆戦争責任告白 1967 年に「第二次世界大戦下における日本

基督教団の責任についての告白」が出されま

した。普通「戦争責任告白」あるいは「戦責

告白」と言われています。この告白が出るに

は理由がありました。1つは若い牧師たちが

ドイツの教会闘争のことを学んでいったから

です。ヒトラーが政権をとってヨーロッパを

制圧し、著しい人権侵害を展開していった時、

ドイツ教会のあるグループの人たちは「ヒト

ラーはおかしい」と思ったわけです。その人

たちが集まって「バルメン宣言」を出しまし

た。そして、その「バルメン宣言」に基づい

てヒトラーに対する抵抗運動をやりました。

もちろんそれに対して非常に激しい弾圧が加

えられていきました。 戦争が終わった時、ドイツの場合は「シュ

ツットガルト宣言」を出して、「自分たちは神

に対して熱心でなかったことを懺悔する」と

いう大変信仰深い言葉で、ヒトラーを容認し

た自分たちの罪について告白しています。そ

してドイツの場合は、教会指導者は入れ替わ

り、ヒトラーに追随した牧師たちは激しい悔

い改めをしなければ教会に復帰出来ないとい

う状況があったのです。これは日本の教会と

全く違います。こうしたドイツの教会闘争を

若い牧師たちは勉強したのです。そして勉強

すれば、日本の教団はおかしいと誰でも思う

わけです。 もう1点、アジアの諸教会から日本基督教

団は信用されなかったのです。戦争中神社参

拝を強要し、何百人も殉教したわけですから、

当然でしょう。それらのことから日本基督教

団は「戦責告白」を出さなければ本当の教会

になれない、そして世界の教会に認めてもら

えない、という盛り上がりがわっと膨れ上が

ってきたのです。そのエネルギーを、鈴木正

久先生が受け止めて、この「戦責告白」が出

されたのです。 この「戦責告白」は、教団成立の問題、懺

悔と赦しを求める言葉、そして明日の教団に

向かって立つという決意表明の3つから構成

されています。これが出された時、強く反対

する人々がいました。戦時中大変苦労しなが

ら伝道していた牧師たちです。「この声明が出

されたら、自分たちの戦争中のことが全部否

定されるではないか」と、根強い反対意見を

出された方がかなりおられました。しかし、

鈴木先生によって出された「戦責告白」は受

け入れられていったと私は思います。また、

このことが教団・教会を本当に新しくする礎

となったと私は信じています。 この「戦責告白」が出された 67 年は、私

が神学校を卒業した年でもあります。これが

出された時に、今まで上にかぶさっていた覆

いがポンと跳ね除けられたというのでしょう

か、自由にものが言えるようになった気がし

たのです。自分たちの意見を主体的にどんど

ん出せるような雰囲気が出来てきたのです。

そういう意味でこの「戦責告白」は、教会が

革新された一つの契機だったと私は思ってい

ます。 ◆万博問題

1970 年に大阪で万博が開催されました。こ

の万博にキリスト教館を出展しようという話

が関西の経済人を中心に出され、教団はそれ

に乗ったのです。その後、若い人たちの間か

ら問題提起されたわけです。万博というのは

繁栄を謳歌するバアルの祭典ではないか。そ

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のバアルの祭典に神輿を担ぐために出て行く

ことはない。それに対して出展を決めた方は、

約束ということもあったので出展しました。

ここで両者は激しくぶつかり合い、教団の論

争が大変深刻になっていったのです。 ◆東京神学大学機動隊導入問題

東京神学大学の学生たちの大半も万博出展

に反対で教授会と対峙し、いろいろな試みが

なされたけれども、話し合って互いに了解し

合うという状況にはなりませんでした。神学

生たちは礼拝堂に椅子を並べてバリケード封

鎖してしまったのです。教授会とその学生た

ちは全く対話出来なくなってしまいました。

そうして教授会は機動隊を導入したのです。 機動隊を導入したという電話をもらい、私

はすぐに神学大学へ行きました。4階建ての

寮の屋上から私はその有様をずっと見ていま

した。機動隊は白い鉄板をパタパタと張り巡

らし、キャンパスをすぐに取り囲んでしまい

ました。白い鉄板が張られていく真ん中にチ

ャペルの十字架が立っているのです。機動隊

にこういうかたちで囲まれた中に立っている

十字架とは何なのか。私は本当に考えました。

私は反権力主義者でも無政府主義者でもあり

ません。権力が国民生活を守るという面は

重々承知していますけれども、機動隊の塀に

囲まれた中で立っている十字架とは何なのか。

ここで営まれる神学とはどんな神学なのか。

本当に悲しい思いで見ました。その光景を、

私は今でも忘れることは出来ません。 バリケードの中にいた学生たちは全部退去

させられ、教授会の言い分を受け入れる学生

だけを中に受け入れ、受け入れない半数近い

神学生が退学させられました。大学院まで行

った学生なら、ほかの神学校に行って牧師へ

の道という選択も充分出来たと思いますけれ

ども、1年生や2年生、低学年の学生が外に

出された場合、本当に身のやり場がなかった

だろうと思います。 この時に 2 人の神学生が自殺したと言われ

ています。自殺とは複合的なことですから、

簡単には言えませんけれども、自分たちの主

張に対して教授会がちゃんと聞いてくれなか

ったという絶望感があったことは間違いない

だろうと思っています。 こうして半数近くの神学生が排除されたわ

けですが、東京神学大学は入学試験を大学で

出来なくなってしまいました。そこで信徒の

家を借りて秘密裏に分散入学試験をしたので

す。それが洩れて、その試験を粉砕するとい

う行動に出た学生たちが家宅侵入罪で警察沙

汰になるということも起こりました。 教団総会や教区総会も出来ない状況になっ

てきました。学生たちの激しい主張に執行部

が対応出来なくなってしまったのです。私は

そのころ東京にいましたから、その時の光景

は覚えています。ヘルメットをかぶり、マス

クをして角棒を持って総会場に入り込み、2

階からマイクで自分たちの主張を大声で叫び

ます。こうして総会は妨害され、この時期教

会は非常に荒れました。 それから教師検定試験というのがあります。

現在の教憲・教規では教師は正教師と補教師

の二重教職制です。正教師になって初めて聖

礼典が執行出来るのですが、補教師の場合は

聖礼典を執行出来ないのです。近くに正教師

がいれば頼めるでしょうが、補教師で離島に

行った場合、正教師に船で島まで来てもらう

ことは大変です。そもそもこの二重教職制が

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おかしいので、教職制は一重でないと実際に

宣教出来ない。もし補教師を作るならば、そ

の補教師はどこかの教会の副牧師として訓練

を受け、その後、教会に赴任する時には正教

師として赴任するかたちにするべきだという

意見が当然出てきたわけです。しかしそのこ

とに対しても、教団のはっきりした姿勢が示

せなかったものですから、教師検定試験会場

にも学生たちが乱入して、試験が粉砕される

出来事もありました。 ◆その背景

私は、これらの教会の紛争の背後には中国

の文化大革命の影響があると思っています。

ソ連にクーデターが起こって書記長が交代し

た時、毛沢東一派は非常に不安になり、自分

たちの体制もひっくり返されるのを恐れまし

た。そこで彼らは永久革命を考え、既存の権

利と権力を否定して、正義と公正を求める運

動を進めたのです。ですから、金持ちやイン

テリと言われる人たちは、公衆の面前に引っ

張り出され、三角の帽子をかぶせられ、「私は

ブルジョアです」というプラカードを首にか

けられ、公衆からなぶり者にされ、「下放」と

いって農村に送って百姓をさせ、そこで正義

と公正が実現出来ると言ったのです。 この中国文化大革命の中身はなかなか伝わ

らなかったのですが、既成の権威、権力を否

定して、公義と公正を追及するという姿勢は

伝わったのです。これは若者にとっては飛び

つきたくなるような考えです。一番先に飛び

ついたのがフランスの大学でした。それから

この運動は全世界に広がり、日本の場合は東

京大学の医学部が最初です。象牙の塔と言わ

れた権威に対して学生たちが反抗し、新しい

正義と公正が実現出来る社会を作ろうという

のが全共闘のはしりです。そしてこの全共闘

がご承知のとおり全国に広がったわけです。 その影響を受けて教会も同じようなかたち

で紛争が展開していったと思います。後で分

かったことですけれども、中国文化大革命は

国家的な大損失、非常に大きなマイナスをも

たらしました。しかし、その実態がなかなか

見えなかった。若者たちは理想的な理念であ

ると受け継ぎ、神学生、教会もその波に乗っ

ていったのです。既成の教会、既成の牧師、

既成の神学教育、それらを徹底的に否定して

新たなものを創り上げていこうと、強いエネ

ルギーで若者たちが主張したのです。しかし、

どうしても噛み合うことが出来なかったので

す。 ◆全共闘の敗北

全共闘は社会の大きな厚い壁にぶつかりま

した。その後、彼らはどうなったか。分裂、

セクト化したのです。分裂していわゆる内ゲ

バ闘争、自分たちが戦うべき相手を見失って

自らが分裂し、仲間内を傷つけるというもの

に変質していきました。これが全共闘の末路

です。ニヒリズムを克服していなかったから、

分裂と内ゲバへと突き進んでいかざるを得な

かったと私は考えています。 教会も分裂していきました。教会ですから、

若者の提起を受け入れる牧師・信徒もたくさ

んいましたけれども、教会に失望落胆して多

くの若者が教会を去っていきました。これは

事実です。それでも若者たちが提起した問題

を真面目に受け止めていこうという姿勢が初

めは教団にもありました。

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◆在日大韓基督教会との宣教協約

1983 年に在日大韓基督教会との宣教協約

が結ばれました。私は、これは大きな意義が

あると思っています。あれだけ朝鮮をいじめ

てきたけれども「戦争責任告白」を出し、「許

してくれ」と懺悔したわけです。それを受け

止めたからこそ在日大韓基督教会と一緒にや

っていこうと手を握り、和解が出来たのです。

だから、在日大韓基督教会とは信徒の交流、

牧師の交流も自由だし、また伝道を応援する

ために協力しようという和解がなされたので

す。これは、戦争中の一つの問題を乗り越え

た出来事だと思っています。 ◆ホーリネス教会への謝罪

1986 年にホーリネス教会への謝罪を表明

しました。先ほどお話したように、戦争中「ホ

ーリネス教会はキリスト教ではない」と言っ

て国家の弾圧を無視したばかりか「牧師を辞

めろ」とまで言ったわけですから、ホーリネ

ス教会の傷つき方は大変なものでした。それ

について最近いろいろな本が出ています。そ

のホーリネス教会の方々を招き、教団総会に

おいて「私たちはあなた方に対して本当に申

し訳ないことをした」と謝罪表明をしたので

す。私はこの総会に出ていませんけれども、

大変感激的な謝罪表明だったと聞いておりま

す。これも自分たちが行ったことを「悪かっ

た」と懺悔することによって和解出来たわけ

ですから、素晴らしいことです。今、教区総

会では、お招きした在日大韓基督教会の牧師

とホーリネス教会の牧師が挨拶をされます。

戦争中の問題を踏まえた上で、互いに和解し

て一緒にやろうという表れですから、私は非

常に意味があると思っています。

◆沖縄キリスト教団との合同問題

1978 年から沖縄キリスト教団との合同問

題を見直すことが取り上げられてきました。

戦争中、沖縄は九州教区の中の沖縄支教区で

した。そして敗戦後、沖縄はアメリカの施政

権下に置かれ、日本から切り離されました。

沖縄支教区も教団から忘れ去られました。敗

戦時、沖縄の教会に牧師がいなかったのです。

1人いたらしいのですけれど、病気だったら

しく、信徒が中心になって大変苦労しながら

新たに沖縄キリスト教団を立ち上げていった

のです。 私の神学校時代には、沖縄からの留学生が

かなりいました。私のクラスは 30 人ぐらい

でしたが、沖縄の教会から来た学生が3人お

りました。それは本土の神学校に若い学生を

送って勉強させ、沖縄に帰して沖縄の教会を

育てていくのだという強い思いで留学生を送

ったのです。その友人たちは、アメリカ施政

権下だったので、皆パスポートを持って来て

いました。 沖縄の教会の人たちは想像以上に大変な努

力をされてきたのですが、鈴木正久先生が

1969 年に沖縄キリスト教団との合同を実現

しました。その合同とは、日本基督教団の中

に沖縄キリスト教団を吸収するというかたち

でした。本土の教団は漢字表記で「基督教団」、

沖縄はカタカナで「キリスト教団」です。本

土の教会は何も変わらず、変わったのは沖縄

の教会だけでした。そういうかたちで吸い取

っていったのです。 けれども2つの教団は全く別個のものでし

た。独立した教会同士が合同する場合には、

お互いに相手に対する敬意が必要です。教会

が合同する場合、分かりやすいのはそれぞれ

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の創立記念日を捨て、合同した日を創立記念

日にするというものです。そういうかたちで

お互いに敬意を表しての合同なら良かったの

ですけれども、大が小を呑み込む合同だった

のではないかと言われています。 その問題がこの 30 年、「日本基督教団と沖

縄キリスト教団の合同のとらえなおしと実質

化」として論争になっています。私はこの背

後にはこういう問題があると思っています。

沖縄の人たちはものすごく苦しんでいます。

それは戦前も戦中も戦後も今もそうです。今、

普天間基地があります。人がたくさん住んで

いる住宅地にあるから、辺野古に移そうとし

ています。沖縄の人たちは、あれだけの地上

戦をしたのだから、誰一人として基地がある

ことを喜ぶ人はいないと思います。ところが

沖縄は経済的に弱い、失業率も一番高い所で

す。ですから、基地は嫌だけれども生活する

ためには仕方がないという非常な苦渋の中に

沖縄の人は立っているのです。このことを理

解しなければなりません。 教会の場合、キリスト教信仰ですから輪を

かけて苦しかったと思います。自分たちは教

会だから平和を求める、人権を求める、それ

が福音に生きる者だと考えています。そうし

た苦しい中に立っているのが沖縄の教会の状

況です。ところが、その苦しい状況を本土の

教会は全く理解していない。自分たちだけで

やっていて、合同したと言っても沖縄の教会

の問題を担わないという不満が背後にあると

思うのです。私が沖縄県人だったらそう思い

ます。 そうした問題を含みながら、合同問題につ

いて沖縄から、また本土の教会からも疑義が

出されました。それに関し、本当に長い間教

会で議論されてきました。最終的に沖縄教区

は、「日本合同キリスト教会」という名前でも

う一度やり直そうという提案を出しました。

教団総会はそれを審議することが出来ずに廃

案になってしまいました。ますます沖縄の教

会は、本土の教会は自分たちの問題を本当に

理解し受け止めてくれないという失望感を持

ったのです。沖縄の教会は教団総会に議員を

出さないで本土の教会とは距離を置くという

立場をとっています。これが今の現実で、な

かなか難しい問題です。 ◆3点の結論

今までのところで、最初の万博問題で言う

ならば、何もバアルの祭典にキリスト教が出

かけていく必要はない、そんなことよりもも

っとほかに教会はすることがあると私は考え

ています。 2番目の機動隊導入に関しては、私は断じ

て受け入れることは出来ません。あの白い鉄

板で取り囲まれた真ん中に十字架が立ってい

るのを見て、ここの神学校でどんな神学が営

まれるかと、心痛みながら考えさせられまし

た。その私の心配は当たっているのではない

でしょうか。私は、今の東京神学大学の神学

は抽象的な神学と言いましょうか、本当に人

間の苦悩のただ中で福音を聞き、生きるとい

う姿勢に欠けていると思っています。 3番目の沖縄キリスト教団との合同問題に

ついて、私はやはり沖縄に対して失礼であっ

たと思っています。しかし今、この問題につ

いてお互いに和解する一致点を見出すことは

困難に思えます。今はこの問題に関して、お

互いに意見が対立して背中を向け合っている

のが現実だからです。

Page 10: 2007.3ykchurch/image/20070304.pdf2007/03/04  · 3 通りに戦争中教団は国のあり方に全面的に沿 って、戦争に協力するかたちを採りながら教 団の歩みを進めていったのです。

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私たちの港南台教会は沖縄についてどう関

係を持っているか。青年会でツアーを組んで

1回行きました。婦人会で1回ツアーを組ん

で行きました。そして宜野湾センターの又吉

さんから沖縄戦と沖縄の現状について学びま

した。これは大変意味があったと思います。

けれども私たちの教会が沖縄の教会に対して

していることは、年3万円、平和聖日に献金

を送っているだけです。だからあまり大きな

ことは言えないわけです。しかし、私は沖縄

教会の牧師からこう言われたことが心に残っ

ています。「あなた方は、あなた方が生活して

いる所で人権と平和について真剣に戦ってほ

しい。そのことによって私たちと連帯出来る

のだ」。だから、私は今立っているこの所で本

当に平和と人権を守る戦いをすることで、沖

縄で苦悩している人たちと結び合う点が持て

るのではないかと考えています。以上が問わ

れた3点の問題についての私の考えです。

◆教団紛争の評価

「戦争責任告白」が出されてから今日まで

の間、教団の紛争をどう評価するかというこ

とです。一つの評価は、隠蔽してきた戦争中

の問題をあらわにし、教会の問題として議論

出来たことについて意義があった。今までは

偉い人が一言二言えば問題が解決したのだけ

れども、そうではなくて、一人ひとりの言葉

で問題を提示出来るようになったので、この

40 年は教会にとって大いにプラスだったの

ではないかという評価をする人もいます。 反面、やはりこれは教会にとって大きなマ

イナスだったという評価です。このマイナス

点は消えません。若い人が教会を去っていっ

たことは残念です。そしてお互いの不信感を

相乗的に積み重ねていった悲しい現実もある

わけです。 教団は会議制を大事にし、民主的なルール

で事柄を進め、正常化していくことが大事で

はないかと考える人もいます。現在日本基督

教団は真っ向から意見が対立しているという

状況です。どちらが主導権を持つか、それを

争っているというのが私の見るところです。 評価については、それぞれの見方があると

思いますけれども、学生たちが主張したこと

は、信仰的に真理契機は確かにあります。私

も彼らの主張に大きく教えられた部分があり

ます。けれどもそのやり方が粗雑であって、

マイナス面も多かったのです。乗り越えられ

ることを敢えて乗り越えられないようなかた

ちで問題提起したこともあったと私は思って

います。

◆神学的な課題

最後に神学的な課題です。これは非常に分

かりやすく言うと、「イエス」か「キリスト」

か、という論争として捉えられます。「イエス」

と言った場合、人間イエスが言い表した「愛

と平和と正義」です。だから人間イエスに従

うというかたちで「愛と平和と正義」に向か

って突っ走るという方向がありました。もう

一つは「キリスト」だという場合です。キリ

ストですから人間を超越した神との関係にお

いて捉えられていくという信仰です。そうい

うところから社会派と福音派という言葉で言

われました。 私は「イエスは神の子キリストである」と

信じています。イエスは人にして神、神にし

て人であると捉えているのです。私は「イエ

ス」か「キリスト」かという論法の立て方は

Page 11: 2007.3ykchurch/image/20070304.pdf2007/03/04  · 3 通りに戦争中教団は国のあり方に全面的に沿 って、戦争に協力するかたちを採りながら教 団の歩みを進めていったのです。

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しない。イエスはキリストです。これは同一

だと思っています。イエスが求めた愛と平和

と正義を求めていく戦いは当然あります。け

れども、それだけを突っ走ると、あの全共闘

が分裂セクト化してニヒリズムに陥り、内部

抗争の中でリンチ事件まで起こすような状況

になっていったことを思います。人間はニヒ

リズムを本当に超えていかなければ前に向か

って進めないのです。そのニヒリズムを超え

るポイントは何かと言うと、イエスがキリス

トだからです。人間を超越した何者かにわれ

われはぐっと引っ張り上げられないと、ニヒ

リズムを超えられないのです。だから私は「イ

エス・キリスト」と考える、それが私の神学

的な立場です。 それから信仰と社会との関わりです。信仰

とは心の中の問題ですから、どうにでもコン

トロールすることが、ある意味で出来るわけ

です。しかしその信仰が社会とどう関わるか

ということにおいて、物の見方が非常に多様

化してきます。それが神学的な課題としてあ

るわけです。 パウロ書簡では律法から福音へと、律法に

挫折して悔い改めて福音に至るという書き方

をしていますが、カール・バルトはそれをひ

っくり返して「福音から律法へ」と言ってい

ます。これはどういう意味かと言うと、神様

はイエス様によって、人間のすべてを「よし」

とされ、是認されたのです。これが福音です。

その福音を信じる中から社会に対してどう関

わるかということを考えるのが「福音から律

法へ」という考え方です。 私は、どんなに時代が暗かろうともこの世

界を神様がイエス様の十字架によって是認し

「よし」としてくださった、「よし」としてく

ださっているならば「よし」とされているに

相応しいかたちを作ろうではないか、これが

社会との関わり方を決定していくと思ってい

ます。「あなたは間違っているから悪です」と

弾劾するだけでは進めない。すべて神様が是

認してくださっている、その是認に反するこ

とに対してはあくまで「違う」とはっきり言

い続ける。だから、福音という喜びの中から

社会との関わり、律法というもの、あるべき

姿というものが導き出されていくのではない

かというのが私の信仰的立場です。 それから、私が一番心配していることは、

日本基督教団の論争の仕方はきわめて政治的

だということです。政治的ということは仲間

を増やし、数を競うということです。仲間を

増やして採決で勝つ。民主主義はそうです。

けれども私は教会の論理は違うと思っていま

す。仲間が集まってグループを作り、敵と味

方に分かれる。それぞれのグループの人たち

は、一つの問題が出た時に、そのグループは

皆同じ意見、一色になるのです。同じグルー

プの中でも、それぞれ違う意見があったり、

いろいろなかたちがあっていいと私は思うの

です。イエス様は「『然り、然り』『否、否』

と言いなさい」と言っていますが、それは事

柄によっては対応が変化するということです。

それが全く一色になっているので、政治的な

駆け引きが行われていると思うのです。 今、教団総会、教区総会で教団議長や教区

議長を選ぶ選挙で、最近はほとんど票割りさ

れていると聞きます。「お前はここへ入れろ」

「お前はこれ」と大体票割りして、選挙する

前から結果は見えていると言うのです。これ

は政党のやり方と同じではないですか。だか

ら群れないで、もっと一人ひとりが自立的に

Page 12: 2007.3ykchurch/image/20070304.pdf2007/03/04  · 3 通りに戦争中教団は国のあり方に全面的に沿 って、戦争に協力するかたちを採りながら教 団の歩みを進めていったのです。

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社会委員会からのお知らせ ★新委員を募集しています。偶数月の第1主日の礼拝後に委員会を開いています。どな

たでも歓迎いたします。 ★6月3日(第1主日)にビデオ上映会を予定しています。お薦めのビデオがありまし

たら、社会委員までお知らせ下さい。

★社会委員会へのご意見や学習会で取り上げてほしいテーマがありましたら、お知らせ

下さい。

立ってそれぞれの意見を主張し合い、それを

集約しながら問題を福音的な方向に導く、教

団はそういうかたちを採っていくべきではな

いでしょうか。 ある信徒の方が、「牧師先生方は政治が好き

だから」と言いました。小井沼先生は、「教会

政治にのめり込むのは教会ニヒリズムではな

いですか」と言っていましたが、そういう臭

いがしないでもない。私は 60 年代後半から

そういうことを感じていました。私たちは神

様の前で単独者であるべきです。そして「私

はこう思う」と主体と実存をかけて発言をす

る。そこで初めて神学的な論争が出来るので

はないでしょうか。 私はバルメン宣言が大好きです。カール・

バルトが原案を書いたと言われていますが、

本当に短い6項目の文章です。その第1項に、

「聖書においてわれわれに証しされているイ

エス・キリストは、われわれが聞くべき、ま

たわれわれが生と死において信頼し服従すべ

き神の唯一の御言葉である」とあります。こ

れは当たり前でしょう。これはものすごく信

仰的な言葉です。この言葉があのヒトラーの

時代に発せられたことは何を意味するか。ヒ

トラーは「私に従い、忠誠を尽くせ」と言い

ました。それに対して「いや、私たちはあな

たには従いません。私たちが従うのはイエス

様だけです」と言ったわけです。私はこうい

う言葉こそが本当に神学的な言葉だと思って

いるのです。こういう言葉でいろいろな事柄

に向き合っていかないと、数を集めて主導権

を争う中では教会が教会になっていかないの

ではないかと私は考えています。

◆おわりに

皆さんに私の話を理解していただいたかど

うか分かりませんけれども、私はこういうこ

とを教団の問題として考えております。最初

に申しましたように、私の言っていることは

全て正しいというのではありません。あくま

でも私がそう考えているということですから、

皆さんご自身で教団との関わりを主体的に考

えていただければ嬉しいと思っています。