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「軍事的オプション」をめぐる政軍関係 1 「軍事的オプション」をめぐる政軍関係 軍事力行使に係る意志決定における米国の文民指導者と軍人菊地 茂雄 はじめに米国の政軍関係における軍事的オプションの重要性 本稿の目的は、米国で軍事力の行使が検討される場合において、そのための「軍事的オ プション(military option)」軍事作戦を、どのような戦力とどのような計画により、どのよう な時と場所において行おうとするかを示し、政策決定者が選択し得る形で提示されるものをめぐり、政治指導者と軍人との間でどのような駆け引きが行われたかを、近年の事例を取り上 げて明らかにすることである。こうした研究には、大きく2 つの点から意義があるものと思われる。 1 は、シビリアン・コントロールの観点からである。一般的に、シビリアン・コントロールは「民 主主義国家における軍事に対する政治の優先、または軍事力に対する民主主義的な政治に よる統制」を意味すると理解される 1 。しかし、その「政治の優先」が実際に何を意味するかは、 個々の国の実情に照らし合わせて考える必要がある。その点について、米国の軍事史家リ チャード・コーン(Richard H. Kohn)ノースカロライナ大学チャペルヒル校名誉教授は、クー デターなどの軍による政治への介入の懸念のない、安定した民主国家においては「文民が 軍事政策と意志決定において優越性を発揮することができるか否か」がその指標となると指 摘している 2 米国においては、文民指導者の「優越性」はすでに担保されているように見える。決定 権限が、どのようなものであれ、究極的には文民指導者にあるからである。大統領には「最 高司令官」として軍を指揮する権限がある。また、国防長官は「大統領に対する、国防省 に関わるあらゆる事項についての首席補佐官」と法律上規定され 3 、国防省のすべての構成 要素は国防長官の「権限、指示、統制」に服すると規定され、国防長官には、国防省の 末端にいたるまでこれをコントロールする権限があることは疑いの余地のないものとなっている 4 1 防衛省『平成 24 年版 日本の防衛―防衛白書―』(防衛省、2012 年)110 ページ。 2 Richard H. Kohn, An Essay on Civilian Control of the Military, American Diplomacy (March 1997), http://www.unc.edu/depts/diplomat/AD_Issues/amdipl_3/kohn.html. 3 U.S. Code 10 (2012), sec. 113 (b), http://www.law.cornell.edu/uscode/text/10/113. 4 なお、国防長官の国防省を指揮する権限について、これまで疑義がはさまれたり、挑戦がされたりすることがなかっ たわけではない。詳細は、菊地茂雄「第 2 次世界大戦後の米国における統合強化をめぐる議論と政軍関係「スーパー長官」、「参謀総長」、「プロシア型参謀本部」 」『国際安全保障』第 34 巻第 4 号(2007 3 月)、 48 5254 56 ページ参照。

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「軍事的オプション」をめぐる政軍関係

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「軍事的オプション」をめぐる政軍関係 ―軍事力行使に係る意志決定における米国の文民指導者と軍人―

菊地 茂雄

はじめに―米国の政軍関係における軍事的オプションの重要性

本稿の目的は、米国で軍事力の行使が検討される場合において、そのための「軍事的オプション(military option)」―軍事作戦を、どのような戦力とどのような計画により、どのような時と場所において行おうとするかを示し、政策決定者が選択し得る形で提示されるもの―

をめぐり、政治指導者と軍人との間でどのような駆け引きが行われたかを、近年の事例を取り上げて明らかにすることである。こうした研究には、大きく2つの点から意義があるものと思われる。第 1は、シビリアン・コントロールの観点からである。一般的に、シビリアン・コントロールは「民

主主義国家における軍事に対する政治の優先、または軍事力に対する民主主義的な政治による統制」を意味すると理解される1。しかし、その「政治の優先」が実際に何を意味するかは、個々の国の実情に照らし合わせて考える必要がある。その点について、米国の軍事史家リチャード・コーン(Richard H. Kohn)ノースカロライナ大学チャペルヒル校名誉教授は、クーデターなどの軍による政治への介入の懸念のない、安定した民主国家においては「文民が軍事政策と意志決定において優越性を発揮することができるか否か」がその指標となると指摘している 2。米国においては、文民指導者の「優越性」はすでに担保されているように見える。決定

権限が、どのようなものであれ、究極的には文民指導者にあるからである。大統領には「最高司令官」として軍を指揮する権限がある。また、国防長官は「大統領に対する、国防省に関わるあらゆる事項についての首席補佐官」と法律上規定され 3、国防省のすべての構成要素は国防長官の「権限、指示、統制」に服すると規定され、国防長官には、国防省の末端にいたるまでこれをコントロールする権限があることは疑いの余地のないものとなっている4。

1  防衛省『平成 24年版 日本の防衛―防衛白書―』(防衛省、2012年)110ページ。2  Richard H. Kohn, “An Essay on Civilian Control of the Military,” American Diplomacy (March 1997),

http://www.unc.edu/depts/diplomat/AD_Issues/amdipl_3/kohn.html. 3  U.S. Code 10 (2012), sec. 113 (b), http://www.law.cornell.edu/uscode/text/10/113.4  なお、国防長官の国防省を指揮する権限について、これまで疑義がはさまれたり、挑戦がされたりすることがなかったわけではない。詳細は、菊地茂雄「第 2次世界大戦後の米国における統合強化をめぐる議論と政軍関係―

「スーパー長官」、「参謀総長」、「プロシア型参謀本部」―」『国際安全保障』第 34巻第 4号(2007年 3月)、48~ 52、54~ 56ページ参照。

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しかし、形式論から離れ、意志決定のプロセスに目を転ずると、文民指導者に法令上の権限があったとしても、それにより自動的に意志決定における「優越性」が確保されるわけではない。特に、文民指導者が軍事力行使に係る決定をする場合、―それを承認するにせよ、却下するにせよ、あるいは修正を指示するにせよ―軍が提出するオプションを基に行う必要があるからである。文民指導者と軍人の役割が未分化であった米国独立期から 5、軍のプロフェッショナル性が

否定され、軍人としての専門教育を受けない者が、政治的コネクションにより直接指揮官となった南北戦争までの時期であればいざしらず 6、軍事という分野が高度に専門的なものとなった20世紀以降において、文民指導者が、軍からオプションが提示されない白紙的状況において、軍事作戦に関する決定を行うことは困難である。さらには、多くの国家と同様、米国においても、こと軍事に関しては軍が専門知識の点で極めて強い優位性を持っていることは言を待たない。第 2に、軍事力行使に係る意志決定において、よりよい結果を得るにはどのようにすれば

よいかという点からも、軍事的オプションの研究は重要である。軍事作戦における文民指導者と軍人の役割について、米国には大きく2つの考え方がある 7。第 1は、軍事作戦に関しては、文民指導者は大きな目標を定める一方で、細部については軍人に任せて、介入は控えるべきであるという考え方である。その代表は、サミュエル・ハンティントン(Samuel P.

Huntington)が主張した「客体的コントロール(objective control)」であり8、文民指導者と軍との間の分業を想定し「可能な限り軍事的な事項における軍のフリーハンドを与える」とする考え方である。この考え方は広く受け入れられており、軍事史家として著名なエリオット・コーエン(Eliot A. Cohen)高等国際関係大学院(SAIS)教授は「政軍関係の正常理論(normal theory of civil-military relations)」と呼んだ 9。第 2の考え方は、対照的に「戦争は軍に委せてしまうにはあまりに重大すぎる」(ジョルジュ・クレマンソー(Georges

Clemenceau))ことから、文民指導者は要すれば軍事作戦の細部に介入し、コントロール

5  Samuel P. Huntington, “Civilian Control and the Constitution,” American Political Science Review, vol. 50, no. 3 (September 1956), p. 679.

6  ハンティントンは、文民から軍士官に任官する例が多かったとして、1802年から1861年までの 37人の将官の内、一人も陸軍士官学校の卒業生がおらず、そのうち 23人にそもそも軍の経験がなかたと指摘する。Samuel P. Huntington, The Soldier and the State: The Theory and Politics of Civil-Military Relations (Cambridge, MA: Belknap Press, 1957), pp. 203-6. また、Reginald C. Stuart, Civil-Military Relations during the War of

1812 (Santa Barbara, CA: Praeger Security International, 2009), p. 21.7  Richard K. Betts, American Force: Dangers, Delusions, and Dilemmas in National Security (New York:

Columbia University Press, 2012), pp. 206-7.8  Huntington, The Soldier and the State, p. 83.9  Eliot A. Cohen, Supreme Command: Soldiers, Statesmen, and Leadership in Wartime (New York: Simon

& Schuster, 2003), pp. 4-5.

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を徹底すべきであるという考え方である 10。デューク大学教授のピーター・フィーバー(Peter D.

Feaver)は、第 1の考え方を、文民指導者に従属すべき軍に対して「事実上の権限を付与する」度合いが高いことから「委任的コントロール(delegative control)」、第 2を、文民指導者が軍事作戦においても、コントロールを主張(assert)しようとすることから「アサーティブ・コントロール」と表現した 11。なお、米国においても、その時の米国と文民指導者、軍が置かれた状況により、説得力

を持って受け止められる考え方も異なるし、その立場によっても見解が分かれる。そこで、本稿では、近年の軍事力行使をめぐる意志決定において、軍からどのようなオプションが提示されたのか、あるいは、実際に成功したとされるオプションがどのように提供されたのかを検討することにより、軍の自律性を認めて、フリーハンドを与えた場合、そのことが軍事作戦の成功に寄与しえたのかどうかを検討し、「政軍関係の正常理論」がどの程度妥当しているか明らかにしたい。本稿では、①湾岸戦争の事例(1990~ 91年)、②イラク増派(2006~ 07年)、アフ

ガニスタン増派(2009年)の例を取り上げる。これらは、軍事的オプションが政軍関係上の重要な争点となり、文民指導者と軍人の間に相当の軋轢が生じた事例である。また、これらの事例は、米国が冷戦後のグローバルなリーダーシップを確保する上で重要な意義を持つものであり、これらの事例は周辺的な事例として無視できるものではない。その意味で、これらの事例を取り上げる意義は大きいものと思われる。

1 湾岸戦争の事例(1990年 8月~ 91年 2月)

( 1 )軍事的オプション検討に対する軍の抵抗一般的に、湾岸戦争は、政治指導者と軍人の連携が円滑に進められた、政軍関係のモ

デルと見なされることが多い。コーエンSAIS教授は「米国の軍事的神話において、ベトナムを暗く不吉な物語とするならば、1991年の湾岸戦争はその対極とされている。すなわち、政治指導者は、戦争の目的を定め、作戦実施については単純な指針を示すだけで、後は[軍人が作戦を進めるのに]邪魔にならないようにするというように、やるべきやり方で行われた戦

10  代表的なものとして以下を参照。Cohen, Supreme Command, pp. 173-207; Peter D. Feaver, Armed Servants:

Agency, Oversight, and Civil-Military Relations (Cambridge, MA: Harvard University Press, 2003), pp. 5-6; Barry Posen, The Sources of Military Doctrine: France, Britain, and Germany between the World Wars (Ithaca, NY: Cornell University Press, 1984), pp. 55-7, 225-6, 241.

11  Peter Douglas Feaver, Guarding the Guardians: Civilian Control of Nuclear Weapons in the United States

(Ithaca, NY: Cornell University Press, 1992), pp. 7, 9.

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争の物語とされたのである」(以下、直接引用中の筆者による補足は[ ]内に記す)と指摘する 12。しかし、湾岸戦争は、文民指導者が作戦について介入せずに、軍人に委せるというやり方で、円滑に進められたわけではない。むしろ、軍の軍事力行使への抵抗や文民指導者による軍事作戦の細部への介入など、その重要なポイントにおいて両者の間に軋轢が生じたことが特徴である。特に軍事力行使に係る政軍関係の点から注目されるのが、90年 8月2日のイラクのクウェート侵攻直後の段階で、軍が政府部内での議論が軍事力行使に傾くのを阻止しようとしたことであった。たとえばコリン・パウエル(Colin L. Powell)統合参謀本部(JCS)議長は、文民指導者が安易に武力によるクウェート解放に傾くのを警戒し、サウジアラビア防衛態勢を固めることを最優先すべきと主張し、対イラク軍事行動のオプションについては「作業中」として提示を拒否していた。さらに、空爆はどうかという提案に対しても、否定的な姿勢を示していたのである13。パウエルの軍事力行使への慎重姿勢は、ディック・チェイニー(Dick

Cheney)国防長官が、クウェート侵攻直後の 8月上旬、サウジアラビアを訪問するのに際して、サウジアラビアの安全保障に対する米国の「強いメッセージ」を伝え、米軍派遣を受け入れさせるのにふさわしくないとして、同行者から外したほどであった 14。チェイニー国防長官は、パウエルが軍事力行使に関するオプションの提示を拒んでいた態度を「受け入れられない」とし、軍事的オプションを提出するよう強く求めた 15。それと同時に、自身の下に配置されていた軍事補佐官に、それぞれの出身の軍種に戻り、イラクに対してただちに取りうる軍事的オプションに関するアイデアを探して持ってくるように指示したものである 16。これは、軍事的な助言は JCS議長から提供されるという正規のチャンネルを逸脱した行為であった。これに対して、パウエルは、軍事補佐官の行動がルートを無視した行為であるとして厳しく叱責し、国防長官に上げられる情報やオプションはすべてパウエルか JCSを通すように指示したという17。チェイニーが、パウエルに軍事的オプションの提示を強く求め、さらには、独自のルートを

12  Cohen, Supreme Command, pp. 188-9.13  Michael R. Gordon, and Bernard E. Trainor, The Generals’ War: The Intense Story of the Conflict in the

Gulf (Boston: Little, Brown, 1995), p. 33; Bob Woodward, The Commanders (New York: Simon & Schuster, 1991), p. 233.

14  Dick Cheney with Liz Cheney, In My Time: A Personal and Political Memoir (New York: Threshold Editions, 2011), p. 188. なお、パウエルは訪問団から外れたことについては、自身の回顧録でも記述していない。Colin L. Powell, My American Journey (New York: Random House, 1995), pp. 466-7.

15  チェイニーは、普段、パウエルをファーストネームで呼んでいたが、この際は、国防長官からの命令であることを明確にするために、あえてフォーマルに「将軍(General)」と呼びかけ「オプションが必要だ」と述べたという。Cheney, In My Time, p. 185.

16  Woodward, The Commanders, pp. 234-5; Cheney, In My Time, p. 185.17  Woodward, The Commanders, p. 238.

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活用して軍内を探らせたのは「大統領は全範囲のオプションを持つ権利」があり18「国防省における我々の責任は、大統領が検討するべき全範囲のオプションを手にするよう確実にすることである」との自身の考え方による 19。そうでなければ、大統領は、軍が認めた範囲の決定しかできなくなり、憲法上の「最高司令官」としての権限を実質的に振るうことができなくなるからである。すなわち、複数の実質的なオプションを確保することこそが、大統領の実質的な決定権限、すなわち、意思決定における「優越性」を確保する上で必要になる。そのために、パウエルがオプションを提示しないのであれば、それを待つまでもなく、他を当たる必要があったのである 20。

( 2 )地上作戦計画立案における文民の役割また、政=軍の分業が明確になされたとされる湾岸戦争において、軍以外から重要なインプッ

トがなされた例として、いわゆる「レフトフック」作戦の計画立案の過程がある。これは、湾岸戦争の末期の 1991年 2月24日から28日にかけて、クウェート解放のために行われた地上軍による攻勢作戦で、クウェートに直接進軍する一方、クウェート西方の砂漠地帯から東進し、クウェートから退却しようとするイラク軍の退路を封鎖し、包囲殲滅しようとした作戦である。

90年 8月のクウェート侵攻後、9月末になると経済制裁といった非軍事的手段ではイラクをクウェートから撤退させることが難しいことが認識されるようになり、地上作戦を含めた軍事力行使のオプションが本格的に検討されるようになる 21。すなわち、イラク軍はクウェート国内に陣地を構築して防衛態勢を固めつつあり、イラクをクウェートから軍事的に駆逐するには、航空攻撃だけでは不十分で、地上軍によるクウェートのイラク軍に対する攻勢作戦が必要となったのである。そこで、ノーマン・シュワルツコフ(H. Norman Schwarzkopf)中央軍司令官は、9月中旬には、本国から地上作戦の専門家を呼び寄せて作戦計画作成に着手させた 22。10

月上旬までに出来上がったのが、1個軍団の戦力によりクウェートに展開するイラク軍に対して正面攻撃を行うという計画であった 23。そこで、パウエルの指示で、シュワルツコフは、上記の作戦を含む対イラク軍事作戦計画

を説明するため、中央軍司令部のチームをワシントンに派遣した24。彼らによるブリーフィングは、

18  Ibid., p. 234.19  Cheney, In My Time, p. 185.20  Woodward, The Commanders, p. 235.21  Henry S. Rowen, “Inchon in the Desert: My Rejected Plan,” National Interest, Summer 1995, p. 35.22  H. Norman Schwarzkopf, General H. Norman Schwarzkopf: The Autobiography: It Doesn’t Take a Hero

(New York: Linda Grey Bantam Books, 1992), p. 354.23  Robert H. Scales, Jr., Certain Victory: The U.S. Army in the Gulf War, Brassey’s Five Star Paperback ed.

(Washington, DC: Brassey’s, 1997), pp. 125-6.24  Schwarzkopf, It Doesn’t Take a Hero, p. 358.

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90年 10月10、11日、チェイニー国防長官とパウエル JCS議長、ジョージ・H・W・ブッシュ(George H. W. Bush)大統領を含む国家安全保障会議(NSC)に対して行われたが、クウェートを正面から攻撃するという計画は、説明を受けた者を大きく失望させるものであった。チェイニー国防長官は、作戦計画に対して、なぜ、イラク軍が防御陣を構築しているクウェー

トにサウジアラビアから北上して直接攻撃しようとするのか、なぜ、西方から迂回して側面攻撃を行わないのか質問したが、満足のいく答えは得られなかった 25。また、スコウクロフト(Brent

Scowcroft)大統領補佐官も同様の疑問を持ち、中央軍司令部のブリーフィングに「愕然」とし、チェイニーにやり直しさせるよう要請した 26。なお、シュワルツコフの下で作成された計画がクウェートを直撃するものにとどまったのは、それ以上の大がかりな作戦を行う戦力がないと中央軍司令部が想定していたからであった。実際、シュワルツコフ自身、作戦計画に満足していたわけではなく「イラク軍の防御ラインが待ち構えるど真ん中に突撃するようなもの」であり、不測の事態に対処するための予備戦力も存在しないなど、リスクの高い計画案だと考えていた。そこで、あえてブリーフィングスライドに「地上攻勢作戦計画は固まっておらず、いまだ地上で攻撃を行う能力は備わっていない。成功裏に実施するためには追加 1個重軍団が必要」という断り書きを入れさせていた 27。しかし、問題は、ブリーフィングにおいては、その追加の軍団をどのように活用するか明らかにしていなかったことである28。中央軍司令部による作戦計画のブリーフィングは、スコウクロフトが指摘するように「熱意に欠け、その仕事をやりたくない人 に々よってなされた」と受け止められたのである 29。そこで、中央軍司令部の作戦計画の説明を受けてチェイニーが取った行動は、きわめて特異なものであった。チェイニーは、パウエルに、シュワルツコフに「機能する作戦計画」を持ってくるよう、計画の練り直しを指示させると同時に、ポール・ウォルフォウィッツ(Paul Wolfowitz)国防次官(政策担当)の下で、地上作戦の代替案作成を進めさせたのである 30。これは、研究者出身のヘンリー・ローウェン(Henry S. Rowen)国防次官補(国際安全保障問題担当)の発案によるものであった。チェイニー国防長官は、イラク軍の戦力の手薄な、ヨルダンとの国境寄りの西部の砂漠に侵攻するというローウェンのアイデアに基づき、詳細な作戦計画を作成するよう、ウォルフォウィッツの下に設置されたデイル・ヴェッサー(Dale

25  Cheney, In My Time, p. 198.26  George Bush and Brent Scowcroft, A World Transformed, first Vintage Books ed. (New York: Vintage

Books, 1998), p. 381.27  Schwarzkopf, It Doesn’t Take a Hero, p. 356, 359, Scales, Certain Victory, p. 126.28  Gordon and Trainor, The Generals’ War, p. 140. また、パウエル JCS議長も、中央軍司令部のブリーフィングでこの点を明らかにしていなかったのに驚いたと述べている。Powell, My American Journey, p. 484.

29  Bush and Scowcroft, A World Transformed, p. 381.30  Cheney, In My Time, p. 200.

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Vesser)退役陸軍中将を長とするチームに対して指示した 31。ヴェッサーのチームが作成した作戦計画は、イラク西部の砂漠に空挺部隊を投入し、さらに機甲部隊を侵攻させ空挺部隊と合流させるというものであった。これにより、イラク指導部に揺さぶりをかけつつ、バグダッドを脅かす態勢を取ることでイラク軍を誘い出して航空攻撃の標的とするというものであった。なお、西方に展開すると想定されたスカッドミサイルの発射エリアを確保することで、イスラエルに対するミサイル攻撃を未然に防ぐということも期待された 32。なお、この作戦はチェイニーにより「西方遠征」と名付けられた。チェイニー国防長官は、パウエル JCS議長がサウジアラビア訪問中のためワシントンDC

を空けていた 10月23日、デービッド・ジェレマイア(David Jeremiah)JCS副議長を呼び、計画案のブリーフィングを受けさせた 33。また、チェイニー国防長官は、ジェレマイアを伴ってホワイトハウスに赴き「西方遠征」計画をブッシュ大統領らに説明した 34。法律上、大統領の「首席軍事顧問」とされる JCS議長のパウエルが了承していない作戦計画を、国防省の最高責任者であるチェイニーがブッシュ大統領に売り込みに行くというのは、通常の意志決定プロセスを完全に逸脱したものであった 35。そのような極めて特異な行動に出たことで、チェイニーは、クウェートのイラク軍に正面攻撃を加えるという中央軍の計画では、到底チェイニーらが納得することはないという印象を軍に強く与えることとなった 36。チェイニーは、回顧録でこうした自身の動きにより「将軍たちに、[地上作戦計画にかける]私の真剣さを伝えることができると踏んでいた」と説明している 37。パウエルやシュワルツコフは「西方遠征」計画はあまりにリスクが大きいと判断しており、同計画が正式に採用されることはなかった 38。しかし、チェイニーの考えに対応するため、中央軍司令部で作成される計画案も、側面攻撃を含むものに変更され、その側面攻撃も、チェイニーへの配慮から、より大きくクウェートから離れた西方から行われるように修正されていった 39。すでに述べたように、軍事作戦は、通常、軍人が、高度な専門知識に基づき、オプショ

31  Rowen, “Inchon in the Desert,” pp. 36-7.32  Gordon and Trainor, The Generals’ War, pp. 143-5, Rowen, “Inchon in the Desert,” p. 36.33  Cheney, In My Time, p. 203.34  Gordon and Trainor, The Generals’ War, p. 150.35  シュワルツコフは、チェイニーの動きについて、大統領は大統領らしく振る舞い、国防長官が軍事政策の決定に集中、JCS議長が文民指導者と軍の指導者の間のファシリテーターとなり、戦域指導者である自身が任務完遂のための十全な権限を付与されるという、通常の指揮系統を崩すものであり、ベトナム戦争の再来になると批判した。Schwarzkopf, It Doesn’t Take a Hero, p. 368.

36  Gordon and Trainor, The Generals’ War, p. 151.37  Cheney, In My Time, p. 203.38  シュワルツコフは、同計画を「これ以上ないくらいにひどい」と述べ、彼が、中央軍司令部の地上作戦計画担当者に作成させた評価は「遠すぎた橋」というものであった。Schwarzkopf, It Doesn’t Take a Hero, p. 368.

39  Gordon and Trainor, The Generals’ War, p. 151.

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ンの作成を独占的に行っている分野である。そのため、軍から具体的な作戦案として提示されないかぎり、軍事専門家ではない文民が作戦の具体化を進めることは難しい。この時点でも、パウエルにしても、シュワルツコフにしても、イラクに対して軍事行動をとることには否定的であり、彼らは、時間をかけて経済制裁の効果が出るのを待つべきとか、あるいはそもそもクウェート解放は戦死者を出してまで追求する価値はないといった持論をメディアで展開していた。軍が対イラク軍事作戦の計画を提示せず、時間稼ぎに出ることは充分に考えられた 40。そこで、文官スタッフの国防次官(政策担当)室が「西方遠征」計画として、地上作戦

についての詳細な代替案が提示することで、軍だけが軍事作戦に係るオプションを提示できるのではないことを示したことは、大きな意味を持つ。一つは、それによって文民指導者の意思決定の優越性を確保したことである。すなわち「西方遠征」計画が大統領にまで提示されたことで、軍がチェイニー国防長官の要望に添った地上作戦の計画案を提示せずに、時間稼ぎをしていたら、「西方遠征」計画が大統領の承認を得てしまい、軍に対して、事後的に上から押し付けられるという可能性が生じたのである 41。マイケル・ゴードン(Michael R. Gordon)とバーナード・トレーナー(Bernard E.

Trainor)は、チェイニーは「軍にチェイニーの計画を受け入れるか、あるいは想像力のある代替案を示すよう迫ったのである」と評価しているのもそのことを示している 42。もう一つは、作戦計画の発展に寄与したことである。10月の段階の中央軍の作戦計画と比べて「西方遠征」計画はダイナミックで、敵の弱点を衝こうとするものであった。確かに、リスクをはらむものではあり、それ自体が採用されることはなかったが、結果的に、中央軍にダイナミックな地上作戦の採用を促した。そのことは、軍以外からも、軍事作戦に関する重要なアイデアが提供される得ることを示している。

2 イラク増派決定の事例(2006年~ 2007年 1月)

( 1 )イラク増派の決定プロセスとその特徴2007年 1月10日、ジョージ・W・ブッシュ(George W. Bush)大統領は、ホワイトハウ

スから放送された演説において、宗派間の暴力が激増し、急激に悪化したイラクの情勢を「受

40  Ibid., p. 149.41  チェイニーは、戦後 PBSのインタビューで「西方遠征」計画を作成させた意図について「統合参謀部、現地、中央軍の全員に対して「おい、さっさと協力して計画を作るんだ。君たちが、私が満足するような計画を作らないのであれば、私が計画を押しつけるぞ」というシグナルを送った」と述べている。Dick Cheney, “Oral History: Richard Cheney,” PBS, http://www.pbs.org/wgbh/pages/frontline/gulf/oral/cheney/1.html.

42  Gordon and Trainor, The Generals’ War, p. 152.

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け入れられないもの」として、イラクにおける戦略を変更すると宣言した。同大統領は、具体的に、①それまでの敵の攻撃・捕縛に重点を置いた「敵攻撃重視の(enemy-centric)」作戦から、米軍が市街地に分散配置し住民の保護を行う「住民保護重視(population-

centric)」の対反乱(counterinsurgency, COIN)作戦に変更すること、②そのために 5個旅団、約 2万人の兵力をイラクに追加派遣することを明らかにした 43。また、新戦略公表に先立つ 1月5日には、2004年 7月よりイラクでの作戦の責任者を務めていたジョージ・ケイシー(George W. Casey, Jr.)駐イラク多国籍軍(MNF-I)司令官の後任に、デービッド・ペトレアス(David H. Petraeus)陸軍諸兵科連合センター司令官を充てる人事を公表していた 44。この 5個旅団の追加派遣は、その前提となった住民保護重視のCOIN作戦へのシフトを包含して「イラク増派(Iraq Surge)」として知られる。これにより、キンバリー・ケーガン(Kimberly

Kagan)が指摘するように、ブッシュ大統領は「大統領の指導力を大胆に発揮し、米国のイラクにおける戦争努力の任務、戦略、戦力規模、指導者チーム全体を変えてしまった」のである 45。この事例の大きな特徴は、イラクでの戦略の転換に際して、大統領の能動的なリーダーシップが見られたことである。ブッシュ大統領は、当初、イラク側への責任移譲を加速化すべきというケイシー司令官らの主張を受け入れていたものの、次第に疑問を持ち、NSCでのイラク戦略の見直しを進めさせると同時に、最終的にはケイシーや JCSの意見を退けて、イラクへの 5個旅団を追加派遣すると同時に、イラクでの作戦の力点を住民保護重視の COIN

作戦に変化させることに決定した。もう一つの特徴は、上記のような、軍事的オプションが、JCSや中央軍、MNF-I司令官といった通常軍事的オプションが提示されるはずのチャンネルからはもたらされず、NSCや部外のシンクタンクや専門家といった、それら外部から提示されたことである。

( 2 )政府部内でのイラク戦略の見直しケイシー司令官の下でのイラクでの戦略は、イラクへの治安維持の責任移譲を加速化する一方で、米軍自体は、テロリストの掃討を中心にした作戦を推し進めるというものであった。また、ケイシーは、サマラのモスク爆破以後の治安の悪化についても、米軍に対する反乱ではなく、

43  George W. Bush, “President’s Address to the Nation, January 10, 2007,” National Archives and Records Administration, http://georgewbush-whitehouse.archives.gov/news/releases/2007/01/20070110-7.html.

44  MNF-I司令官の交代に関する分析は、菊地茂雄「政軍関係から見た米軍高級幹部の解任事例―マッカーサーからマクリスタルまで―」『防衛研究所紀要』第 13巻第 2号(2011年 1月)80~ 84ページ、参照。

45  Kimberly Kagan, The Surge: A Military History (New York: Encounter Books, 2009), p. 28.

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宗派間の抗争であるため、イラク人自身による和解しか解決策はないとして、むしろ撤退を進めるべきと考えており、2006年 6月の時点でも、すでに 2005年 12月公表した 2個旅団の撤退に加えて、さらに 3個旅団を撤退させることを検討していた 46。こうした戦略は、ブッシュ大統領の言葉を借りると「我々の軍事戦略は、イラク治安部隊を訓練する一方で、過激派を狙うことに集中していた」、「イラク側が立ち上がると同時に、我々は身を引く」というものであった 47。ただし、こうした戦略には、米軍が市街地でテロリストを掃討しても、作戦終了後、そこか

ら引き上げるので、テロリストが戻ってきてしまい、一向に治安が改善しないという重大な欠陥があった。また、イラク部隊の養成が十分でないまま、責任委譲を進めようとしてもうまくいかないことも指摘されていた 48。2006年 6月頃には、ブッシュ大統領もイラクでの戦略がうまくいってないことを認識していた 49。こうした状況において、イラク戦略の見直しは、ホワイトハウスを中心に進められていく。まず、ブッシュ大統領の了承の下、NSCスタッフ内で、インフォーマルな形でイラク戦略の見直しが進められた。そこでは、増派もオプションとして議論され 50、NSC内部での分析の結果、そのために 5個旅団が捻出可能との結論も得ていた 51。また、11月には、ブッシュ大統領の指示により、J・D・クラウチ(J.D. Crouch)副国家安全保障アドバイザーを取りまとめ役に、国防省、国務省、情報、NSCの代表者による正式な戦略の見直しが実施されるが 52、国防省や国務省も、イラクへの権限移譲と、米国の

46  George W. Casey, Jr, Strategic Reflections: Operation Iraqi Freedom July 2004-February 2007 (Washington, DC: National Defense University Press, 2012), pp. 83, 107.

47  George W. Bush, Decision Points (New York: Crown Publishers, 2010), p. 356.48  この問題は、2006年 6月から10月にかけて実施された Together Forward Iおよび II作戦で露呈した。在イラク米軍(MNF-Iから改編)が作成したイラク戦争に関する公刊戦史は「究極的には、イラク軍も同盟軍も確保された地域を維持するのに必要な人数も能力も持っていなかった」、「2006年 11月までには Together Forward作戦は失敗と見なされ、放棄された」と述べている。United States Forces-Iraq, Iraq War 2003-2011 (Washington, DC: U.S. Government Printing Office, 2012), p. 70.

49  Bush, Decision Points, pp. 364, 367, 371, Bob Woodward, The War Within: A Secret White House History,

2006-2008 (New York: Simon & Schuster, 2008), p. 177.50  10月には、NSCのウィリアム・ルティ(William J. Luti)大統領特別補佐官・上級部長(国防政策・戦略担当)は、クラウチの指示によりイラクにおける新しい作戦コンセプトについて検討を行い、バグダッドなどの安全確保のため増派を行うことを提言した。また、10月後半に、ミーガン・オサリバン(Megan O’Sullivan)副国家安全保障アドバイザーは、NSCスタッフと国務省代表だけにより見直しを実施し、①「戦略の微調整」、②米軍はアルカイダ攻撃に焦点をあてる「努力の目標を絞る」、③増派、④マリキ政権の能力強化、の 4つのオプションを取りまとめた。Woodward, The War Within, pp. 161, 170, 190-2.

51  軍からNSCに出向してきていたルティの部下が、国防省の同僚から情報を得て分析を行った。Michael R. Gordon and Bernard E. Trainor, The Endgame: The Inside Story of the Struggle for Iraq, from George W.

Bush to Barack Obama (New York: Pantheon Books, 2012), p. 288.52  11月10日~ 26日の 16日間で実施された。Woodward, The War Within, pp. 207, 230-1.

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イラクへの関与の縮小を主張する一方で、増派へは反対の姿勢を示していた 53。その一方で、ブッシュ大統領自身は増派に傾き、11月末にイラク首相のヌーリ・アル・マリキ(Nouri

al-Maliki)と会談するためヨルダンを訪問中、通訳以外の随員を排除して単独で対面した際に、同首相に増派の意向を伝えている。ただし、これは、決定を通告するというより、治安回復へのマリキの覚悟を試すためであった 54。政府部内での議論は 12月に入っても続くが、その中で特に重要とされるのが、12月11

日にホワイトハウスに外部有識者を招いて開かれた会議と、13日の JCSとの会議であった。12月11日の会議はブッシュ大統領とチェイニー副大統領が出席し、軍事専門家として著名な5名が招かれていた 55。出席の 1人であるコーエンSAIS教授が、イラクで治安回復が進まない責任をケイシーに問うべきと主張する一方で、ジャック・キーン(Jack Keane)元陸軍参謀次長は、バグダッドの治安回復を最優先として、そのために市街地に部隊を分散配置し、24時間・365日体制で住民保護にあたらせるべきこと、そしてこれを実行するために5個旅団を増派すべきとの主張を展開した 56。さらに、会議後、キーンはチェイニー副大統領と個別に面会し、さらに詳しくブリーフし 57、翌日、チェイニー副大統領はブッシュ大統領にキーンのブリーフについて報告する 58。さらに、2日後の 13日に行われた JCSとの会議は、ブッシュが進めようとしていたイラク増派について、JCSメンバーの支持を得ようとして行ったものであった。そのために、ブッシュ大統領は、JCSメンバーをホワイトハウスに呼びつけるのではなく、ペンタゴンにある JCSの会議室、通称「タンク」に自ら赴いた 59。タンクでの会議では、ピーター・ペース(Peter Pace)JCS議長が、米軍のイラク軍に対する軍事顧問の役割を拡大、イラク部隊の養成に重点を

53  なお、国防省と国務省がイラクからの関与縮小と増派に反対するのに対し、ハドリーは、両省が自説を主張するのはかまわないが、増派のオプションを入れなければならないと強く主張した。取りまとめの責任者であるクラウチは、関係者の合意が得られないまま11月 26日の成果報告の時を迎えるが「まとまりつつあるコンセンサス (emerging consensus)」として「究極的目標」はイラクへの治安責任の委譲の加速化であるとしつつも「米国部隊の相当の増派を検討すべき」と付け加えた報告を大統領や国防、国務長官らに行った。なお、この会議では、増派への慎重論や、米軍には宗派間の暴力を抑えられないなど悲観論も提示され、結論は得られなかった。Woodward, The War Within, pp. 233-6, 239, 245-8.

54  ブッシュは、マリキに対して増派を行う意向を伝え、さらに、イラク側もより多くの戦力を投入することや、シーア派(マリキ自身がシーア派)のテロリストに対する作戦を妨害しないこと、宗派間の和解を進めること、などへのマリキのコミットメントを質した。Bush, Decision Points, pp. 374-5.

55  これに招待されていたのが、コーエン SAIS教授とスティーブン・ビドル(Stephen Biddle)外交評議会上級研究員の 2人のシビリアンの研究者、そして、キーン元陸軍参謀次長、バリー・マカフリー(Barry McCaffrey)、ウェイン・ダウニング(Wayne Downing)の 3人の退役陸軍大将であった。Fred Kaplan, The Insurgents: David

Petraeus and the Plot to Change the American Way of War (New York: Simon & Schuster, 2013), pp. 237-8.56  Cheney, In My Time, p. 450, Woodward, The War Within, pp. 279-82, Kaplan, The Insurgents, pp. 237-8.57  Cheney, In My Time, p. 450, Woodward, The War Within, pp. 280-2, Kaplan, The Insurgents, pp. 236-7.58  Cheney, In My Time, p. 451.59  Bush, Decision Points, pp. 375-6.

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シフトし、イラクへの治安責任の委譲を加速化するという、ケイシーMNF-I司令官がこれまで進めてきた方針を JCSの勧告として提示した 60。さらに、この席上で、もっとも明確に増派への反対を主張したのがピーター・スクーメーカー(Peter J. Schoomaker)陸軍参謀総長であり、これまでの度重なるイラク派遣で兵員とその家族への負担はすでに限界に達しつつあり、増派によるさらなる負担で「軍が破壊」されることへの懸念を表明した。また、戦略予備にあたる5個旅団をイラクに派遣することで、朝鮮半島などで不測の事態が生じた場合に対応できないことも出席者から指摘された。これに対して、ブッシュ大統領は、朝鮮半島有事のような「仮想的」な事態を憂慮するより、現実に生じている戦争での勝利をこそ優先すべきと反論した。また「軍を破壊」することへの懸念に理解を示しつつも、むしろイラクで敗北することの方が軍にとってダメージが大きいと述べて、増派への理解を求めた61。なお、ブッシュ大統領は、回顧録において、この時点では 5個旅団の増派に大きく傾いていたものの、完全に決心していたのではなく、JCSメンバーに自由な反論の機会を与えようとして、13日の会議を開いたと説明している 62。ケイシーMNF-1司令官は増派には否定的であったが、増派に関する議論が進められる過程で、5個旅団増派への対案として、バグダッドに 2個旅団、アンバル州に 2個大隊を追加、しかも、一気に投入するのではなく、1個旅団ずつ情勢を見ながら投入するという案(「2

プラス 2」と呼ばれた)を、12月の段階で提示していた 63。ケイシーの意向を受けて、ペースJCS議長も、12月28日にテキサス州クローフォードで開かれたNSCで 2プラス 2を提案した 64。結局、ペースの提案は「あまりに控えめすぎる」として拒否された 65。12月末、ブッシュ大統領は 5個旅団の増派を決意し、その決定はジョン・アビゼイド(John P. Abizaid)中央軍司令官よりケイシーに伝えられた 66。

( 3 )イラク増派に対する軍の態度イラクでの新戦略と増派に至るプロセスで特徴的なのは、組織としての軍が、増派に否定的あるいは消極的な態度を取り続けたことである。ペース JCS議長は、そもそもイラクの問題はアビゼイド中央軍司令官やケイシーMNF-I司令官らに任せておけばよいと思っており、

60  Cheney, In My Time, p. 451.61  Bush, Decision Points, p. 376, Woodward, The War Within, pp. 288-9, Cheney, In My Time, pp. 451-2.62  Woodward, The War Within, p. 290.63  Casey, Strategic Reflections, p. 142.64  Woodward, The War Within, pp. 303, 5.65  ペースは、12月末、ケイシーに対して、クローフォードでのNSCについてデブリーフィングを行った。そこで、最終的な決断はまだなされていないが、月内に 5個旅団増派の決定が下される見込みと伝えている。Casey, Strategic Reflections, p. 145.

66  Woodward, The War Within, p. 306.

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自分自身にとっての最優先事項と認識していなかった。さらに、また増派が議論の俎上に上がってからもその効果に懐疑的であり、むしろ米国政府全体の取り組みの強化を主張していた 67。しかし、ペース JCS議長は、9月末、イラク戦略の見直しを行うため 16名の大佐クラスの軍人によるタスクフォース「大佐評議会(Council of Colonels)」を JCSの下に設置した 68。大佐評議会の目的は、NSCなどにおいて軍を代表して出席するペース JCS議長と他の JCSメンバーに対するインプットであり、大佐評議会そのものが国防長官や大統領に直接報告することではなかった。大佐評議会は、11月3日に JCSに対して成果報告を行うが、そこで、イラク政府へ責任委譲を進めるというケイシーMNF-I司令官の方針は、逆に宗派対立を激化させることや、米軍に代わり治安を担うべきイラク部隊が弱体であることなどを挙げて、厳しく批判した。さらに、米国は、イラクに侵攻した者として、事態が改善していることをイラク人に対して示すことが必要な立場にあり、それができないのであれば敗北というより他ないとして「我々は勝利していないため、敗北しつつある」とイラクにおける現状を総括した 69。しかし、問題はイラクの現状に対してどうするかであった。大佐評議会内でも、①大規模な増派を実施(「Go Big」案)、②イラク駐留米軍を削減することで負担を軽減し、長期的関与に備える(「Go Long」案)、③イラクから撤退(「Go Home」案)、に意見が分かれ、コンセンサスが得られなかったのであった。そのため、評議会の報告を受けたJCSメンバーは、それぞれに自分の考えを正当化する材料を大佐評議会の報告に見出し得たのであった 70。さらに、厳しい認識を示した大佐評議会のスライドを、より穏やかで、現状維持志向となるよう書き直しさえした 71。ペース JCS議長も「我々は勝利していないため、敗北しつつある」との大佐評議会の総括を「我々は勝利していない。しかし、敗北もしていない」と換骨奪胎したのである 72。こうした動きからも看取されるように、ペース議長を含めた JCSメンバーは、イラクにおいても現状維持を志向していた。そして、実際、12月13日の大統領とのタンクにおける会議の席上でも増派に反対していたのである。また、そもそも13日の会議は、JCSの増派への同意を取り付けるためであった。ブッシュ大統領は、回顧録において「このように論争を招き、

67  Thomas E. Ricks, The Gamble: General David Petraeus and the American Military Adventure in Iraq,

2006-2008 (New York: Penguin Press, 2009), p. 93.68  Woodward, The War Within, p. 158.69  Ibid., pp. 200-1, Kaplan, The Insurgents, p. 286.70  Kaplan, The Insurgents, p. 232, Gordon and Trainor, The Endgame, p. 285.71  Woodward, The War Within, p. 241.72  Ibid., p. 294, Gordon and Trainor, The Endgame, p. 286.

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重要な問題[イラク増派のこと]については決断を下すためには、意見の統一を図ることが必須である。…中略…そのコンセンサスに至るためには、さらにもう一つのグループを取り込む必要があった。統合参謀本部を、である」と述べている 73。これは、とりもなおさず、イラクの増派についていえば、JCSはその主導者ではなく、ブッシュ大統領による説得の対象であったことを示している 74。そして、ブッシュ大統領は、増派に反対する軍の同意を得るための「アメ」の準備すらしていた。すなわち、予算の増額と陸軍と海兵隊の現役兵力の増加であった 75。他方、JCSメンバーと同様、イラクでの作戦に対する指揮系統に連なる現地の司令官達

も増派には反対であった。アビゼイド中央軍司令官は、増派の検討がなされていた 2006年11月15日の上院軍事委員会公聴会の席上「現時点では兵力の追加が問題の解決策になるとは考えない」と述べ、戦力の現状維持を主張した 76。ケイシーMNF-I司令官も、すでに述べたように、そもそもイラク増派に懐疑的であり、イラクへの治安権限の移譲を加速化するべきという立場を、繰り返しブッシュ大統領に訴えていた 77。また、11月22日、ケイシーは、JCSメンバー等に対し、クラウチ副国家安全保障アドバイザーによる見直しの中でも議論されていた 5個旅団の増派は「一時的、局地的な効果」しかもたらさず、イラク側の対米依存を深めるだけとして反対意見を述べていたし 78、12月12日のNSC会議でも同様の主張を展開していた 79。イラクでの増派に一貫して反対の立場をとるケイシーは、イラクでの作戦の現地司令官でありながら、増派に係る議論から実質的に外されていった 80。この過程で、米国における軍人のトップであるペース JCS議長は、リーダーシップを発揮するというよりむしろ、JCSメンバーやケイシーMNF-I司令官の意見の伝達役に徹していたといえよう。この姿勢は、バグダッドに 2個旅団とアンバルに 2個大隊を配置するケイシーMNF-I司令官の 2プラス 2提案を、政府部内がほぼ 5個旅団の増派で固まりつつあった 12月28日のNSCにおいても展開していたことからも窺える。また、クローフォードでのNSCの直前、2プラス 2案を見た統合参謀部 J-3のマイケル・バーベロ(Michael D.

Barbero)陸軍少将が、限定的な戦力追加を漸次的に行っても意味がないとペースに指摘したことに対して、ペースは、ともかく2プラス 2案を大統領に売り込む理屈を考えるよう指

73  Bush, Decision Points, 375.74  Woodward, The War Within, pp. 264, 290.75  Ibid., p. 286.76  Ricks, The Gamble, p. 92.77  Casey, Strategic Reflections, p. 146.78  Ibid., p. 138, Woodward, The War Within, pp. 241-2.79  Casey, Strategic Reflections, p. 142, Woodward, The War Within, p. 283.80  Woodward, The War Within, pp. 172,231.

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示している 81。さらに、12月13日のタンクでの大統領とJCSメンバーとの会議は、大統領が直接各軍のトップである彼らから直接意見を聴く場として、ペースが要請していたものである 82。特に、JCSメンバーが増派に反対しているにも関わらず、その一方で、増派に向けて議論が進んでいた状況に対して、彼らは強いフラストレーションを抱いていたため、直接大統領に主張を直接ぶつけられる場は重要であった。ペースは、そうした機会を設けることで、いずれ行われるであろうブッシュ大統領による増派の決定を、軍が「最高司令官」の命令として円滑に受け入れられるよう、環境を整えようとしていたものであった 83。

( 4 ) 政府部外からのインプットの役割―ジャック・キーン元陸軍参謀次長とアメリカン・エンタープライズ研究所

イラクでの作戦に対する指揮系統に連なる司令官達が実質的にイラクにおける増派と戦略の転換を推し進める役割を果たさなかったのと対照的に、鍵となる重要な役割を果たしたのがキーン元陸軍参謀次長であった。キーンは、ベトナム戦争での戦闘経験と、その後の内外のCOIN作戦に係る自身の研究に基づき、イラクのような状況においては住民保護重視の COIN作戦を行うべきであるとの認識を持っていたが 84、2003年 10月に退役してからは、公の場で発言することはなかった。しかし、2006年 8月、悪化するイラク情勢をきっかけに、イラクでの戦略の変更を主張して活動を始めた 85。まず、9月19日、キーンは、ドナルド・ラムズフェルド(Donald H. Rumsfeld)国防長官に面会し、米国はイラクにおいて「戦略的失敗」に向かっており、反乱を打倒するためには戦略の転換が必要であり、米軍部隊がイラク住民の間に常時暮し、保護するようにすべきで、そのために、各部隊のイラクへの展開期間を延長してでも増派を行うべきとの主張を展開した 86。さらに、キーンは、その 3日後の 22日、ペース JCS議長とも個別に面談した。その席で、キーンは、JCS議長としての自分の仕事ぶりの評価を尋ねるペースに対して「落第(F)」と答え、米国が直面する最大の問題がイラクであるのに、ペースがこれから目をそらしているこ

81  Gordon and Trainor, The Endgame, p. 307, Woodward, The War Within, pp. 297-8.82  Woodward, The War Within, p. 286, Bush, Decision Points, p. 376.83  Peter Douglas Feaver, “The Right to be Right: Civil-Military Relations and the Iraq Surge Decision,”

International Security, vol. 35, no. 4 (Spring 2011), p. 113.84  キーンは 1968年にベトナムから戻り、陸軍歩兵学校に入校、アルジェリア、マラヤ、フィリピン、ベトナムなどでの COIN作戦に係る資料を渉猟、研究し、ベトナム戦争中の米軍の対応の問題点に気付いたという。その後も、COIN作戦に関する研究を続けた。Kaplan, The Insurgency, p. 225.

85  Ibid., pp. 224-30. 86  Woodward, The War Within, pp. 130-8.

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とは問題であり、ペースはイラクに全面的にコミットすべきであると諭したのである 87。なお、ペースは、22日のキーンとの面談をきっかけに、前述の大佐評議会を設置した。すなわち、自身が先頭に立って状況を評価し、戦略を真剣に考えるべきとペースに説くキーンに対して、軍の中の優秀な人間を集めてタスクフォースを編成して、イラク情勢の評価をさせようとペースが応じたことから大佐評議会は生まれたのである。また、大佐評議会の中心人物となるH・R・マックマスター(H.R. McMaster)大佐(当時)をペースに推薦したのもキーンであった 88。キーンのペースに対する助言のインパクトは、キーンとの面談直後、ペースが急遽南米訪問の計画をキャンセルにして、大佐評議会のメンバーの選定に着手し、6日後の 27日にはさっそく第 1回会合を開いたことからも窺える 89。キーンは、イラクにおける住民保護重視のCOIN作戦と増派をさまざまな場で主張するが、その役割を支えたのがアメリカン・エンタープライズ研究所(AEI)のフレデリック・ケーガン(Frederick Kagan)らであった。ケーガンは、ワシントンにおいて高まるイラクからの撤退を訴える声に対抗するため、イラクにおいて治安回復は可能であることを軍事的な見地から具体的に実証するプロジェクトに着手した。そこで、彼は、かつての陸軍士官学校歴史学部での同僚であったマックマスター大佐に依頼し、陸軍第 3機甲騎兵連隊(3ACR)での勤務を終えて退役した将校達をリクルートする 90。3ACRは、2005年、連隊長のマックマスター大佐の指揮下、イラク北部の都市タル・アファル(Tal Afar)に展開し、周囲に包囲網を敷いた上で市内に潜伏するテロリストを掃討し、部隊を24時間体制で市中に分散配置し、治安維持、基本的な公共サービスの復旧、現地治安部隊の養成を行うなどの「古典的な」COIN作戦を実施することにより、同地の治安の回復に成功したことで知られていた 91。ケーガンにリクルートされた退役将校らは、タル・アファルで実施したCOIN作戦を、バグダッドと、同じく治安の悪化していたアンバル州に当てはめ、グーグルマップから市街地の地理を把握して、具体的な兵力配置の具体的な場所を割り出し、必要な戦力を算出した。その結果、バグダッドと近隣のアンバル州の治安を回復することは、陸軍の 5個旅団と海兵隊の 2個連隊を投入することで可能であり、それは、実際の軍の部隊展開計画を考慮しても可能であると

87  Ricks, The Gamble, pp. 89-90, Woodward, The War Within, pp. 142-3.88  Woodward, The War Within, pp. 144-5. ペトレアスがキーンに対し、大佐評議会はキーンのアイデアか質したところ、キーンはこれを認めたという。Kaplan, The Insurgents, p. 224.

89  Kaplan, The Insurgents, p. 231.90  Ibid., pp. 233-6.91  ブッシュ大統領は、2006年 3月 20日、オハイオ州クリーブランドにおいてイラクについて演説を行った際に、治安回復の具体的事例として 3ACRのタル・アファルでの活動を紹介し、連隊長のマックマスター大佐の名前を挙げて賞賛した。George W. Bush, “President Discusses War on Terror and Operation Iraqi Freedom, Renaissance Cleveland Hotel, Cleveland, Ohio, March 20, 2006,” National Archives and Records Administration, http://georgewbush-whitehouse.archives.gov/news/releases/2006/03/20060320-7.html.

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の結論を導き出していた 92。ケーガンは、さらに、12月8日から、上記のAEIでの退役将校などによる作業をたたき台に、同様

の考えを持つ専門家や退役軍人を集めてセミナーを開いた。そこに招待されたのがキーンであっ

た。キーンは、会議初日の8日朝、ケーガンらの分析について説明を受け、軍事的な見地から必要な戦力を具体的に割り出した分析に驚き、これを政府高官に売り込もうと決意する。すなわち、12

月11日にホワイトハウスで外部有識者を招いて開かれた会議において、キーンが住民保護重視のCOIN作戦の実施とそのための増派を主張した時、さらに引き続いて、チェイニーにさらに詳細

な説明をおこなった時、キーンの発言はAEIの詳細な分析によって裏打ちされたものであった。たしかに、NSCにおいても5個旅団増派が可能であるとの分析はなされていた。しかし、

ウッドワードが指摘するように、キーンがホワイトハウスに持ち込んだAEIの分析は「追加戦力の増派がどのように機能するかに関する、初めての詳細なプレゼンテーション」であった 93。チェイニー自身も回顧録において、キーンとケーガンの説明について「キーンとケーガンはフルパッケージを持っていた。すなわち新しい戦略とそれを実施する方法を、である」と指摘している。チェイニーがキーンらから説明を受けた翌日、ブッシュ大統領にその内容を報告したのは、そうした判断があったからこそであった 94。ホワイトハウスにおける11日の会議でのキーンの報告のインパクトは大きく、会議後、チェイニー副大統領の国家安全保障アドバイザーのジョン・ハナー(John Hannah)は、キーンに電

話をかけ、キーンのプレゼンテーションは、増派が成功するという自信をホワイトハウスに与えてくれたと述べた。また、その翌 12日にはチェイニー副大統領とスティーブン・ハドリー(Stephen

J. Hadley)国家安全保障アドバイザーも、キーンに対して、現役復帰してケイシーの後任のMNF-I司令官としてイラクでの作戦の指揮を執るか、あるいはNSCにおいてアフガニスタンとイラクの両方の戦争を統括する「war czar」に就かないかないか打診したほどであった 95。キーンは、ワシントンだけでなくイラク現地への働きかけを行った。特に、2006年 12月に駐イラク多国籍軍団(MNC-I)司令官に着任したばかりのレイモンド・オディアーノ(Raymond

Odierno)陸軍中将は、キーンの陸軍参謀次長時代の部下の一人であったが、キーンはオ

92  Frederick Kagan, Choosing Victory: A Plan for Success in Iraq Interim Report (Washington, DC: AEI, 2006), http://www.aei.org/files/2006/12/14/200612141_choosingvictory6.pdf, pp. 5, 21-2, Frederick Kagan, Choosing Victory: A Plan for Success in Iraq Phase I Report (Washington, DC: AEI, 2007), http://www.aei .org/files/2009/01/30/20070111_ChoosingVictoryupdated.pdf, pp. 20-1. その分析の正確性は、リチャード・コーディ(Richard Cody)陸軍参謀次長に見せた際に、増派される旅団のうち1個について、展開可能になる時期を 3週間分修正されただけ、というものであった。Ricks, The Gamble, pp. 95-7.

93  Woodward, The War Within, p. 282.94  Cheney, In My Time, p. 451.95  Gordon and Trainor, The Endgame, p. 303, Ricks, The Gamble, p. 104.

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ディアーノにMNC-I司令部における作戦計画立案の参考として、上記のAEIの報告書とそのベースとなった兵力展開のデータを提供した。オディアーノは、派遣前の研究からイラクにおける作戦の転換とそのための増派の必要性を認識するようになっており、増派を主張するAEI報告書を受け入れた 96。キーンの役割が特異なのは、AEI報告書をオディアーノに提供したことだけではない。オディアーノは 5個旅団の増派を支持していたが、上官にあたるケイシーMNF-I司令官は 2

個旅団しか必要性を認めず、それ以上の 3個旅団は状況を見て逐次投入すべきと主張していたので、オディアーノは戦力要請を提出できないでいた。そこで、キーンは、ケイシーMNF-I司令官、アビゼイド中央軍司令官、ペース JCS議長という軍の指揮系統を飛び越えて、オディアーノの主張をホワイトハウスのハドリー国家安全保障アドバイザーに伝達したのであった 97。また、12月28日にクローフォードで開かれるNSCで、ペースがケイシーの 2プラス2案を提示する予定であると、J-3のバーベロ少将から連絡を受けたキーンは、ハナー副大統領国家安全保障アドバイザーに電話をかけ、2プラス 2案では、小規模な戦力の逐次投入になり、効果をもたらさないとして、NSCの場で却下するよう主張するとともに、2個旅団の追加で「決定的戦力」と言えるのかペースに問うてみるとよいとハナーに助言した 98。キーンはケイシーの後任のMNF-I司令官となるペトレアスに対しても、オディアーノに渡したのと同じAEI報告書を示して、検討させていた 99。最終的に、MNC-I司令部が作成した計画は、AEIの報告書を踏まえつつも、さらに手を加えたものであった 100。以上のように、キーンは、3年前に退役した退役将官であり、なんら公的な資格を持たな

いにも関わらず、2006年暮れのイラク増派の決定において、重要な役割を果たした。キーンは、イラクへの増派と新戦略の実施をホワイトハウスと国防省に訴えかけると同時に、一シンクタンクの研究成果にすぎないケーガンの分析作業に重みを持たせ、政策決定者に売り込むと同時に、ケイシーの下でその反対にあいながら、増派のための実際の作戦計画を立案しようとした現地の司令官オディアーノを支援した。

96  オディアーノは AEI報告書を見て、5個旅団を増派してバグダッドの治安回復に当たらせる案を「正しい方向性」と評価した。Woodward, The War Within, p. 296. キーンは、AEIでケーガンと退役軍人らが作成したバグダッドへの兵力展開のデータを送るが、その時までに、オディアーノは、米軍が市街地からテロリストを掃討した後、すぐに基地に引き上げてしまうのが問題であることに気付いており、AEIのデータは非常に参考になった評価していた。Kaplan, The Insurgents, p. 240.

97  Woodward, The War Within, p. 296.98  Ibid., pp. 298-9, Kaplan, The Insurgents, pp. 242-3.99  Ricks, The Gamble, p. 116.100 AEI報告書が、まず 5個旅団をバグダッドに配置することとしていたのに対して「バグダッド・ベルト」(バグダッド周辺部)への配置は想定されていなかったが、実際の計画では、バグダッド・ベルトへも部隊を配置するものとなった。Ricks, The Gamble, pp. 119-20, Gordon and Trainor, The Endgame, p. 300.

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「軍事的オプション」をめぐる政軍関係

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そうしたキーンのイラク増派に至る過程における活動について、チェイニー副大統領は回顧録において「この期間中、ジャック・キーンは、我々の軍が何を負担可能で、どの程度参謀総長たちをプッシュしていいかについて重要な見方を提供してくれた…中略…彼は個人的には真の支え役、そして知恵の源泉であった。その助言には非常な重みがあった。軍を損ねることなく、必要なことを実施することが全く可能であるという彼の見解は、増派が実施可能であるという認識を、私や他の政策決定者に十分与えてくれるものであった」と述べている 101。すなわち、ハナーへの助言にも見られるように、キーンは、チェイニーやブッシュ大統領が JCSメンバーらと対峙するに当たり、軍が述べる懸念にどの程度、どのように配慮すべきか、どの程度軍と強く交渉すべきかアドバイスした。そのことをチェイニーは評価したのである。

Washington Postの記者トーマス・リックス(Thomas E. Ricks)は、その著 The Gamble

において、キーンの役割を「2006年秋、ジャック・キーンは、戦争における米国の戦略の方向を変え、ホワイトハウスとペンタゴンの思考を同期させ、さらには現地での戦いにおいて変化を先導するための司令官をさえ選定することにより、事実上の[制服組トップの]統合参謀本部議長となっていた」と評価した 102。さて、キーンはこの期間、MNC-I司令官を務めるオディ

アーノと頻繁に連絡を取っていたが、あるとき、ペンタゴンにペース JCS議長を訪ねてきて、オディアーノと話をするため、バグダッドのMNC-I司令部につながる秘匿電話を使わせるよう要求した。ペースは不在中であったが、秘書はキーンをペースの執務室に通し、JCS議長専用の秘匿電話を使わせたという103。このエピソードは「キーンは事実上の JCS議長であった」とのリックスの評が全くの誇張ではないことを示しているのではないであろうか。

3 アフガニスタン増派決定の事例(2009年 1月~ 12月)

( 1 )オバマ大統領就任とアフガニスタン新戦略(2009年 3月)本稿で扱った事例の中でも、文民と軍人の間においてオプションをめぐる軋轢が特に顕著

となったのが、バラク・オバマ(Barack H. Obama)大統領によるアフガニスタン増派決定に至るプロセスである。オバマ大統領がイラク戦争に開戦前から反対していたことはよく知られているが 104、これとは反対に、強く支持していたのがアフガニスタンでの戦争であった。イラ

101 Cheney, In My Time, p. 454. また、ブッシュ大統領も同様の見解を述べている。Bush, Decision Points, p. 385.

102 Ricks, The Gamble, p. 79.103 Gordon and Trainor, The Endgame, p. 300.104 たとえば、対イラク武力行使授権決議が連邦議会で審議されていた 2002年 10月 2日に開かれた反戦集会で、当時、イリノイ州上院議員であったオバマが行った演説である。Barack Obama, “Transcript: Obama’s Speech against the Iraq War,” NPR, http://www.npr.org/templates/story/story.php?storyId=99591469.

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クが話題になるたびに、オバマは、むしろアフガニスタンに注力すべきであると主張するのが常であった 105。それによって、大統領に就任したらアフガニスタンに追加派遣を行うであろうという期待感を醸成し、自らの選択の幅を狭めていたことは否めない 106。ジェームズ・マン(James

Mann)は「政権発足当初の数カ月、オバマは自身のキャンペーン・レトリックにより自縄自縛に陥っていたようであった」と指摘する 107。しかし、オバマ大統領には、一般の期待通りにアフガニスタンに増派を行うわけにはいかない事情もあった。一つは、リーマンショックに端を発した金融経済危機の中にあることから、歳出増を伴う増派には慎重にならざるを得なかったことである。また、民主党自体がアフガニスタンへの増派に反対を深めていたこともある 108。そこで、オバマは、就任直後、アフガニスタン戦略の見直しを命じ、その取りまとめに、

CIA出身のテロ問題専門家で、オバマの大統領選挙のアドバイザーでもあったブルース・リーデル(Bruce Riedel)を充てた(この見直しはリーデル・レビューと呼ばれた)109。リーデル・レビューにおける2カ月の省庁間での検討、そして閣僚クラスを交えた議論の後、3月27日、オバマ大統領は「アフガニスタンおよびパキスタンに対する新戦略」に関する演説を行った。オバマ大統領は「新戦略」のゴールを「パキスタンとアフガニスタンにおいて、アルカイダを妨害し、解体し、打倒し、将来においてもこれらの国に戻って来ないようにする」こととし、そのために「より強力で、よりスマートかつ包括的な戦略が必要」であり、イラクでの戦争を理由として、アフガニスタンに資源を割くことを拒んではならないと主張した 110。しかし「新戦略」は、アフガニスタンにおけるゴールを明らかにしただけで、それをどのよ

105 Jonathan Alter, The Promise: President Obama, Year One (New York: Simon & Schuster, 2010), p. 363. たとえば、2008年 7月15日の外交演説、10月 28日の演説、さらに翌 2009年 1月 20日の就任演説でそのような主張を展開している。Barack Obama, “A New Strategy for a New World, July 15, 2008,” Organizing for Action, https://my.barackobama.com/page/content/newstrategy; Barack Obama, “Remarks of Senator Barack Obama -- as Prepared for Delivery,” Boston.com, http://www.boston.com/news/politics/2008/articles/2008/10/22/remarks_of_senator_barack_obama____as_prepared_for_delivery/; Barack Obama, “President Barack Obama’s Inaugural Address,” White House, http://www.whitehouse.gov/blog/inaugural-address.

106 Alter, The Promise, p. 363.107 James Mann, The Obamians: The Struggle inside the White House to Redefine American Power (New

York: Penguin Books, 2012), p. 126.108 Stephen J. Wayne, “Presidential Character and Judgment: Obama’s Afghanistan and Health Care

Decisions,” Presidential Studies Quarterly, vol. 41, no. 2 (June 2011), p. 295.109 Kaplan, The Insurgents, p. 295, Rajiv Chandrasekaran, Little America: The War within the War for

Afghanistan (New York: Vintage Books, 2012), p. 53.110 Barack Obama, “Remarks by the President on a New Strategy for Afghanistan and Pakistan, March 27,

2009,” White House, http://www.whitehouse.gov/the_press_office/Remarks-by-the-President-on-a-New-Strategy-for-Afghanistan-and-Pakistan/.

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「軍事的オプション」をめぐる政軍関係

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うに達成するかを明らかにしていなかった 111。この点については、オバマ政権の中でも意見が一致しておらず、4月上旬に予定されていたNATO首脳会議に間に合わせるため、結論を先送りにしていたのである。ただし、オバマ大統領が演説で明らかにした「新戦略」とは異なり、リーデル・レ

ビュー報告書は、提言として「統合された民軍対反乱戦略(integrated civil-military

counterinsurgency strategy)」をアフガニスタンにおいて実施することや、アルカイダが戻ってこないようにアフガニスタンの南部および東部の安全確保を行うことなどを挙げていた 112。また、オバマ演説にあわせて同日行われた記者ブリーフィングで、レビューの取りまとめを行ったリーデルも、また、国防省を代表してレビューに参加したミシェル・フロノイ(Michelle

Flournoy)国防次官(政策担当)も、アフガニスタンにおいてCOIN戦略を行うべきであるとの考えを示していた 113。また、ペトレアス中央軍司令官や、マイケル・マレン(Michael G.

Mullen)JCS議長もその立場を支持していた。他方で、無人機と特殊部隊によるテロリストへの攻撃とアフガニスタン部隊の養成に集中す

べきであり、これ以上の大きな増派は必要ないという考え方(「カウンターテロリズム(CT)プラス」戦略と呼ばれた)も、ジョセフ・バイデン(Joseph Biden)副大統領を中心に政権内に存在していた 114。オバマ自身が 3月27日の演説で米国が「包括的戦略」を採るとしながらも、何の「包括的戦略」なのか明らかにしなかったのも、そうした分裂を反映したものである 115。こうした意見対立の背景には、戦略そのものの是非もさることながら、マンパワーや予算の面のコストに対する懸念が存在した。特に、COIN戦略は実行する場合、部隊を住民の中に分散配置することにより安全を確保するという考えに立つため、多数の兵員とこれを維持するためのコストがかかる。イラクですでに多大な出費をしている一方で、米国がリーマンショックによる経済危機にある中、さらにコストのかかるCOIN戦略をアフガニスタンにおいて採ることは、軽易に決定できることではなかったのである 116。

111 Bob Woodward, Obama’s War (New York: Simon & Schuster, 2010), p. 111, Kaplan, The Insurgents, p. 300.112 White House, White Paper of the Interagency Policy Group’s Report on U.S. Policy toward Afghanistan

and Pakistan (Washington, DC, 2009), http://www.whitehouse.gov/assets/documents/afghanistan_pakistan_white_paper_final.pdf, p. 2.

113 “Press Briefing by Bruce Riedel, Ambassador Richard Holbrooke, and Michelle Flournoy on the New Strategy for Afghanistan and Pakistan, March 27, 2009,” White House, http://www.whitehouse.gov/the_press_office/Press-Briefing-by-Bruce-Riedel-Ambassador-Richard-Holbrooke-and-Michelle-Flournoy-on-the-New-Strategy-for-Afghanistan-and-Pakistan.

114 Kaplan, The Insurgents, pp. 296-300, Woodward, Obama’s War, pp. 159-60.115 Kaplan, The Insurgents, p. 300.116 Alter, The Promise, p. 385.

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さらには、オバマ政権はあらたに増派を決定するより前に、別途、追加の派遣を決定していた。2008年 6月より国際治安支援部隊(ISAF)司令官の任にあったデービッド・マキ

アーナン(David D. McKiernan)陸軍大将がすでに増援の要請を行っていたが、当初は1万人の増派要請であったものが 117、現地情勢の悪化にともない、2008年秋には 3万人の要請まで増大していた 118。しかし、この要請はブッシュ政権には受け入れられず、2009年1月に誕生したオバマ政権が決定すべきとして先送りされていた 119。オバマ政権において 3万人の増派要請をあらためて精査した結果、1万 7千人まで圧縮され、これをオバマ大統領は、8月20日に予定されるアフガニスタン大統領選挙に向けて国内治安を維持するため「保険」として必要であるとの議論を受け入れて、承認していた 120。さらに、3月27日の演説の中で、オバマ大統領は、アフガン治安部隊の訓練に当たらせるため、4000人の追加派遣を明らかにしていた 121。オバマ大統領は、これ以上のアフガニスタンへの追加派遣については、アフガニスタン大統領選挙の結果を待ってあらためて検討することとしていた 122。なお、5月には、在任約 1年のマキアーナン ISAF司令官を更迭し、後任にスタンレー・マクリスタル(Stanley A. McChrystal)陸軍中将を充てる人事がロバート・ゲイツ(Robert M.

Gates)国防長官から公表された123。そして、マクリスタルが、6月にISAF司令官に就任すると、ゲイツ国防長官の了承の下、アフガニスタンにおける状況の「戦略的評価」を行い、任務、戦略、部隊の編成などをどのように変える必要があるかを取りまとめて、60日以内に国防長官宛で報告することとなった(以下、評価報告書)124。実際に 8月20日に大統領選挙が実施されると、8月31日には、マクリスタル ISAF司令

官からゲイツ国防長官に評価報告書が提出され、さらに、9月24日には、評価報告書に基づく兵力の追加派遣の要請が提出された 125。これに基づき、2009年秋、オバマ大統領はNSCを開き、アフガニスタンについて議論を行った。それは増派には止まらず、その前提としての戦略まで含む広範なものとなった。

117 Chandrasekaran, Little America, pp. 52-3.118 マキアーナンは、2008年 10月の時点で、派遣要請を行うのは、4個旅団と支援部隊と述べていたが、翌 2月には、約 3万人と数字を明らかにしている。“DoD News Briefing with Gen. McKiernan from the Pentagon, October 1, 2008,” Department of Defense, http://www.defense.gov/transcripts/transcript.aspx?transcriptid=4297; “DoD News Briefing with Gen. McKiernan from the Pentagon, Feburuary 8, 2009,” Department of Defense, http://www.defense.gov/transcripts/transcript.aspx?transcriptid=4354.

119 Woodward, Obama’s War, p. 94, Chandrasekaran, Little America, p. 53.120 Woodward, Obama’s War, pp. 94-8, Chandrasekaran, Little America, p. 54.121 Obama, “Remarks on a New Strategy, March 27, 2009.”122 Woodward, Obama’s War, p. 114.123 詳細は、菊地「政軍関係から見た米軍高級幹部の解任事例」70~ 74ページ、参照。124 Stanley A. McChrystal, My Share of the Task (New York: Penguin, 2013), p. 294.125 Kaplan, The Insurgents, p. 311, McChrystal, My Share of the Task, p. 345.

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「軍事的オプション」をめぐる政軍関係

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( 2 )NSCにおけるアフガニスタン増派検討(2009年秋)マクリスタル司令官の評価報告書は「アフガニスタンにおける状況は深刻である」としつつ

も「成功は達成可能」であり、そのためには「住民に安全と平常さをもたらし、住民を反乱者の暴力、汚職、強制から保護するものへとアプローチをシフトさせなければならない」とするなど住民保護重視の COIN作戦を主張する一方「短期間(今後 12カ月)でイニシアティブを奪還し、反乱勢力のモメンタムを覆さない限り、反乱を打破することが不可能となるリスクを冒すことになる」とするなど、早急な対応を求めるものであった 126。続いて、9月24日に提出された追加派遣要請において、マクリスタルは、①アフガニスタ

ン部隊訓練のため 1万~1万1千人派遣、②受け入れ可能なリスクを伴うものの、COIN作戦を展開するために 4万人派遣、③より本格的なCOIN作戦を展開するため、8万 5千人派遣、の 3つの増派オプションを提示した上で、②の 4万人を勧告していた 127。マクリスタルの評価報告書を受けて、オバマ大統領は、9月13日から11月29日までの

2カ月半、あらためてアフガニスタン戦略の検討を実施した。3月のリーデル・レビューは、4

月上旬に予定されていたNATO首脳会議に間に合わせて実施されたもので十分な分析がなされたわけではなく、また、アルカイダへの攻撃に集中すべきというバイデン副大統領の CT

プラス戦略も、住民保護重視のCOIN戦略も、同様にその根拠をリーデル・レビューに求めることができ、政権内での相違が埋まらなかった 128。また、リーデル・レビュー報告書を実際に実現するために必要なゴールや目的を示したNSC文書「戦略的実施計画(SIP)」(2009

年 7月)に「タリバンを打倒(defeat)」することが、ゲイツ国防長官の意見で追加され 129、米国がアフガニスタンにおいて何を目指すのかさらに不明確になっていた。そこで、オバマ大統領は「あらゆる前提を検証」することとし、より多くの資源をアフガニ

スタンに割くことの機会費用、腐敗したカルザイ政府を前提にして民心の獲得を目標とするCOIN戦略を実施することが可能なのか、アフガニスタンでアルカイダを駆逐するだけなのか、あるいはタリバンを打倒することまで必要なのか、などアフガニスタンでの戦争の根本的な問題を明確にすべきとした。軍が要求している増派の検討はその後とされたのである 130。こうして始まった 2009年秋のNSCにおけるアフガニスタンに関する検討プロセスで特徴

126 Commander, NATO International Security Assistance Force, Afghanistan, U.S. Forces, Afghanistan, Commander’s Initial Assessment (Kabul, 2009), Wasihngtonpost.com, http://media.washingtonpost.com/wp-srv/politics/documents/Assessment_Redacted_092109.pdf, pp. 1-1, 1-2, 2-1, 2-12.

127 Woodward, Obama’s War, p. 192.128 オバマ大統領は、リーデル・レビュー報告書について「我々の中核的なミッションが何であるかについて曖昧さを残していた」と述べていた。Woodward, Obama’s War, p. 183.

129 Ibid., p. 145.130 Ibid., pp. 167-9, 207.

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的なのは、軍関係者が、政権の考えとは一致しない主張を、メディアや議会など公開の場で展開したことである。アフガニスタンにおいても(イラクで行ったと同様の)COIN戦略を展開する必要があり、そのためにはより多くの戦力が必要であるという主張に対する支持を得るためにそうした対外的なアピールを行い、オバマ大統領らホワイトハウスの関係者との軋轢を生じさせた。そうした事象は、8月末にマクリスタルの評価報告書が提出される以前にもすでに生じてい

た。マクリスタルが ISAF司令官に指名されたことに伴い、6月2日には、その人事を審議する公聴会が上院軍事委員会で行われたが、その席上、マクリスタルは、アフガニスタンにおいて「資源配分の鍵は人員である」とした上で、すでにオバマ大統領に承認されたアフガニスタンへの 2万 1千人の追加派遣で十分なのかわからないとして、さらなる兵力派遣要請に含みを持たせる発言をしたのである 131。これに対して、6月23日、アフガニスタンを訪問したジェームズ・ジョーンズ(James L. Jones)国家安全保障アドバイザーは、マクリスタルと面会し、オバマ政権はすでに大統領が承認した 2万 1千人の追加派遣の効果が確認されるまで、これ以上の増派の検討はしないと伝えた。これは、マクリスタルに対して、追加派遣の必要性に言及するのを控えるよう警告する意味があった 132。ジョーンズの警告に対して、軍はかえって反発を強めたという133。2009年 9月4日付のWashington Postには、マクリスタルの上官にあたるペトレアス中央軍司令官の「十分な資源を配分された包括的な対反乱キャンペーン(a fully resourced, comprehensive

counterinsurgency campaign)」しか有効な手はないとの発言が引用された。これは、その直前の同紙にアフガニスタンは「オバマのベトナム」になるという記事が掲載され、これに反論するために同紙コラムニストに依頼して記事を書かせたものであった 134。

131 Senate Armed Services Committee, Hearing to Consider the Nominations of Admiral James G. Stavridis,

USN for Reappointment to the Grade of Admiral and to Be Commander, U.S. European Command and

Supreme Allied Commander, Europe; Lieutenant General Douglas M. Fraser, USAF to Be General and

Commander, U.S. Southern Command; and Lieutenant General Stanley A. McChrystal, USA to Be General and Commander, International Security Assistance Force and Commander, U.S. Forces, Afghanistan, Senate Armed Services Committee, http://www.armed-services.senate.gov/Transcripts/2009/06%20June/09-36%20-%206-2-09.pdf, p. 10.

132 Woodward, Obama’s War, pp. 123, 133, McChrystal, My Share of the Task, p. 306.133 Woodward, Obama’s War, pp. 141-3.134 Michael Gerson, “In Afghanistan, No Choice but to Try,” Washington Post, September 4, 2009, http://

global.factiva.com/, Woodward, Obama’s War, p. 158. ペトレアスの個人的かつ格別な支援の下に執筆された、ポーラ・ブロードウェル(Paula Broadwell)によるペトレアスの人物伝 All Inは、ガーソンとのインタビューについて、アフガニスタンについての検討プロセスが開始される前に自身の意見をはっきり表明しようとしたもので、内容はマレンが公聴会での述べたものと同じであると説明している。しかし、これ自体は、ペトレアスがオバマ大統領の意志決定に一定の枠をはめようとして発言した意図を否定することにならない。Paula Broadwell, All In: The

Education of General David H. Petraeus (New York: Penguin, 2012), pp. 116-7.

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また、マレン JCS議長も、TV関係者との非公式昼食会で、マクリスタルの戦力の追加要請は全て認めなければならないと主張したとされ 135、9月15日に行われた JCS議長 2期目指名人事を審議する公聴会において評価報告書について言及し「適切に資源配分された対反乱作戦とはより多くの兵力…中略…を意味する」と述べた。これらの発言は、大統領がすべき決定を先取りしているとしてオバマ大統領の不興を買った 136。また、マクリスタル自身も、マレンの承認の下、CBSのインタビュー番組 60 Minutes(9月

27日)に出演し 137、New York Times Magazineのカバーを飾るなど、メディアへの露出を強めただけでなく138、10月5日付 Newsweek において、バイデンの主張するCT戦略を家の火事にたとえて「家の半分だけを燃やすことにより、火事を鎮火することはできない」として、これを批判した 139。特にホワイトハウスの疑念を強めたのが、マクリスタルの評価報告書自体が 9月21日付の

Washington Postにリークされたことである 140。これが、(軍の主張してきた)COIN戦略を早急に実施に移さない限り、2010年中にはアフガニスタンでの失敗が決定的になってしまうとしてワシントンを脅してしているように受け止められた。ホワイトハウスは、マクリスタルを含む軍が、大統領の「決定を枠にはめよう(box in)」としているとの疑念を強めた 141。「オバマ政権が、いまだ増派を行うべきか決めかねているのに、軍指導者が、アフガニスタンでの兵力大幅拡大への支持を得るために、メディアや議会に巧みなキャンペーンを行っているのではないかと、オバマ自身を含む[ホワイトハウスの]彼ら全員が疑っていた」(James Mann, The

135 Alter, The Promise, p. 377.136 Woodward, Obama’s War, p. 172.137 “For September 27, 2009, CBS,” CBS News: 60 Minutes, September 27, 2009, http://global.factiva.com/.138 Alter, The Promise, p. 377.139 Evan Thomas, John Barry, and Suzanne Smalley, “McChrystal’s War; Gen. Stanley A. McChrystal

Believes He Can Win in Afghanistan. It’s the Rest of the World that Needs Convincing,” Newsweek, October 5, 2009, http://global.factiva/com/.

140 Bob Woodward, “McChrystal: More Forces or‘Mission Failure’; Top U.S. Commander for Afghan War Calls Next 12 Months Decisive,” Washington Post, September 21, 2009, http://global.factiva.com/.

141 Alter, The Promise, p. 376, Kaplan, The Insurgents, p. 313. ただし、いくつかの資料を見る限り、マクリスタル、あるいはそのスタッフがリークしたものではないものと思われる。当該記事を執筆したウッドワードによると、マクリスタルの評価報告書は、マクリスタル本人からもたらされたものではなく、著書執筆のためのインタビューを行っていた中で、インタビューの対象者から偶然入手したものと説明している。Woodward, Obama’s War, pp. 175-82. マクリスタル本人は、マレン議長からウッドワードが報告書を入手していると知らされ、報告書提出後、すぐにリークされたことにフラストレーションを感じると述べている。McChrystal, My Share of the Task, pp. 344-5. ま た、当時、マクリスタルに密着取材していたマイケル・ヘイスティングス(Michael Hastings)は、マクリスタルはリークについて知らされた後、30分間くらい激怒していたが、しばらくして落ち着きを取り戻し、結果的にリークされて良かったかもしれないと述べたと明らかにしている。Michael Hastings, The Operators: The Wild and

Terrifying Inside Story of America’s War in Afghanistan (New York: Blue Rider Press, 2012), p. 130.

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Obamians)のである 142。そうした、文民指導者と軍との間の疑心暗鬼の状態をさらに悪化させたのが、10月1日、マクリスタルがロンドンの国際戦略研究所(IISS)で行った演説である 143。マクリスタルは、質疑応答の際に、軍事作戦を無人機による攻撃に限定し、地上部隊を送り込まないという、パキスタンで米国が取っているアプローチを、アフガニスタンでも適用しないのかと質問されたことに対し、国際社会は、すでにアフガニスタンにコミットしていることを出発点にしなければならないと述べ、アフガニスタンを安定した状態にしない戦略は「近視眼的戦略」であると指摘した。マクリスタルの発言は、これまでの軍人のメディアでの発言で猜疑心を募らせていたオバマ大統領らには、バイデンが主張するCTプラス戦略を公に批判したものと受け止められたのである 144。軍によるこうした主張は、米軍が、イラクに戦力を増派し、住民保護を重視したCOIN作戦を展開して治安の改善に成功していたことから、説得力を持っていたし、イラクで実際にその指揮を取ったペトレアス中央軍司令官の主張でもあったことから、絶大なインパクトを持っていた。政界にも、アフガニスタンにおける増派とCOIN戦略の実施を求める声も高まっていた 145。こうした状況における軍指導者のメディアへの露出は、軍の意見を退けることの政治的コストを引き上げ、大統領による意思決定を束縛しかねないものであったのである。

IISSでのマクリスタルの講演の後、オバマ大統領は、ゲイツ国防長官とマレン JCS議長に対し、ペンタゴンの行いに「きわめて不満」であり、軍人によるメディアへのリークや意見表明は「プロセスを軽視」しており、自分の意志決定を拘束しようとしているものと述べ、2人に対して、軍による「一斉 PRキャンペーン」を止めさせるよう命じた 146。ゲイツ国防長官は、IISS演説の 4日後の米陸軍協会での演説で、大統領がアフガニスタンでの戦略について決定をしようとしているところ、関係者が大統領に助言する場合は、外部に漏れないように内密に行うべきと指摘するが、これは、オバマ大統領からの叱責を受け

142 Mann, The Obamians, p. 135.143 International Institute for Strategic Studies, “General Stanley McChrystal Address,” http://www.iiss.org/

recent-key-addresses/general-stanley-mcchrystal-address/.144 John F. Burns, “McChrystal Rejects Scaling Down Afghan Military Aims,” New York Times, October 1,

2009, http://www.nytimes.com/2009/10/02/world/asia/02general.html. ただし、マクリスタル本人は、そのような受け止められ方をされることを意識しておらず、発言の際に、バイデン副大統領のことはまったく念頭においていなかったと述べている。McChrystal, My Share of the Task, p. 349.

145 Woodward, Obama’s War, pp. 204-5. その中心は、ジョン・マケイン(John McCain)、リンゼイ・グラハム(Lindsey Graham)、ジョセフ・リーバーマン(Joseph Lieberman)上院議員らであった。Lindsey Graham, Joseph I. Lieberman and John McCain,“Only Decisive Force Can Prevail in Afghanistan,” Wall Street Journal, September 14, 2009, http://global.factiva.com/.

146 Alter, The Promise, p. 379, Mann, The Obamians, p. 135, Woodward, Obama’s War, p. 197.

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たものであった 147。こうしたメディアでのキャンペーンだけではなくNSCでの議論の場でも、軍は、マクリスタルが要求した 4万人増派とアフガニスタンにおけるCOIN戦略の実施を主張する。そこでオバマ大統領らが問題視したのが、彼らによるオプションの操作であった。そもそも、マクリスタルが提示した増派の 3つのオプションも、①の 1万~ 1万 1千人は少なすぎて効果が薄く、③の 8万 5千人は大きすぎて不可能、という消去法により、②の 4万人しか有効な選択肢に見えないものであった 148(表「アフガニスタンへの増派オプションの変遷(2009年秋)」参照)。すなわち、見かけ上、3つのオプションはあったものの、実質的には 1つのオプションにしかすぎなかった。オバマ大統領自身も、ゲイツ国防長官らに対して自分に提示されているオプションは「4万人増派と何もなし」、あるいは「3つのオプションに見せかけられた 1つのオプション」、すなわち 4万人増派であると批判して、それ以外のオプションを求めていたほどであった 149。そこで、ホワイトハウスは、実質的な選択ができる複数のオプションを確保するために、バ

イデン副大統領が主張するCTプラス戦略を具体的な軍事的オプションに肉付けすることを追求するが、それへも軍は消極的抵抗を続けた。当初、NSCスタッフがマクリスタルにCT

プラス戦略の評価を依頼するが、マクリスタルはそもそも同戦略ではうまくいくはずがないとして真剣に取り合わなかった 150。そこで、バイデン副大統領は、CTプラス戦略について、どのくらいの戦力が必要になり、

どの程度の効果があるのか具体的に軍事的な視点から分析してほしいとジェームズ・カートライト(James E. Cartwright)JCS副議長に依頼した。カートライトは、大統領は、軍が主張しないものも含めて「すべてのオプション」を受け取る権利があると考え、あえて引き受けたという151。カートライトが JCSに戻り、作業を進めたところ、バイデン副大統領の CTプラス戦略は、

1万人の特殊部隊の 2個旅団、1万人相当と、1万人のアフガニスタン訓練要員の 2万人の兵力追加で可能との結論が出た。そこで、大統領に報告しようとしたが、これにマレンJCS議長が反対して、報告ができなくなっていた。そこにオバマ大統領が介入し、ハイブリッド・オプションと呼ばれる、バイデン副大統領が主張するCTプラス戦略に基づく計画案を説明

147 Robert M. Gates, “Association of the United States Army, As Delivered by Secretary of Defense Robert M. Gates, Washington, D.C., Monday, October 05, 2009,” Department of Defense, http://www.defense.gov/Speeches/Speech.aspx?SpeechID=1383.

148 Kaplan, The Insurgents, p. 311.149 10月 26日、30日の発言とされる。Woodward, Obama’s War, pp. 251, 258.150 Ibid., p. 234.151 Ibid., p. 235.

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するよう指示して、ようやくオプションに盛り込まれることとなった 152。こうして、ようやく11月11日の会議でマレンJCS議長から提示されたのが、①「オプション1」

として 8万 5千人増派、②「オプション2」として 4万人増派、③「オプション2A」として3万人から3万 5千人増派で、さらに追加して 4万人まで増派するかどうかは、2010年12月まで待つ、④「ハイブリッド・オプション」として 2万人増派、というものであった 153(表「アフガニスタンへの増派オプションの変遷(2009年秋)」参照)。ただしこれにしても、オバマ大統領には満足のいくものではなかった。オプション1はそもそ

もコストの点で非現実的であり、ハイブリッド・オプションについては、2個旅団で対テロ作戦を行うというのは不可能と軍は主張しており、オバマ大統領も、ハイブリッド・オプションは「実行可能なオプションではない」という議論を結局受け入れた 154。さらに、オプション2Aは、オプション2と実質的に同じであった。結局、この段階では、これでもなお、結局 1つのオプションしか提示していないとして、オバマ大統領は、軍は「彼らが欲する方向に進むようにでっちあげようとしている」、「彼らは私に選択肢を渡さない」と述べて、軍の対応を批判した 155。

表 アフガニスタンへの増派オプションの変遷(2009年秋)マクリスタルの当初案 (9月 24日)

マレン JCS議長による 増派オプション提示(11月11日)

オバマ大統領による増派決定 (11月 29日)

① 1万~1万1千人増派 (アフガニスタン部隊訓練のため)

② 4万人増派 (受け入れ可能なリスク存在。COIN作戦を展開)

③ 8万 5千人増派 (より本格的なCOIN作戦を展開)

① 「オプション1」 :8万 5千人増派② 「オプション 2」 :4万人増派③ 「オプション 2A」 :3万人~ 3万 5千人増派。2010年 12月まで待って、4万人までの増派を決定

④ 「ハイブリッド・オプション」 :2万人増派(1万人を対テロ作戦、1万人をアフガニスタン部隊訓練)

① 3万人を18~ 24カ月の期間増派。2010年前半に到着

② 国防長官は、必要な場合、3万人に加えて、その 10パーセントを超えない範囲の支援部隊を派遣

③ 2011年 7月からアフガン治安部隊への責任委譲と米軍の撤退開始

(出所)Bob Woodward, Obama’s War (New York: Simon & Schuster, 2010), pp. 192, 273, 387から作成。

152 Ibid., pp. 236-8. ただし、カートライトは、JCS議長らと異なる意見をNSCで展開したことに対する個人的代償を支払うことになる。2011年 9月末に任期の切れるマレン JCS議長の後任の候補者選定の過程において、オバマ大統領は、アフガニスタン増派に関する議論からもカートライトを適任と考え、2010年中に 3回打診していたが、カートライトは退役の意向を示していた。その後、カートライトは考えを変え、JCS議長を引き受ける意向をオバマ大統領に伝え、大統領も了解していた。しかし、その後 2011年 5月21日、オバマ大統領はあらためてカートライトを呼び、マレン JCS議長とゲイツ国防長官が反対しているとして、代わりにマーチン・デンプシー(Martin E. Dempsey)陸軍参謀総長を JCS議長に充てる意向であることを伝えたという。Craig Whitlock, “Military Adviser Undone by Critics,” Washington Post, May 29, 2011, http://global.factiva.com/.

153 Woodward, Obama’s War, pp. 273.154 Ibid., p. 279.155 Ibid., pp. 273, 278, 280.

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しかしながら、オバマ大統領の批判にも関わらず、軍からこれ以上の増派のオプションが提示されることはなかった。それ以後の議論は、3万~ 3万 5千人の幅を持つ「オプション2A」を中心に進められたのである 156。増派の規模と同様に重要な、軍と大統領の間の議論の争点は、増派をどれだけ早く進め

ることができるかであった。2007年のイラクへの増派において増派された 5個旅団は数カ月でイラクに展開された。これと比較して、マクリスタルの評価報告書が 1年以内にタリバンのモメンタムを覆さないと、そもそも反乱を打破することが不可能となってしまうと主張しているにも関わらず、増派する部隊をその 1年を超える15カ月もかけて展開する計画となっていることに、オバマ大統領は強い不満と疑問を抱いていた 157。そこで、カートライトJCS副議長が、展開を早めることによりアフガニスタンに衝撃を与え、撤退開始の期限を付けることにより、カルザイ政権に対してより大きな責任を負担するよう圧力をかけることになるとして、マレン JCS

議長のこれまでの主張とは異なる意見を展開したのは大きな重みがあったのである 158。

( 3 )アフガニスタン増派の決定(2009年 12月)オバマ大統領は、マクリスタル評価報告書が提出されて以来、進められたホワイトハウスでの検討を踏まえ、2009年 12月1日、オバマ大統領は、陸軍士官学校でアフガニスタン・パキスタンについて演説を行い、2010年年初に兵員 3万人の増援を行うことを発表し、これにより反乱を抑え、主要な人口センターの安全を確保できると説明したのである 159。増派の公表にあたりオバマ大統領は、3カ月に渡るNSCでの検討の結果を踏まえ、アフ

ガニスタンについて追求すべき戦略と増派の進め方を詳細に記述したメモランダムを作成し、NSCでの検討に参加者したメンバーの同意を求めた。事後に、軍から造反者が出ることを懸念したためである。そのメモランダムでは、リーデル・レビューが曖昧にして論争の種となっていたCOIN戦略か、あるいはCT戦略か、という点について「このアプローチは十分に資源を配分された対反乱作戦や国家建設ではない」と明確に否定された。むしろ「主要な人口・生産センターと通信線へのタリバンのアクセスとコントロールを否定」しつつも、他方で「主

156 11月 25日、オバマ大統領は、ゲイツ国防長官とジュネーブ訪問中のマレンに代わりカートライトJCS副議長を呼び、3万人増派で決心したことを伝えた。これに対して、ゲイツは、① 3万人の枠外ですでに要請を受けている4500人の支援部隊の派遣と、②将来的な必要が生じた場合に備えて、3万人の 10パーセント以内の戦力を派遣する権限を要求した。これに対して、オバマ大統領は①は認められないが、②については認めると答えた。Ibid., pp. 308-9.

157 Ibid., pp. 276-7, 279158 Ibid., p. 295.159 Barack H. Obama, “Remarks by the President in Address to the Nation on the Way Forward in

Afghanistan and Pakistan, December 01, 2009,” White House, http://www.whitehouse.gov/the-press-office/remarks-president-address-nation-way-forward-afghanistan-and-pakistan.

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要な人口・生産センター」以外では「タリバンを妨害」するとともに「アフガニスタンにおいてアルカイダが聖域を獲得するのを防ぐ」というものであった。また、8月の SIPにおいて「タリバンの打倒」が盛り込まれ、アフガニスタンで何を目指すのか余計に不明確になっていたところ、オバマ大統領のメモランダムでは「アフガン国家治安部隊の手に負えるレベルまでタリバンを減勢させる」とされた。また、3万人の増派についても、18~ 24カ月の期間の計画で、しかも2010年前半に行うこととした。そして、2011年 7月には、治安責任のアフガニスタンへの移譲と撤退を開始することも盛り込まれた 160。オバマ大統領の最終的な決定では、増派の規模においては、マクリスタルの要請した 4

万には及ばないものの、それに近い 3万人の増派をすることになったという点では、軍の要求が認められたといえるが、他方で、ミッションが限定され、増派と撤退のタイムテーブルが圧縮されたという点では、バイデン副大統領、そして、オバマ大統領の意見が通ったといえる 161。フレッド・カプラン(Fred Kaplan)の表現を借りれば「大都市においてはCOINを、その他についてはCTの実施というように、[マクリスタル、バイデンの両方の]ミックス」であったし 162「両方を組み合わせて、時間を短縮したもの」とも呼ぶことができるものであった 163。

おわりに―軍事的オプションの検討プロセスにおける文民指導者と軍人の役割

以上の事例から明らかになるのは、軍事力行使を検討するプロセスにおいて、軍指導者が、自らの支持するものオプションが採用されるよう、あるいは、自らが反対するオプションが採用されないよう、オプションの操作を行うことがみられたことである。これは、湾岸戦争において、軍が、当初、軍事的オプションの提示を拒んだことや、アフガニスタン増派において、軍が「3

つのオプションに見せかけられた 1つのオプション」を提示したことなどに顕著である。その背景に、文民指導者と軍人との間に重要な立場の違いが存在したことは明らかであ

る。パウエル JCS議長らは「第 2のベトナム」を繰り返さないため、文民指導者が進めようとしていたイラクに対する軍事力行使自体にきわめて否定的であった。他方で、アフガニスタンの場合は、軍は、イラクでの経験に基づき治安を安定化するには「十分に資源配分されたCOIN戦略」しかないと主張していたが、オバマ大統領ら文民指導者には、イラクで多大な戦費をすでに消費し、財政状況も悪化するなか、アフガニスタンにそこまでの資源は割

160 オバマが起案したメモランダムは非公開の文書であったが、ウッドワードのObama’s War巻末に掲載された。Woodward, Obama’s War, pp. 385-7.

161 Alter, The Promise, p. 388.162 Kaplan, The Insurgents, p. 317.163 Alter, The Promise, p. 388.

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けないという考えがあった。ただし、軍が使ったオプション操作の手法は一様ではない。湾岸戦争では、イラクのクウェー

ト侵攻直後、軍は具体的な軍事行動について議論すること自体に反対し、オプションを提示することを拒否していた。他方で、アフガニスタンでは、オバマ大統領の指摘する「3つのオプションに見せかけられた 1つのオプション」―形式的には複数のオプションとして提示しているものの、実質的にはコストや実効性の点で取り得るオプションは 1つとなっている―といった、よりあからさまではないオプション操作を行った。さらに、本稿で取り上げた事例には含まれていないが、軍が、文民指導者に軍事力行使のオプションは提示するものの、そのコストを高く見積もることにより、当該オプションを取りにくくするというオプション操作もこれまで行われてきた 164。特に、こうしたオプション操作は、一見、シビリアン・コントロール上の問題ではないように見える。たしかに、決定する権限は文民指導者にあることには変わりはなく、文民指導者は、軍のオプションを採る、採らない、いずれも可能である。しかし、現在の軍事作戦は複雑で高度なものとなっており、専門家集団である軍以外から軍事的オプションが提案されることはまれである。そのため、文民指導者としても、何も決定しないという選択を避けたいのであれば、不承不承ではあっても、軍が認めたオプションの範囲内で選択をせざるを得ない。そこに、軍が文民指導者の選択を制限し得る余地が生じる。さらに、軍が文民指導者に提示するオプションを制限するだけではなく、アフガニスタン増派の事例に見られるように、軍が対外的かつ積極的に自らの主張を展開することで、文民指導者が軍の主張を退けることのコストを引き上げるということも見られた。その意味で、軍によるこれらの行為は、文民の実質的な意志決定権、軍事力行使に係る意志決定における「優越性」に対する挑戦であったといえよう。本論で取り上げた事例からは、もう一つの政軍関係上の含意をくみ取ることができよう。す

なわち、文民指導者が軍の自律性を認め、軍事作戦の細部に介入することを控えることがよりよい結果をもたらす、と想定する「政軍関係の正常理論」の妥当性についてである。湾岸戦争における地上作戦計画立案の過程において、当初中央軍司令部が作成した 1

個軍団によるクウェートに対する正面攻撃は、当のシュワルツコフさえ問題があると認識してい

164 これが、顕著であったのが、90年代、旧ユーゴスラビアの民族紛争への対応が問題となった際である。デービッド・ハルバースタム(David Halberstam)は「ブッシュ政権、さらにクリントン政権において、文民指導者から、[バルカン半島に]軍事的に介入するのにはどのくらいのコストが掛かるか問われると、パウエルは高い見積もりを示すことで熱意のなさを示し、それで文民指導者が引き下がるのが常であった。そして、パウエルが示す数字は 20万人を下らなかった」と指摘する。David Halberstam, War in a Time of Peace: Bush, Clinton and the Generals (New York: Touchstone, 2001), pp. 35-6.

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たものであった。そして、それが、クウェート西部を大きく迂回し側面攻撃を行う「レフトフック」へと変容するには、ウォルフォウィッツ国防次官の下で作成された「西方遠征」計画をチェイニー国防長官がホワイトハウスにまで売り込みに行くなど、通常のチャンネルを無視した文民指導者からの強い介入が必要であった。また、イラク増派の場合も、治安状況の改善に寄与した増派と住民保護重視のCOIN作戦のアイデアは、ケイシーMNF-I司令官からも、アビゼイド中央軍司令官からも、ペース JCS議長からも、もたらされなかった。すなわち、イラク増派の事例において、これら通常の軍のチャンネルからは事態の打開につながるアイデアは提示されなかった。他方で、イラク増派と住民保護重視のCOIN作戦にかかる具体的な提案は、NSCの文官スタッフ、さらには、キーン元陸軍参謀次長とAEIのケーガンといった、それ以外のソースからもたらされたのである。いずれの場合においても、軍以外のチャンネルから軍事的オプションに関するインプットが提供されることにより、最終的に実現されたような軍事作戦が成立し得たのであり、「政軍関係の正常理論」において想定されるように、文民指導者が軍の自律性を尊重し、軍事作戦への介入を控え、通常のチャンネルであるJCS議長などからのみ軍事的な助言が提供されるという手続きを遵守したのであれば、それは困難であった。少なくとも、これら米国の事例を見る限り、軍事作戦については軍に委せて、その自律性

を尊重するという「政軍関係の正常理論」には大きな限界があることが分かる。むしろ、文民指導者が軍事力行使に係る「意思決定における優越性」を確保するためにも、あるいはよりよい軍事的オプションを確保するためにも、文民指導者の側が、要すれば軍事作戦の細部にまで介入することが必要であったといえよう。そこで、大きな意味を持つのが、軍が軍事的オプション作成の役割を独占している状況を、

完全に解消することは不可能であるにしても、緩和することでことである。アフガニスタンに関する戦略の見直しの過程で、オバマ大統領が実質的な選択をできる複数の増派オプションを求めて、2カ月半軍と交渉を続け、あるいは、チェイニー国防長官が、自分の軍事補佐官に軍事オプションを探らせたりしたのは、そうした独占性を緩和するための試みであった。また、イラク増派の過程において、元陸軍参謀次長のキーンが増派のための具体的なプランを、ホワイトハウスでの検討の場に提示したことも、最終的に決定を行ったブッシュにとってNSC内部の案に過ぎなかった増派を、極めて力のある有効なオプションに変容させる効果を持った。そのことにより、軍の軍事的オプション作成の役割の独占性を同じく緩和したのである。文民指導者にとって、あるいは国家全体にとっても、軍事力行使は最も重要な決断である。究極的にその成否が彼らに問われるのであれば、文民指導者が軍事作戦の細部に関与することは否定されるべきではない。また、その手段として―作戦の実施は軍に委せることに

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「軍事的オプション」をめぐる政軍関係

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は変わりないものの―軍事的オプションのソースを軍以外にも求めることも含まれよう。そのことは、軍事力行使において、文民指導者が意思決定における「優越性」を確保する上でも必要なことでもある。本稿で扱った事例は、そうしたことを示しているように思われる。

(きくちしげお 政策研究部グローバル安全保障研究室長)