JW H1-4 2...2018 JANUARY No.52 ISSN 2188-0670 [ムンディ]...

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1 2018 January No.52 [ムンディ] The Magazine of the Japan International Cooperation Agency The Magazine of the Japan International Cooperation Agency The Magazine of the Japan International Cooperation Agency 最遠の地に根付くニホン 特集 中南米

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Page 1: JW H1-4 2...2018 JANUARY No.52 ISSN 2188-0670 [ムンディ] 平成30年1月1日発行(毎月1回1日発行) 編集・発行/独立行政法人 国際協力機構 〒102-8012

20

18JA

NU

AR

Y No

.52ISSN 2188-0670

[ムンディ] 平成30年

1月1日発行(毎月1回1日発行) 編集・発行/独立行政法人 国際協力機構

〒102-8012 東京都千代田区二番町5-25 

二番町センタービル TEL 03-5226-9781 FAX 03-5226-6396 http://w

ww.jica.go.jp/

12018 January

No.52

[ムンディ]

The Magazine of the Japan International Cooperation AgencyThe Magazine of the Japan International Cooperation AgencyThe Magazine of the Japan International Cooperation Agency

最遠の地に根付くニホン特集 中南米

Page 2: JW H1-4 2...2018 JANUARY No.52 ISSN 2188-0670 [ムンディ] 平成30年1月1日発行(毎月1回1日発行) 編集・発行/独立行政法人 国際協力機構 〒102-8012

JICA理事長北岡 伸一

明けましておめでとうございます。JICAは昨年7月に「信頼で世界をつなぐ」という新ビジョンを掲げました。それまでのビジョン「すべての人々が恩恵を受ける、ダイナミックな開発」を制定してから9年が経ったことや、2015年に新しい開発協力大綱が制定されたこと、さらに世界も変容していることから、この機に新たに定めた方が良いと考えました。 新たなビジョンを考えるに当たり、改めて開発協力大綱を読み解いてみました。その結果、JICAとして焦点を当てるべきは、やはり「人間の安全保障」と「質の高い成長」の2つだという考えに至り、それらの実現を組織のミッションとして定めました。 そのミッションを達成するためのキーワードは“信頼”です。日本の政府開発援助(ODA)が海外の方々から評価されている理由は、常に相手の立場になって共に考える姿勢にあるのだろうと思います。開発途上国に対して、上から目線や押し付けではなく、常に対等なパートナーとして臨み、相手の立場に立って、そのオーナーシップを尊重しています。

日本の経験が豊富な分野、例えば災害復興支援でも、「日本はさまざまな災害に遭っているが、常に復興に成功しているわけではない。失敗もたくさんしている。その失敗と教訓を共有したい」と語り掛ける。そうした姿勢が途上国の信頼を呼んでいるものと思います。日本らしさ、JICAらしさは何かと考えたときに、この信頼関係こそが大事であると考え、これをキーワードに据えました。

JICAは、「信頼で世界をつなぐ」というビジョンの下、国内外の幅広いパートナーと手を携えて、倦まず弛まず国際協力を進めてまいります。

新春

あいさつ

信頼で世界をつなぐ

昨年8月、ウガンダにて。難民支援の現場である稲作研修の農場で種まきを実施

う たゆ

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特集 中南米

Contents

02

04

January 2018 No.52

編集・発行/独立行政法人 国際協力機構Japan International Cooperation Agency : JICA

JICA理事長 新春あいさつ

MONO語り ぬくもり感じる木の贈り物39私のなんとかしなきゃ!40

イチオシ!37

地球ギャラリーモンゴル

広漠の地に解き放つ30

本・映画・イベント

エリック・フクサキ 歌手

伊波 さと子 青年海外協力隊/ボリビア/小学校教育JICA Volunteer Story18

JICA UPDATE25

28

読売巨人軍前監督 原辰徳さんらがペルーで熱血指導!―日本との固い絆

貝殻の再利用で豊かな里海づくりを 海洋建設株式会社

高橋 スリマラ 中南米部 南米課

特別レポート26

最遠の地に根付くニホン

ココシリ

JICA STAFF24

PLAYERS20

地域と世界のきずな22 広島県三次市

農業に付加価値を、農村に活力を

発展の礎を築いた開拓者たち パラグアイ国土を横断する希望の架け橋 ニカラグア地域の安全を守る頼れる味方 ブラジル各地に広がるニッケイ・ネットワーク

中南米諸国と日本

み よし

「mundi」はラテン語で“世界”。開発途上国の現状や、現場で活動する人々の姿を紹介するJICA広報誌です。

表紙 写真:柴田大輔

パラグアイ・エンカルナシオン市にある公園の一角。1975年に日本人移住者の手によって日本庭園が整備され、市民に長く親しまれてきた

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トリニダード・トバゴ

バルバドス

アンティグア・バーブーダ

バハマ

セントルシア

グレナダ

セントクリストファー・ネーヴィス

セントビンセントおよびグレナディーン諸島

ドミニカ国

エルサルバドル

エクアドル

ジャマイカベリーズ

パナマ

コスタリカ

ニカラグアグアテマラ

ホンジュラスガイアナ

ハイチ

スリナム

特集 中南米最遠の地に根付くニホン

ボリビア人口:1,090万人

推定日系人数:1万1,350人

計画的移住の開始年:1899年

人口:2億770万人

推定日系人数:190万人

計画的移住の開始年:1908年

人口:670万人

推定日系人数:1万人

計画的移住の開始年:1936年

人口:1,790万人

推定日系人数:3,000人

計画的移住の開始年:1903年

人口:3,180万人

推定日系人数:10万人

計画的移住の開始年:1899年

人口:4,870万人

推定日系人数:1,800人

計画的移住の開始年:1929年

人口:1,150万人

推定日系人数:1,360人

計画的移住の開始年:1908年

人口:1億2,750万人

推定日系人数:2万人計画的移住の開始年:1897年

人口:4,380万人

推定日系人数:6万5,000人

計画的移住の開始年:1913年

人口:340万人

推定日系人数:450人

計画的移住の開始年:1908年

ベネズエラ人口:3,160万人

推定日系人数:600人

計画的移住の開始年:1928年

パラグアイ

コロンビア

ペルー

アルゼンチン

チリ

面積は約2,000万㎢(世界の15.4%)。33カ国、人口6億人(世界の8.6%)から構成される

国内総生産(GDP)の規模は5.3兆ドル(2015年)でASEANの約2.2倍

アマゾンをはじめとする豊かな自然を持ち、世界の森林の22%がこの地域にある

豊富な鉱物・食糧資源を有する。代表的なものとして、銅、銀、大豆、サトウキビは世界全体の約半分を中南米地域で産出。また、鶏肉、コーヒー豆、サケ・マスなどは日本に多く輸出されている

ブラジル

ウルグアイ

人口:1,060万人

推定日系人数:800人

計画的移住の開始年:1956年

ドミニカ共和国

キューバ

メキシコ

地域の特徴は? 日系人の暮らしは?

■:高所得国(12,476米ドル以上)■:中進国以上(4,036~12,475米ドル)■:低中所得国(1,026~4,035米ドル)■:貧困国(1,025米ドル以下)※カッコ内の数値は一人当たり国民総所得(GNI)

中南米

日本の対蹠地(地球の反対側)

合計約1,210億円 中南米

70%

その他30%

合計約1,780億円 中南米

54%

その他46%

合計約1,430億円 中南米

67%

その他33%

合計約3,330億円

中南米25%

その他75%

日本の輸入額に占める中南米の割合(2016年度)

世界の産出・生産量に占める中南米の割合(2016年度、オレンジは2014年度)

鶏肉 コーヒー豆(生豆)

サケ・マス トウモロコシ

①ブラジル…約470億円

②コロンビア…約250億円

③グアテマラ…約160億円

①ブラジル…約820億円

②アルゼンチン…約5億8,580万円

③ペルー…約2億7,880万円①チリ…約960億円

①ブラジル…約840億円

大豆 サトウキビ

リチウム

合計約3億3,660万

トン

合計約3万5,000

トン

合計約1,940万トン

合計約17億1,130万

トン

中南米51%

その他49%

中南米51%

その他49%

中南米43%

その他57%

合計約2万7,000

トン

中南米46%

その他54%

中南米50%

その他50%

銅 銀

出典:農林水産省、農畜産業振興機構、FAOSTAT、U.S. Geological Survey, Mineral Commodity Summaries, January 2017

①ブラジル… 約6億5,720万トン②メキシコ… 約5,630万トン③コロンビア… 約4,000万トン

①ブラジル… 約1億400万トン②アルゼンチン… 約5,550万トン③パラグアイ… 約920万トン

①ブラジル… 約1,690万トン②メキシコ… 約450万トン③アルゼンチン… 約90万トン

Li Cu Ag①チリ… 約1万2,000トン②アルゼンチン… 約5,700トン③ブラジル… 約200トン

①チリ… 約550万トン②ペルー… 約230万トン③メキシコ… 約62万トン

①メキシコ… 約5,600トン②ペルー… 約4,100トン③チリ… 約1,500トン

約213万人の日系人が暮らしている

※ただしペルーからの転住

※ただしアルゼンチンからの転住

出典:世界銀行

オレンジ

合計約7,225万トン

中南米36%

その他64%

たい しょ ち

開発協力と経済交流で支え合う

日系移民の努力が両地域のきずなに

互いを知る機会・情報の充実を

 中南米最大の国ブラジルで、奇跡とも称され

る成果を生んだ農業支援がある。熱帯サバンナ

地域で〝不毛の土地〞といわれたセラードを世

界有数の農業地帯へと変えた日本の協力だ。き

っかけは、1974年に同国を訪問した田中角

栄首相(当時)が、政府開発援助(ODA)を

通じた協力を表明したこと。JICAはその3

年後に技術協力を開始し、日本企業や現地企業

と共に、土壌や作物栽培技術の改良にまい進。

2001年まで続いた協力により、セラードで

は大豆に加え、トウモロコシや野菜、果物、畜

産物、綿花、コーヒーなどが生産されるように

なった。

 農業の他にも、日本は教育や医療、防災、イ

ンフラ、科学研究など幅広い分野で、長年にわ

たって中南米への協力を続けてきた。経済面で

の結び付きも強く、今日、日本は銀や銅、亜鉛

などの金属の多くを中南米諸国から輸入してい

る。今では食料品店でチリ産の鮭を見掛けるこ

とも珍しくないが、その背景にODAを通じた

養殖業振興支援があったことも特筆しておきた

い。

 今年、2018年は日本と中南米諸国の関係

においては節目の年だ。メキシコとの外交樹立

130周年、アルゼンチン120周年、コロン

ビア110周年、ブラジル移住110周年とな

る。さらに、来年にはパラグアイとの外交樹立

100周年、ペルーとボリビアが移住120周

年を迎える。中南米諸国は概して親日的で、日

本と政府間・市民間のいずれにおいても親密な

関係を維持してきたが、そのつながりを語る上

で欠かせないのが、日系移民の存在だ。

 「植民地化が始まった16世紀以降、中南米は

鉱物資源やコーヒー、砂糖などの一次産品の産

地として知られてきました。1890年代以降、

多くの日本人がブラジルやペルー、アルゼンチ

ン、パラグアイ、ボリビアなどに渡った背景に

も、現地のプランテーション(大規模農園)や

未開拓地での労働者需要があったのです」。そ

う説明するのは、名古屋大学大学院国際開発研

究科の岡田勇准教授だ。

 当時の日本にとって、中南米諸国は資源豊か

な地だった。そうしたイメージのために、ごく

限られた情報しかなかった時代に、多くの日本

人が夢を抱いて海を渡ったのだ。しかし、希望

の地で日系移民たちを待っていたのは、苦難の

日々だった。「例えば、ペルーに渡った移民の

中には、プランテーションでの過酷な労働に耐

え兼ねて、別の仕事に移っていった人がいると

いいます。その一部は、自力でアンデス山脈を

越えてボリビアのアマゾン地帯に入り、ようや

くゴム栽培で生活の安定を見出し、そこで子孫

を残していったのです」と岡田さんは語る。

 当初は農業に従事したものの、別の仕事を求

めて新たな地に移らざるを得なかった日系人は

多く、そうした苦難と努力の末に日系社会は築

かれてきた。今では〝日系人〞と一口に言っても、

現地社会に溶け込んでいる人々、日本の文化や

言葉をある程度維持している人々、日本に暮ら

す日系の人々というように、その在り方は多様

だ。いずれにせよ、日本と中南米諸国との良好

な関係は、彼らが紡いできた知られざる努力に

支えられていることは疑いない。今日、ビジネ

編集協力:名古屋大学大学院国際開発研究科 岡田 勇 准教授

撮影(パラグアイ):柴田 大輔

最遠 の地に根付くニホン日々の暮らしの中で、遠く離れた中南米諸国のことを知る機会は少ない。しかし、日本と同地域は世紀を越える強いきずなで結ばれ、支え合って発展を続けてきた。開発協力の事例を通して、そのつながりを読み解く。

特集 中南米

ってこんなところ!距離は遠くても関係 は深い

スや旅行で初めて中南米を訪れる日本人もま

た、さまざまな形でその恩恵を受けている。

 2000年代以降、石油・鉱物資源や大豆な

どの価格上昇により、中南米経済は上向いてい

る。その反面、一次産品輸出に依存する植民地

時代からの旧弊を打破し、多角的な経済成長を

進める必要があると岡田さんは指摘する。そう

した中で期待されるのが、日本企業の進出や人

的交流の増加だ。だが、日本では中南米諸国の

情報は十分とはいえず、同地域が外国とどのよ

うな関係を構築しようとしているかはあまり知

られていない。中南米諸国では、アジアと異な

り二度の世界大戦の影響は小さかったが、他国

から資源収奪や介入を受けてきた歴史から、経

済成長のために外国投資を優遇する姿勢に対し

ては常に根強い反対の声がある。そうした国内

感情などの情報は、経済交流を行う際に知って

おきたい重要な前提知識だ。

 中南米の特徴について岡田さんは、「同地域

の人々は概して親しみやすく、 〝人はみな平等

だ〞という考えを持っているように思います」

と話す。「彼らは、日本を訪れると文化や国民

性の違いから苦労することもあるようですが、

最後には仕事上の立場を超えて、周りの人と親

友になったという話を聞くことは珍しくありま

せん。ぜひ、そうした魅力を多くの人に体感し

てもらいたいものですね」

 長年にわたって培われてきた日本と中南米の

きずな。今後は企業活動や社会・文化面などの

さまざまな面で、より一層活発な交流へと発展

していくことだろう。

05  January 2018 January 2018 04

07  January 2018 January 2018 06

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トリニダード・トバゴ

バルバドス

アンティグア・バーブーダ

バハマ

セントルシア

グレナダ

セントクリストファー・ネーヴィス

セントビンセントおよびグレナディーン諸島

ドミニカ国

エルサルバドル

エクアドル

ジャマイカベリーズ

パナマ

コスタリカ

ニカラグアグアテマラ

ホンジュラスガイアナ

ハイチ

スリナム

特集 中南米最遠の地に根付くニホン

ボリビア人口:1,090万人

推定日系人数:1万1,350人

計画的移住の開始年:1899年

人口:2億770万人

推定日系人数:190万人

計画的移住の開始年:1908年

人口:670万人

推定日系人数:1万人

計画的移住の開始年:1936年

人口:1,790万人

推定日系人数:3,000人

計画的移住の開始年:1903年

人口:3,180万人

推定日系人数:10万人

計画的移住の開始年:1899年

人口:4,870万人

推定日系人数:1,800人

計画的移住の開始年:1929年

人口:1,150万人

推定日系人数:1,360人

計画的移住の開始年:1908年

人口:1億2,750万人

推定日系人数:2万人計画的移住の開始年:1897年

人口:4,380万人

推定日系人数:6万5,000人

計画的移住の開始年:1913年

人口:340万人

推定日系人数:450人

計画的移住の開始年:1908年

ベネズエラ人口:3,160万人

推定日系人数:600人

計画的移住の開始年:1928年

パラグアイ

コロンビア

ペルー

アルゼンチン

チリ

面積は約2,000万㎢(世界の15.4%)。33カ国、人口6億人(世界の8.6%)から構成される

国内総生産(GDP)の規模は5.3兆ドル(2015年)でASEANの約2.2倍

アマゾンをはじめとする豊かな自然を持ち、世界の森林の22%がこの地域にある

豊富な鉱物・食糧資源を有する。代表的なものとして、銅、銀、大豆、サトウキビは世界全体の約半分を中南米地域で産出。また、鶏肉、コーヒー豆、サケ・マスなどは日本に多く輸出されている

ブラジル

ウルグアイ

人口:1,060万人

推定日系人数:800人

計画的移住の開始年:1956年

ドミニカ共和国

キューバ

メキシコ

地域の特徴は? 日系人の暮らしは?

■:高所得国(12,476米ドル以上)■:中進国以上(4,036~12,475米ドル)■:低中所得国(1,026~4,035米ドル)■:貧困国(1,025米ドル以下)※カッコ内の数値は一人当たり国民総所得(GNI)

中南米

日本の対蹠地(地球の反対側)

合計約1,210億円 中南米

70%

その他30%

合計約1,780億円 中南米

54%

その他46%

合計約1,430億円 中南米

67%

その他33%

合計約3,330億円

中南米25%

その他75%

日本の輸入額に占める中南米の割合(2016年度)

世界の産出・生産量に占める中南米の割合(2016年度、オレンジは2014年度)

鶏肉 コーヒー豆(生豆)

サケ・マス トウモロコシ

①ブラジル…約470億円

②コロンビア…約250億円

③グアテマラ…約160億円

①ブラジル…約820億円

②アルゼンチン…約5億8,580万円

③ペルー…約2億7,880万円①チリ…約960億円

①ブラジル…約840億円

大豆 サトウキビ

リチウム

合計約3億3,660万

トン

合計約3万5,000

トン

合計約1,940万トン

合計約17億1,130万

トン

中南米51%

その他49%

中南米51%

その他49%

中南米43%

その他57%

合計約2万7,000

トン

中南米46%

その他54%

中南米50%

その他50%

銅 銀

出典:農林水産省、農畜産業振興機構、FAOSTAT、U.S. Geological Survey, Mineral Commodity Summaries, January 2017

①ブラジル… 約6億5,720万トン②メキシコ… 約5,630万トン③コロンビア… 約4,000万トン

①ブラジル… 約1億400万トン②アルゼンチン… 約5,550万トン③パラグアイ… 約920万トン

①ブラジル… 約1,690万トン②メキシコ… 約450万トン③アルゼンチン… 約90万トン

Li Cu Ag①チリ… 約1万2,000トン②アルゼンチン… 約5,700トン③ブラジル… 約200トン

①チリ… 約550万トン②ペルー… 約230万トン③メキシコ… 約62万トン

①メキシコ… 約5,600トン②ペルー… 約4,100トン③チリ… 約1,500トン

約213万人の日系人が暮らしている

※ただしペルーからの転住

※ただしアルゼンチンからの転住

出典:世界銀行

オレンジ

合計約7,225万トン

中南米36%

その他64%

たい しょ ち

開発協力と経済交流で支え合う

日系移民の努力が両地域のきずなに

互いを知る機会・情報の充実を

 中南米最大の国ブラジルで、奇跡とも称され

る成果を生んだ農業支援がある。熱帯サバンナ

地域で〝不毛の土地〞といわれたセラードを世

界有数の農業地帯へと変えた日本の協力だ。き

っかけは、1974年に同国を訪問した田中角

栄首相(当時)が、政府開発援助(ODA)を

通じた協力を表明したこと。JICAはその3

年後に技術協力を開始し、日本企業や現地企業

と共に、土壌や作物栽培技術の改良にまい進。

2001年まで続いた協力により、セラードで

は大豆に加え、トウモロコシや野菜、果物、畜

産物、綿花、コーヒーなどが生産されるように

なった。

 農業の他にも、日本は教育や医療、防災、イ

ンフラ、科学研究など幅広い分野で、長年にわ

たって中南米への協力を続けてきた。経済面で

の結び付きも強く、今日、日本は銀や銅、亜鉛

などの金属の多くを中南米諸国から輸入してい

る。今では食料品店でチリ産の鮭を見掛けるこ

とも珍しくないが、その背景にODAを通じた

養殖業振興支援があったことも特筆しておきた

い。

 今年、2018年は日本と中南米諸国の関係

においては節目の年だ。メキシコとの外交樹立

130周年、アルゼンチン120周年、コロン

ビア110周年、ブラジル移住110周年とな

る。さらに、来年にはパラグアイとの外交樹立

100周年、ペルーとボリビアが移住120周

年を迎える。中南米諸国は概して親日的で、日

本と政府間・市民間のいずれにおいても親密な

関係を維持してきたが、そのつながりを語る上

で欠かせないのが、日系移民の存在だ。

 「植民地化が始まった16世紀以降、中南米は

鉱物資源やコーヒー、砂糖などの一次産品の産

地として知られてきました。1890年代以降、

多くの日本人がブラジルやペルー、アルゼンチ

ン、パラグアイ、ボリビアなどに渡った背景に

も、現地のプランテーション(大規模農園)や

未開拓地での労働者需要があったのです」。そ

う説明するのは、名古屋大学大学院国際開発研

究科の岡田勇准教授だ。

 当時の日本にとって、中南米諸国は資源豊か

な地だった。そうしたイメージのために、ごく

限られた情報しかなかった時代に、多くの日本

人が夢を抱いて海を渡ったのだ。しかし、希望

の地で日系移民たちを待っていたのは、苦難の

日々だった。「例えば、ペルーに渡った移民の

中には、プランテーションでの過酷な労働に耐

え兼ねて、別の仕事に移っていった人がいると

いいます。その一部は、自力でアンデス山脈を

越えてボリビアのアマゾン地帯に入り、ようや

くゴム栽培で生活の安定を見出し、そこで子孫

を残していったのです」と岡田さんは語る。

 当初は農業に従事したものの、別の仕事を求

めて新たな地に移らざるを得なかった日系人は

多く、そうした苦難と努力の末に日系社会は築

かれてきた。今では〝日系人〞と一口に言っても、

現地社会に溶け込んでいる人々、日本の文化や

言葉をある程度維持している人々、日本に暮ら

す日系の人々というように、その在り方は多様

だ。いずれにせよ、日本と中南米諸国との良好

な関係は、彼らが紡いできた知られざる努力に

支えられていることは疑いない。今日、ビジネ

編集協力:名古屋大学大学院国際開発研究科 岡田 勇 准教授

撮影(パラグアイ):柴田 大輔

最遠 の地に根付くニホン日々の暮らしの中で、遠く離れた中南米諸国のことを知る機会は少ない。しかし、日本と同地域は世紀を越える強いきずなで結ばれ、支え合って発展を続けてきた。開発協力の事例を通して、そのつながりを読み解く。

特集 中南米

ってこんなところ!距離は遠くても関係 は深い

スや旅行で初めて中南米を訪れる日本人もま

た、さまざまな形でその恩恵を受けている。

 2000年代以降、石油・鉱物資源や大豆な

どの価格上昇により、中南米経済は上向いてい

る。その反面、一次産品輸出に依存する植民地

時代からの旧弊を打破し、多角的な経済成長を

進める必要があると岡田さんは指摘する。そう

した中で期待されるのが、日本企業の進出や人

的交流の増加だ。だが、日本では中南米諸国の

情報は十分とはいえず、同地域が外国とどのよ

うな関係を構築しようとしているかはあまり知

られていない。中南米諸国では、アジアと異な

り二度の世界大戦の影響は小さかったが、他国

から資源収奪や介入を受けてきた歴史から、経

済成長のために外国投資を優遇する姿勢に対し

ては常に根強い反対の声がある。そうした国内

感情などの情報は、経済交流を行う際に知って

おきたい重要な前提知識だ。

 中南米の特徴について岡田さんは、「同地域

の人々は概して親しみやすく、 〝人はみな平等

だ〞という考えを持っているように思います」

と話す。「彼らは、日本を訪れると文化や国民

性の違いから苦労することもあるようですが、

最後には仕事上の立場を超えて、周りの人と親

友になったという話を聞くことは珍しくありま

せん。ぜひ、そうした魅力を多くの人に体感し

てもらいたいものですね」

 長年にわたって培われてきた日本と中南米の

きずな。今後は企業活動や社会・文化面などの

さまざまな面で、より一層活発な交流へと発展

していくことだろう。

05  January 2018 January 2018 04

07  January 2018 January 2018 06

Page 6: JW H1-4 2...2018 JANUARY No.52 ISSN 2188-0670 [ムンディ] 平成30年1月1日発行(毎月1回1日発行) 編集・発行/独立行政法人 国際協力機構 〒102-8012

  11月下旬、パラグアイの首都ア

スンシオンに1週間ぶりの雨が降

った。時折、大きな音で地面を叩

きつけるような激しい雨だ。市街

地の道路は冠水し、対向車とすれ

違うたびに車のフロントガラスに

勢いよく水しぶきが掛かる。

 この日、筆者が向かった先は、

毎週土曜日に開かれる野菜市場。

大雨にもかかわらず、多くの人が

続々と会場に足を運んでいた。毎

週ここで買い物をするという常連

客に話を聞いた。「この市場は、

その日に収穫したばかりの新鮮な

野菜が手に入るから好きなんで

す。カボチャをマッシュポテトの

ようにつぶしたり、ズッキーニを

卵やチーズと混ぜてパイにしたり、

パラグアイ風の料理にアレンジし

て楽しんでいます」

 生産者は、アスンシオン近郊で

農業を営む4人の日系人だ。パラ

グアイはもともと肉中心の食生活

で、野菜を食べる習慣がなかった。

そんな中、ここでは大根、ナス、

キュウリなど、同国社会に馴染み

のなかった野菜に加え、イチゴや

スイカといった果物も並ぶ。生産

者の一人、堤田昭次さんは、「約15

年前にこの場所で市場を始めまし

たが、今では常連客も増え、私た

ちが作る野菜が徐々に浸透してい

ることを実感しています」と話す。

パラグアイでは、白菜はA

celga Japonesa

(日本菜)、みょうがは

Jengibre Japonés

(日本ショウガ)

と呼ばれるなど、日本から持ち込

まれた食材が食卓を豊かにしてき

たことが、野菜の名前からも見て

取れる。しかし、そこに至るまで

には、長年にわたる移住者たちの

並々ならぬ苦労と努力があった。

 現在、約1万人の日系人が暮ら

しているといわれるパラグアイ。

移住史の始まりは、今から約80年

前の1936年までさかのぼる。

日本の国策移民最大の受け入れ国

だったブラジルが外国人移住者の

制限を設けたことから、新たな移

住先としてパラグアイへの入植が

始まったのだ。最初の入植地とな

ったのは、アスンシオンから約1

30キロ離れたラ・コルメナ移住

地。第一陣入植者として、1歳6

カ月の年齢で両親と共に移住した

関淳子さんは、当初の生活をこう

振り返る。「森林を切り開き、農

作物を育てながら自給自足の生活

をしていました。それまで農業の

経験はなかったので、とても苦労

しました」。厳しい経済状況にラ・

日系人だけでなく、地域のパラグ

アイ人たちも一緒に働いている。

工場では1日当たり95トンの小麦

を製粉しており、用途・分量別に

梱包された小麦粉が次々と積み重

ねられていた。

 2010年には飼料工場の操業

も始まり、「今後は畜産業にも力

を入れていく計画です」と話す後

藤組合長。6歳のときにラ・パス

に移住し、1986年にはJIC

Aの研修を通じて、日本で農協の

仕組みなどについて学んだ経験を

持つ。帰国後はその経験を生かし

て、パソコンを使った会計プログ

ラムの導入など農協業務の改善に

取り組んできた。「今まで暮らし

てきたラ・パスに貢献する意味で

も、投資や雇用創出を通じて地域

活性化を図っていきたいと考えて

います」と後藤組合長は意気込む。

 移住先国での定着と生活の安定

を図るための支援を目的とした海

外移住事業団。そのさまざまな事

業は、日系社会における農業の発

展を後押ししてきた。特に、道路

整備事業によって市場へのアクセ

スが改善したことで、それまで牛

車を使って農作物を運搬していた

農家の販売機会が大きく広がっ

た。

 海外移住事業団による支援は農

業分野だけにとどまらない。各移

住地の日本人会をはじめとする日

系団体組織の活動も支えてきた。

その活動を取材するため、ラ・パ

スから車を1時間ほど走らせた場

所にあるピラポ移住地を訪れた。

農協のスーパーには、日本の米や

インスタント食品、漬物などが販

売されており、思わずパラグアイ

にいることを忘れてしまいそう

だ。また、日本人の医師が対応す

る診療所もあり、日本語で診察を

受けられる安心感から、遠方から

通う患者もいるという。

 ピラポ日本人会の篠藤真喜男会

長は、「私たちの主な活動の一つ

が、日本語教育です。ピラポの日

本語学校には、幼稚園、小学校、

中学校の全体で約180人の子ど

もたちが通っています」と説明す

る。子どもたちは、平日は地域の

スペイン語の学校に通い、土曜日

に日本語学校で会話や読み書きな

どを学んでいる。日本語教育は各

移住地で行われており、指導には

日本人会の会員の他、JICAボ

ランティアも協力している。

 また、移住地での高齢化が進む

中、各日本人会が取り組みを推進

しているのが、高齢者福祉の活動

だ。ピラポでは「ひまわり会」と

呼ばれる福祉ボランティアが中心

となり、月に1度、地域の高齢者

たちを集めて歌や手芸といった趣

味活動と、健康講座などを行って

いる。この高齢者福祉事業を立ち

上げたのが、国内10の日系団体組

織を取りまとめるパラグアイ日本

人会連合会の菊池明雄さんだ。1

961年にパラグアイに移住した

菊池さんは、1964年から海外

移住事業団、そして現在のJIC

Aの現地職員として勤務した後、

2007年に日本人会連合会の嘱

託職員となった。各移住地を回っ

て現状調査や体制作りを進めると

ともに、地域の福祉ボランティア

のスタッフを対象にした研修制度

も構築した。菊池さんは、「家に

引きこもりがちだった人も含め、

月に1度でも高齢者の方々が集ま

れる場ができました。〝楽しかっ

た〞と言ってもらえるとうれしい

ですし、この国で農業の基盤を築

いてきた大先輩に対してできる恩

返しだと思っています」と語る。

 移住者たちの長年にわたる努力

を経て、パラグアイの主要産業と

して確立した農業。それを、地域経

済のさらなる発展につなげていく

ために、日系1世の後を継ぐ若い

世代の人たちも知恵を絞っている。

 その一人が、ラ・コルメナでブ

ドウ、モモ、スモモなどの果樹を

栽培する日系3世の宮本浩一さん

だ。1989年から1年半、山梨

県で果樹の栽培技術に関する研修

を受けた宮本さんは、祖父の代か

ら続く果樹園を引き継ぐとともに、

新たに加工品の生産にも挑戦して

いる。「今、従業員が一丸となって

取り組んでいるのは、ここで収穫

したブドウを使ったジュース作り

です」

 きっかけは、2010年から3

年間行われたJICA草の根技術

協力事業だ。この事業には、地域

の農産物を加工した新製品の開発

や販路拡大を進める香川県が全面

的に協力。ラ・コルメナの農家を

対象に、加工の知識や技術、マー

ケティング能力の向上などを目的

とした研修やワークショップを行

った。そこで得た経験を生かして

ブドウジュース作りに励んでいる

宮本さんだが、コストの面などま

だまだ乗り越えなければならない

課題は多いという。「まずは毎年12

月に開かれる果物の展示即売会〝フ

ルーツエキスポ〞での販売に向け

市場に並ぶ豊富な野菜

その陰に日系人の存在

試行錯誤を重ね

一大産業にまで成長

移住地での生活を支える

日本の文化の継承も

地域の発展に貢献

その思いは次の世代へ

特集 中南米最遠の地に根付くニホン

柴田さんの農園を訪れたこともあ

る。また、柴田さん自身もセミナ

ーなどを通じて、地域のパラグア

イ人の農家たちに土作りの大切さ

を伝えているという。「パラグアイ

社会でも、野菜を提供する飲食店

が増えるなど消費者の食生活は変

わりつつありますが、一方で生産

者を見ると、まだまだ農業技術が

普及していないのが現状です。苦

労している農家を助け、この国の

農業の発展のために少しでも力に

なりたいと思っています」

 日本人のパラグアイへの移住が

始まってから80年。未開の地を力

強く生き抜いてきた魂は、これか

らも地域の中で受け継がれていく

ことだろう。

(編集部 中森雅人)

特集 中南米最遠の地に根付くニホン

て、準備を進めているところです。

近い将来には商品化を実現させて、

香川県の人たちにも届けることが

私の夢ですね」

 一方、アスンシオン近郊のカピ

アタでは、日系2世の柴田大作さ

んが〝土作り〞にこだわった野菜

の栽培に取り組んでいる。「除草剤

は使わず、土を耕さない不耕起栽

培によって野菜を作っています。

さまざまな野菜をローテーション

して栽培したり、収穫後3カ月間

は土を休ませたりすることで、病

気に強い作物が育つ土壌ができる

のです」

 柴田さんの農園では、土に有機

肥料を混ぜて発酵させた「ボカシ

肥料」も自家製だ。こうした技術

を学ぼうと、同国農牧省の職員が

コルメナを離れる移住者も出始め

たが、1948年に農業協同組合

が設立されたことで、事態は好転。

アスンシオンの卸売市場で農作物

を販売できるようになり、次第に

農業が発展していった。

 1950年代後半からは、JI

CAの前身である日本海外移住振

興株式会社の直轄移住地として、

ラ・パス、ピラポ、イグアスの各

移住地が建設され、パラグアイへ

の移住が本格化した。ラ・パスで

は、移住者たちがトウモロコシや

綿花などさまざまな栽培を試行し

た末に、現在の同国経済を支える

農作物にたどり着いた。それが大

豆だ。「1973年のオイルショ

ックに伴い大豆価格が大暴騰した

ことをきっかけに、大豆の生産に

注目が集まりました。同時に、海

外移住事業団(日本海外移住振興

株式会社の継承組織)による融資

や機材の無償貸与といった支援に

より農業の機械化が進んだこと

で、商業的な大豆の生産が本格化

しました」。こう説明するのは、ラ・

パス農業協同組合の後藤吉雅組合

長だ。大豆栽培は瞬く間にパラグ

アイ全土に広がり、今では世界4

位の輸出量を誇る一大産業に成長

した。

 ラ・パスでは二毛作として小麦

の栽培にも力を入れており、20

03年には農協の製粉工場も完成

した。従業員数は200人近く。

発展の礎を築いた開拓者たち

ラ・パスに2003年に完成した農協の製粉工場。地域のパラグアイ人の雇用創出にもつながっている

ピラポの福祉ボランティア「ひまわり会」に所属する柏葉美和子さん。歌や体操などを通じて、地域で暮らす高齢者の生き生きとした生活を支えている

ラ・コルメナで宮本果樹園を経営する宮本浩一さん(中央)。従業員と一緒にスモモの選別作業を行っていた

アスンシオン近郊で野菜を栽培する柴田大作さん。雑草は除去せずに自然の状態のままに保つのが、柴田さんの土作りの秘訣だ

Paraguayfrom

パラグアイ

写真=柴田大輔(フォトジャーナリスト)

1936年、大勢の人に見送られながら神戸港を出発した11家族81人の日本人。南米パラグアイへの移住史の最初のページが刻まれた瞬間だ。

それから80年、多くの努力を重ね、パラグアイの農業の発展に貢献してきた人々の軌跡を追った。

パラグアイの首都アスンシオンで毎週土曜日に開かれる市場は、いつも大勢の人で賑わう。日系2世の木村広二さん(左)ら4人の日系人が生産した野菜が販売されている

2015年までの約15年間、ラ・パス市長を務めた日系1世の宮里伝さん。地域全体の発展のために、インフラ整備の推進などに尽力した。宮里さんのように、近年では多くの日系人がさまざまな分野で活躍している

ゆずる

兵庫県の小学校教諭の羽石瑛さん。2017年7月から、日系社会青年ボランティアとしてアスンシオンの日本語学校に派遣されている

あきら

 パラグアイ総人口の0.1%を占める日本人や日系人の活躍の場は、農業から経済界にも広がっている。トヨタ自動車のパラグアイ総代理店である「トヨトシグループ」、同国内で鶏卵生産のシェア7割を誇る「前原農商株式会社」、同国産のゴマを約30年間、日本に輸出してきた「白沢商工株式会社」など、パラグアイのビジネス業界を代表する日系企業も増えている。また、パラグアイと日本の時差を利用し、日本から依頼された設計図面などを日本の夜間に完成させるサービスを行う企業も進出(有限会社システムデザイン)。日系2世の現地代表は、日本語という共通言語や価値観を日本人と共有し、きめ細やかなサービスを提供している。 日系社会が礎となり、日本人への信頼感が高い中南米では、日本の民間企業が現地の日系人・企業と手を組んで連携できる可能性が高い。JICAは日系社会と民間企業の互恵的な協力の可能性を探るため、2012年度から民間企業が参加した調査団を派遣。2018年度は、パラグアイとペルーへの派遣を予定している。

日系社会とのビジネス連携

調査団によるビジネスネットワーキングセミナーの様子(2017年7月/ブラジル・サンパウロ)

第一陣入植者(11家族81人)の神戸港での集合写真を手にする関淳子さん。このうち、今もラ・コルメナで生活している人は、関さんを含めて2人しかいないという

アスンシオン

ラ・コルメナ移住地ラ・パス移住地

ピラポ移住地

January 2018 0809  January 2018

January 2018 1011  January 2018

Page 7: JW H1-4 2...2018 JANUARY No.52 ISSN 2188-0670 [ムンディ] 平成30年1月1日発行(毎月1回1日発行) 編集・発行/独立行政法人 国際協力機構 〒102-8012

  11月下旬、パラグアイの首都ア

スンシオンに1週間ぶりの雨が降

った。時折、大きな音で地面を叩

きつけるような激しい雨だ。市街

地の道路は冠水し、対向車とすれ

違うたびに車のフロントガラスに

勢いよく水しぶきが掛かる。

 この日、筆者が向かった先は、

毎週土曜日に開かれる野菜市場。

大雨にもかかわらず、多くの人が

続々と会場に足を運んでいた。毎

週ここで買い物をするという常連

客に話を聞いた。「この市場は、

その日に収穫したばかりの新鮮な

野菜が手に入るから好きなんで

す。カボチャをマッシュポテトの

ようにつぶしたり、ズッキーニを

卵やチーズと混ぜてパイにしたり、

パラグアイ風の料理にアレンジし

て楽しんでいます」

 生産者は、アスンシオン近郊で

農業を営む4人の日系人だ。パラ

グアイはもともと肉中心の食生活

で、野菜を食べる習慣がなかった。

そんな中、ここでは大根、ナス、

キュウリなど、同国社会に馴染み

のなかった野菜に加え、イチゴや

スイカといった果物も並ぶ。生産

者の一人、堤田昭次さんは、「約15

年前にこの場所で市場を始めまし

たが、今では常連客も増え、私た

ちが作る野菜が徐々に浸透してい

ることを実感しています」と話す。

パラグアイでは、白菜はA

celga Japonesa

(日本菜)、みょうがは

Jengibre Japonés

(日本ショウガ)

と呼ばれるなど、日本から持ち込

まれた食材が食卓を豊かにしてき

たことが、野菜の名前からも見て

取れる。しかし、そこに至るまで

には、長年にわたる移住者たちの

並々ならぬ苦労と努力があった。

 現在、約1万人の日系人が暮ら

しているといわれるパラグアイ。

移住史の始まりは、今から約80年

前の1936年までさかのぼる。

日本の国策移民最大の受け入れ国

だったブラジルが外国人移住者の

制限を設けたことから、新たな移

住先としてパラグアイへの入植が

始まったのだ。最初の入植地とな

ったのは、アスンシオンから約1

30キロ離れたラ・コルメナ移住

地。第一陣入植者として、1歳6

カ月の年齢で両親と共に移住した

関淳子さんは、当初の生活をこう

振り返る。「森林を切り開き、農

作物を育てながら自給自足の生活

をしていました。それまで農業の

経験はなかったので、とても苦労

しました」。厳しい経済状況にラ・

日系人だけでなく、地域のパラグ

アイ人たちも一緒に働いている。

工場では1日当たり95トンの小麦

を製粉しており、用途・分量別に

梱包された小麦粉が次々と積み重

ねられていた。

 2010年には飼料工場の操業

も始まり、「今後は畜産業にも力

を入れていく計画です」と話す後

藤組合長。6歳のときにラ・パス

に移住し、1986年にはJIC

Aの研修を通じて、日本で農協の

仕組みなどについて学んだ経験を

持つ。帰国後はその経験を生かし

て、パソコンを使った会計プログ

ラムの導入など農協業務の改善に

取り組んできた。「今まで暮らし

てきたラ・パスに貢献する意味で

も、投資や雇用創出を通じて地域

活性化を図っていきたいと考えて

います」と後藤組合長は意気込む。

 移住先国での定着と生活の安定

を図るための支援を目的とした海

外移住事業団。そのさまざまな事

業は、日系社会における農業の発

展を後押ししてきた。特に、道路

整備事業によって市場へのアクセ

スが改善したことで、それまで牛

車を使って農作物を運搬していた

農家の販売機会が大きく広がっ

た。

 海外移住事業団による支援は農

業分野だけにとどまらない。各移

住地の日本人会をはじめとする日

系団体組織の活動も支えてきた。

その活動を取材するため、ラ・パ

スから車を1時間ほど走らせた場

所にあるピラポ移住地を訪れた。

農協のスーパーには、日本の米や

インスタント食品、漬物などが販

売されており、思わずパラグアイ

にいることを忘れてしまいそう

だ。また、日本人の医師が対応す

る診療所もあり、日本語で診察を

受けられる安心感から、遠方から

通う患者もいるという。

 ピラポ日本人会の篠藤真喜男会

長は、「私たちの主な活動の一つ

が、日本語教育です。ピラポの日

本語学校には、幼稚園、小学校、

中学校の全体で約180人の子ど

もたちが通っています」と説明す

る。子どもたちは、平日は地域の

スペイン語の学校に通い、土曜日

に日本語学校で会話や読み書きな

どを学んでいる。日本語教育は各

移住地で行われており、指導には

日本人会の会員の他、JICAボ

ランティアも協力している。

 また、移住地での高齢化が進む

中、各日本人会が取り組みを推進

しているのが、高齢者福祉の活動

だ。ピラポでは「ひまわり会」と

呼ばれる福祉ボランティアが中心

となり、月に1度、地域の高齢者

たちを集めて歌や手芸といった趣

味活動と、健康講座などを行って

いる。この高齢者福祉事業を立ち

上げたのが、国内10の日系団体組

織を取りまとめるパラグアイ日本

人会連合会の菊池明雄さんだ。1

961年にパラグアイに移住した

菊池さんは、1964年から海外

移住事業団、そして現在のJIC

Aの現地職員として勤務した後、

2007年に日本人会連合会の嘱

託職員となった。各移住地を回っ

て現状調査や体制作りを進めると

ともに、地域の福祉ボランティア

のスタッフを対象にした研修制度

も構築した。菊池さんは、「家に

引きこもりがちだった人も含め、

月に1度でも高齢者の方々が集ま

れる場ができました。〝楽しかっ

た〞と言ってもらえるとうれしい

ですし、この国で農業の基盤を築

いてきた大先輩に対してできる恩

返しだと思っています」と語る。

 移住者たちの長年にわたる努力

を経て、パラグアイの主要産業と

して確立した農業。それを、地域経

済のさらなる発展につなげていく

ために、日系1世の後を継ぐ若い

世代の人たちも知恵を絞っている。

 その一人が、ラ・コルメナでブ

ドウ、モモ、スモモなどの果樹を

栽培する日系3世の宮本浩一さん

だ。1989年から1年半、山梨

県で果樹の栽培技術に関する研修

を受けた宮本さんは、祖父の代か

ら続く果樹園を引き継ぐとともに、

新たに加工品の生産にも挑戦して

いる。「今、従業員が一丸となって

取り組んでいるのは、ここで収穫

したブドウを使ったジュース作り

です」

 きっかけは、2010年から3

年間行われたJICA草の根技術

協力事業だ。この事業には、地域

の農産物を加工した新製品の開発

や販路拡大を進める香川県が全面

的に協力。ラ・コルメナの農家を

対象に、加工の知識や技術、マー

ケティング能力の向上などを目的

とした研修やワークショップを行

った。そこで得た経験を生かして

ブドウジュース作りに励んでいる

宮本さんだが、コストの面などま

だまだ乗り越えなければならない

課題は多いという。「まずは毎年12

月に開かれる果物の展示即売会〝フ

ルーツエキスポ〞での販売に向け

市場に並ぶ豊富な野菜

その陰に日系人の存在

試行錯誤を重ね

一大産業にまで成長

移住地での生活を支える

日本の文化の継承も

地域の発展に貢献

その思いは次の世代へ

特集 中南米最遠の地に根付くニホン

柴田さんの農園を訪れたこともあ

る。また、柴田さん自身もセミナ

ーなどを通じて、地域のパラグア

イ人の農家たちに土作りの大切さ

を伝えているという。「パラグアイ

社会でも、野菜を提供する飲食店

が増えるなど消費者の食生活は変

わりつつありますが、一方で生産

者を見ると、まだまだ農業技術が

普及していないのが現状です。苦

労している農家を助け、この国の

農業の発展のために少しでも力に

なりたいと思っています」

 日本人のパラグアイへの移住が

始まってから80年。未開の地を力

強く生き抜いてきた魂は、これか

らも地域の中で受け継がれていく

ことだろう。

(編集部 中森雅人)

特集 中南米最遠の地に根付くニホン

て、準備を進めているところです。

近い将来には商品化を実現させて、

香川県の人たちにも届けることが

私の夢ですね」

 一方、アスンシオン近郊のカピ

アタでは、日系2世の柴田大作さ

んが〝土作り〞にこだわった野菜

の栽培に取り組んでいる。「除草剤

は使わず、土を耕さない不耕起栽

培によって野菜を作っています。

さまざまな野菜をローテーション

して栽培したり、収穫後3カ月間

は土を休ませたりすることで、病

気に強い作物が育つ土壌ができる

のです」

 柴田さんの農園では、土に有機

肥料を混ぜて発酵させた「ボカシ

肥料」も自家製だ。こうした技術

を学ぼうと、同国農牧省の職員が

コルメナを離れる移住者も出始め

たが、1948年に農業協同組合

が設立されたことで、事態は好転。

アスンシオンの卸売市場で農作物

を販売できるようになり、次第に

農業が発展していった。

 1950年代後半からは、JI

CAの前身である日本海外移住振

興株式会社の直轄移住地として、

ラ・パス、ピラポ、イグアスの各

移住地が建設され、パラグアイへ

の移住が本格化した。ラ・パスで

は、移住者たちがトウモロコシや

綿花などさまざまな栽培を試行し

た末に、現在の同国経済を支える

農作物にたどり着いた。それが大

豆だ。「1973年のオイルショ

ックに伴い大豆価格が大暴騰した

ことをきっかけに、大豆の生産に

注目が集まりました。同時に、海

外移住事業団(日本海外移住振興

株式会社の継承組織)による融資

や機材の無償貸与といった支援に

より農業の機械化が進んだこと

で、商業的な大豆の生産が本格化

しました」。こう説明するのは、ラ・

パス農業協同組合の後藤吉雅組合

長だ。大豆栽培は瞬く間にパラグ

アイ全土に広がり、今では世界4

位の輸出量を誇る一大産業に成長

した。

 ラ・パスでは二毛作として小麦

の栽培にも力を入れており、20

03年には農協の製粉工場も完成

した。従業員数は200人近く。

発展の礎を築いた開拓者たち

ラ・パスに2003年に完成した農協の製粉工場。地域のパラグアイ人の雇用創出にもつながっている

ピラポの福祉ボランティア「ひまわり会」に所属する柏葉美和子さん。歌や体操などを通じて、地域で暮らす高齢者の生き生きとした生活を支えている

ラ・コルメナで宮本果樹園を経営する宮本浩一さん(中央)。従業員と一緒にスモモの選別作業を行っていた

アスンシオン近郊で野菜を栽培する柴田大作さん。雑草は除去せずに自然の状態のままに保つのが、柴田さんの土作りの秘訣だ

Paraguayfrom

パラグアイ

写真=柴田大輔(フォトジャーナリスト)

1936年、大勢の人に見送られながら神戸港を出発した11家族81人の日本人。南米パラグアイへの移住史の最初のページが刻まれた瞬間だ。

それから80年、多くの努力を重ね、パラグアイの農業の発展に貢献してきた人々の軌跡を追った。

パラグアイの首都アスンシオンで毎週土曜日に開かれる市場は、いつも大勢の人で賑わう。日系2世の木村広二さん(左)ら4人の日系人が生産した野菜が販売されている

2015年までの約15年間、ラ・パス市長を務めた日系1世の宮里伝さん。地域全体の発展のために、インフラ整備の推進などに尽力した。宮里さんのように、近年では多くの日系人がさまざまな分野で活躍している

ゆずる

兵庫県の小学校教諭の羽石瑛さん。2017年7月から、日系社会青年ボランティアとしてアスンシオンの日本語学校に派遣されている

あきら

 パラグアイ総人口の0.1%を占める日本人や日系人の活躍の場は、農業から経済界にも広がっている。トヨタ自動車のパラグアイ総代理店である「トヨトシグループ」、同国内で鶏卵生産のシェア7割を誇る「前原農商株式会社」、同国産のゴマを約30年間、日本に輸出してきた「白沢商工株式会社」など、パラグアイのビジネス業界を代表する日系企業も増えている。また、パラグアイと日本の時差を利用し、日本から依頼された設計図面などを日本の夜間に完成させるサービスを行う企業も進出(有限会社システムデザイン)。日系2世の現地代表は、日本語という共通言語や価値観を日本人と共有し、きめ細やかなサービスを提供している。 日系社会が礎となり、日本人への信頼感が高い中南米では、日本の民間企業が現地の日系人・企業と手を組んで連携できる可能性が高い。JICAは日系社会と民間企業の互恵的な協力の可能性を探るため、2012年度から民間企業が参加した調査団を派遣。2018年度は、パラグアイとペルーへの派遣を予定している。

日系社会とのビジネス連携

調査団によるビジネスネットワーキングセミナーの様子(2017年7月/ブラジル・サンパウロ)

第一陣入植者(11家族81人)の神戸港での集合写真を手にする関淳子さん。このうち、今もラ・コルメナで生活している人は、関さんを含めて2人しかいないという

アスンシオン

ラ・コルメナ移住地ラ・パス移住地

ピラポ移住地

January 2018 0809  January 2018

January 2018 1011  January 2018

Page 8: JW H1-4 2...2018 JANUARY No.52 ISSN 2188-0670 [ムンディ] 平成30年1月1日発行(毎月1回1日発行) 編集・発行/独立行政法人 国際協力機構 〒102-8012

       

 ニカラグアは近年着実に経済成

長を遂げているものの、依然とし

て中南米・カリブ地域においてハ

イチに次ぐ貧困国である。198

0年代まで続いた内戦や、同国を

襲うハリケーンや地震などの災害

が、経済の発展に必要不可欠な社

会インフラ整備を遅らせ、同国の

経済発展の障害となってきた。

 日本はニカラグアの内政が安定

し始めた1990年代初頭から、

交通インフラ分野の協力を開始。

当時、JICA事業でニカラグア

全土の道路マスタープラン策定に

関わったセントラルコンサルタン

ト株式会社の古谷浩行さんは、「ニ

カラグアで道路整備の必要がある

ことは明確でしたが、道路そのも

のは米州開発銀行などが主導して

整備を進めていました。そこで、

日本は陸路のボトルネックとなり

がちな橋を担当することにしたの

です」と振り返る。

 現在は治安が良くなったこの国

も、古谷さんが関わり始めた19

93年ごろは内戦終了からまもな

く、国内にまだゲリラがいて、立

ち入ることができない地域もあ

り、調査も大変だったという。そ

んな中、全国の道路の状況に加え、

さまざまな橋の状況を調べ、修理

が不可欠なもの、一から架け替え

る必要があるものなどをピックア

ップし、そのうち二つが無償資金

協力につながった。

 実は、日本による橋梁の整備は、

他のドナー(開発援助組織)にと

って願ってもない話だった。とい

うのも、橋の建設には、ほんの短

い距離でも道路よりはるかに大き

災害に負けない

日本の橋に期待集まる

がったのだ。

 最初の2橋を整備した後、ニカ

ラグア側からはさらに橋梁整備の

支援要請が届いた。理由の一つは、

日本の橋の高い品質だ。1998

年、中米に長雨と大きな水害をも

たらしたハリケーン・ミッチの被

害を受けて、ニカラグアでは多く

の橋が流れてしまったが、日本の

作った橋は流れなかった。日本は

時間と費用が掛かっても丈夫な橋

作りを心掛けており、それが功を

奏したのだ。もともと災害の多い

日本では、橋の建設に関する基準

は災害に耐えることを念頭に作ら

れていた。その基準と、橋を架け

る河川の特性を踏まえた丁寧な施

工を行ったおかげで、日本が作っ

た橋は未曾有の大災害にも耐える

ことができた。そのことが、日本

の橋梁建設技術への高い評価と信

頼につながった。

 古谷さんは、当時のニカラグア

側担当者とのやり取りの中で、思

い出深いエピソードを話してくれ

た。「ニカラグア運輸・インフラ

省(MTI)と将来の橋梁建設に

ついて話し合ったとき、MTI側

が出してきた地図の要所要所に日

の丸の印が付いていました。そし

て、これらの場所には日本の橋を

架けてほしい、と言われたのです。

〝日本の橋〞に対する、強い信頼

を感じました」。日本はハリケー

ン・ミッチで被災した橋の再生な

どのプロジェクトを通じて、20年

以上にわたり、ニカラグア各地で

24の橋梁建設を支援してきた。こ

れらの橋は、陸運の要として地元

経済に貢献している。

 昨年7月、日本とニカラグアは、

新たに4橋の建設を合意した。「リ

オ・ブランコ―シウナ間橋梁・国

道整備事業」と名付られた事業は、

首都マナグアと、カリブ海側の地

域をつなぐ国道21B号線上に位置

する4橋梁を整備することを目指

す。

 ニカラグアに限らず、中米の多

くの国では、都市と農村の格差が

極めて大きい。もともと貧富の格

差があることに加えて、インフラ

が十分整備されておらず、地方の

農産品を都市に販売できないなど

の事情が、農村の成長を阻む壁に

なっているのだ。ニカラグアでは

この傾向が顕著で、国道21B号線

の東側の端に当たる北カリブ海自

治地域の貧困率は、実に7割を超

えている。一方で、この地域はニ

カラグア国内でも農業が盛んな地

域の一つ。交通網が整えば、農産

品を消費地である西部都市圏に販

売する可能性も開け、この地域の

農業や畜産業の発展につながると

期待されている。

 今回の整備区間の東端シウナを

起点とするニカラグア北東部は、

国内でも特に開発から取り残され

た地域で、国道21B号線はとりわ

け貧困率が高い地域を貫く街道に

なる。古谷さんは「今まで足を踏

み入れるにはあまりに不便だった

地域の移動が簡単になることで、

住民にとっては利便性が高まり、

ビジネスチャンスも生まれてくる

はずです」と語る。最終的には国

道21B号線を含む二つの街道が国

土の東西を貫通し、カリブ海側の

港と首都マナグアを結ぶ形になる

予定だ。

 もう一つ、今回の橋の建設に当

たって注目すべきことがある。そ

れは、プロジェクトの予算を「無

償資金協力」ではなく、日本が資

金を融資し、ニカラグア側が40年

かけて返済する「円借款」の制度

を使っていることだ。特に、円借

な費用が掛かるため、より多くの

地域に道を作っていきたい米州開

発銀行にとってはジレンマとなっ

ていたからだ。道路は米州開発銀

行を含む日本以外のドナーが作

り、橋は日本が作るという分担は、

より広い地域に質の高い道路交通

網を効率良く整備することにつな

地域の成長を担う道

東西を結ぶ大動脈に

款の中でも優れた技術やノウハウ

を活用する本邦技術活用条件(S

TEP)が適用されており、日本

の橋梁建設に関する知見をニカラ

グアと共有することも目玉の一つ

となっている。

 今後は道路の延伸はもちろん、

これまでに整備された道の再点検

やマナグア市内の交通渋滞を改善

するためのマスタープランの活用

なども視野に入ってくる。また、

道路以外にも空路や海路の整備も

検討の余地がある。日本は201

2年から2014年にかけて「国

家運輸計画プロジェクト」で現状

調査を行い、長期的視野での運輸

交通セクターの整備を下支えして

きた。特に道路ネットワークと回

路の結節点となる港については、

カリブ海側は未整備で、太平洋側

の唯一のコンテナ港も設備が不足

している。

 経済発展こそ立ち遅れたが、昔

のままの自然や質実剛健な伝統文

化が残るニカラグア。しかし、長

年の仕事を通して、古谷さんは「ニ

カラグアの人たちは全体に温和で

まじめな上、プロジェクトの進行

にも積極的に取り組むなど、事業

のパートナーとして信頼できる人

たちが多く、仕事はとてもしやす

い環境です」と話す。地域格差の

是正とよりいっそうの飛躍に向け

て、ニカラグアに日本が希望の橋

を架ける。

24橋目、パソ・レアル橋の架け替え前(上)と架け替え後(右)。輸送量も安全性も大きく改善したことが一目で分かる

カリブ海と太平洋の両岸に接し、豊かな自然に恵まれたニカラグア。19世紀初頭の独立以来、内戦が繰り返された歴史や、

度重なるハリケーンや地震などの自然災害による被害から、未だ道路交通網の整備が立ち遅れた地域も多い。

特にインフラ整備の遅れは貧困地域が多いカリブ海側に顕著で、経済成長が著しい太平洋側とカリブ海側との格差を埋める鍵となるのは 

日本の協力により建設された「希望の架け橋」だ。

国土を横断する希望の架け橋

ニカラグア各地に設置された日本の橋が、経済の活性化を支え、人々の夢と希望を運ぶ Nicaraguafrom

ニカラグア

「リオ・ブランコ-シウナ間橋梁・国道整備事業」の円借款調印の場で。新たに作られる4つの橋を加えると、日本がニカラグアに架けた橋の数は28となる

2011年に完了した、マナグアーエルラマ間の橋梁の開通式。地元の人たちも集まって開通を喜んだ

特集 中南米最遠の地に根付くニホン

たに

りょう

リオ・ブランコシウナ

マナグア

January 2018 1213  January 2018

Page 9: JW H1-4 2...2018 JANUARY No.52 ISSN 2188-0670 [ムンディ] 平成30年1月1日発行(毎月1回1日発行) 編集・発行/独立行政法人 国際協力機構 〒102-8012

       

 2016年リオデジャネイロオ

リンピックの開催国となり、世界

中から選手や観光客を集めたブラ

ジル。当時、よく取り沙汰された

のが、同国の治安の悪さや犯罪発

生率の高さだ。

 ブラジルでは1985年まで23

年間続いた軍事政権の名残から、

警察は抑圧的で国民との間には大

きな溝があった。その上、犯罪の

多発により住民同士のつながりや

信頼も薄くなっている。このよう

な中、治安改善のためには犯罪予

防が必要だという認識が広がり、

ブラジル政府は2003年の国家

計画で「地域警察」を導入するこ

とを定め、警察・行政・住民が一

体となって犯罪の起こりにくい街

づくりを進めることを目指した。

連邦制の同国では、警察活動は各

州警察が実施しているため、全国

的な地域警察の普及は法務省国家

公共保安局が担っている。

 そんな中、他州に先駆けて地域

警察システムを取り入れたのがサ

ンパウロ州だ。同州は諸外国の警

察制度を分析した末、交番を拠点

とした日本の地域警察活動に注

目。〝おまわりさん〞が迷子や酔っ

払いの保護から、パトロール、道

案内や落し物の取り扱いまで、多

角的な活動を通じて地域住民の暮

犯罪の起こりにくい街を

皆でつくる

らしを守る仕組みに倣おうと考え

たのだ。

 JICAは2005年から同州

で、交番を拠点に地域の平和と安

全を守る〝交番システム〞の定着

を目指す、「地域警察活動プロジ

ェクト」を開始。08年から11年に

は警察庁との連携の下、これを他

州にも普及する取り組みを実施し

た。さらに、15年からこの1月ま

で、同州にミナスジェライス州、

リオグランデドスル州を加えた3

つの州を中核に据えて、地域警察

を7つの州(普及支援対象州)に

普及するプロジェクトが実施され

た。

 このプロジェクトには、日本の

警察官10人以上が専門家として協

力してきた。京都府警から出向し

て昨年10月から現地に滞在してい

る大橋久美さんもその一人。「日

本以外にも地域警察を持つ先進国

がある中で、日本式の地域警察に

注目し、私たちの話に耳を傾けて

くれることがうれしく、また、誇

らしく思います」と大橋さん。

 そんな彼女は、交番はもちろん、

110番を受信して現場の警察官

に指示を出す通信指令センターで

の勤務経験を持ち、警察学校での

新人警察官への地域警察指導も手

掛ける、地域警察のスペシャリス

トだ。プロジェクトでは法務省国

家公共保安局の職員や中核3州の

警察と共に、主に普及支援対象州

で警察活動の指導を行った。「警

察が地域の家庭や事業所などを回

って住民と情報交換をする〝巡回

連絡〞は、人々の目を犯罪予防に

向ける上で有効です。巡回連絡の

仕方や、それを通じて住民の要望

を把握することの重要性などを伝

えました」

 現場での指導に加えて、研修や

セミナーも精力的に実施した。法

務省国家公共保安局と中核3州が

連携して、それぞれの州で開催し

た「地域警察普及コース」には、

計200人以上の警察官が参加。

大橋さんをはじめとする日

本人専門家の指導の下、実

地研修などを通じて住民参

加型の防犯活動や巡回連絡

の仕方を学ぶ機会となっ

た。

 一方、警察官のみならず、

広く人々に日本式の地域警

察の理念を伝えることを目

的に開催した「地域警察国

際セミナー」には、市民と

警察官、州の行政官などを

合わせて3000人以上が

足を運んでいる。さらに、

普及支援対象州では、既に

知識や経験を有する中核3

州の警察官が講師となっ

日本の〝おまわりさん〞の

知恵を学び、広める

て、市民向けのセミナーを開催。

こうした地道な啓発が、犯罪予防

の基盤づくりには欠かせない。

 プロジェクトでは警視庁をはじ

めとする全国10の都道府県警察と

警察庁が受け入れ機関となり、日

本でも計6回の研修を実施した。

ブラジルの警察官や法務省国家公

共保安局の職員たちは、交番を視

察した他、巡回連絡にも同行し、

日本の〝おまわりさん〞から現場

での業務の進め方やその心得を学

んだ。

 研修に参加した警察官は、「特

に住民との接し方や地域との協働

の仕方を学べたことが有益でし

た。地域住民との会合や防犯のた

めの情報発信など、自分たちが知

らなかった警察官の活動や在り方

を考えるきっかけとなりました」

と話す。研修を受けた警察官を、

ブラジル各地で地域警察を普及す

るための講師に任命した州もある

といい、日本での学びはプロジェ

クトの終了後も波及していく見込

みだ。

 「ブラジルでは州ごとの実情に

応じて、地域警察の具体的な取り

組みが始まっています。今後は彼

ら自身でそれを継続するととも

に、一層普及していってほしいと

思います」と語る大橋さん。地域

警察を通じた街ぐるみの治安対策

は、人々の生活に安心と安全、笑

顔をもたらすことだろう。

サンパウロ市内のラニエリ交番を訪れた大橋さん(右から3人目)。「交番」は、日本への敬意を込めて、現地でもそのまま“KOBAN”と呼ばれている

世界的に見ても犯罪発生率が高いといわれるブラジル。犯罪を抑制し、人々が安心して暮らせる町をつくるために導入したのは、日本式の「地域警察」だ。

日本の警察が協力するプロジェクトを追った。

地域の安全を守る頼れる味方

「電気などの生活インフラが整っていないブラジル中部のある町では、バナナの葉を屋根にした交番を見掛けて感動しました」と大橋さん Brazilfrom

ブラジル

ミナスジェライス州では警察車両による移動式交番を視察。交番内では、簡易な届け出受理や書類作成が可能だ

サンパウロ州が独自に作成した地域警察マニュアル。地域警察を初めて導入した州だけあり、円滑な運用に向けた体制づくりにも精力的に取り組んでいる

商店に対する巡回連絡の様子を視察し、アドバイスをする大橋さん

特集 中南米最遠の地に根付くニホン

サンパウロ州

ミナスジェライス州

リオグランデドスル州

ひさ

January 2018 1415  January 2018

Page 10: JW H1-4 2...2018 JANUARY No.52 ISSN 2188-0670 [ムンディ] 平成30年1月1日発行(毎月1回1日発行) 編集・発行/独立行政法人 国際協力機構 〒102-8012

January 2018 1617  January 2018

各地に広がるニッケイ・ネットワーク

19世紀末に始まった日本から中南米への移住の結果、日系社会が各国に根付き、地元社会の発展に貢献している。

多彩な活躍を見せる各国の日系社会と、それを後押しする日本の支援をご紹介。

特集 中南米最遠の地に根付くニホン

多くの地元住民が学ぶ日本語学校

光園の設立者の一人、柴田冨士子さんは90歳を超えてなお、子どもたちを教える。折り紙はコロンビアの子どもたちにも人気だ

929年に日本人の入植が始まったコロンビア。人数が比較的少なく、第二次大戦中は激しい差別を受けるなどした

こともあって、1960年代には日系人子弟でも日本語を話せる人は少なくなっていた。そこで68年、日系1世の柴田稔・冨士子夫妻が、他の日系人の協力も得て日本語学校「光園」を設立。日系人子弟に対する日本語教育を開始した。教師も、教材も、資金もない状態からスタートし、PTAなどの協力を得て着実に発展してきた光園。今ではコロンビア日系人協会附属の日本語学校として、約170人の生徒に日本語を教えている。 とはいえ、現在の生徒の多くは日系人ではない。実は、コロンビアでは近年、漫画やアニメなどのポップカルチャーの影響もあって日本文化への関心が高まり、日本語を学びたいというコロンビア人が増えているのだ。今や、コロンビアの人々に対

する日本語・日本文化の発信拠点となった光園で、92歳の高齢ながら現在も教壇に登る柴田冨士子先生は、「創立時には、50年後にこんなに立派な日本語学校になるとは思いませんでしたし、日本語を学びたいという生徒が年々増えていることを本当にうれしく思います。でも、日系3世、4世の若い世代がコロンビアと日本の架け橋として活躍し始めた今だからこそ、地元の方々だけでなく、日系人の皆さんにも日本語をもっと勉強してほしいですね」と語る。

コロンビア

1

日系女性グループが新たな市場を開拓

サンタ・クルスで開かれた展示会EXPOFOODに参加し、サンフアン移住地の野菜の品質をアピール

後、多くの日本人が入植したボリビア。東部サンタ・クルス県のサンフアン移住地には主に九州からの移住者が

集まり、質の高い農産品を育ててきた。しかし、多くは家庭で消費されるか、移住地内で売買されるにとどまっていた。 そこで、サンフアン移住地の農作物を近隣のサンタ・クルス市で販売するとともに、移住60年の歴史を持つ日系人の文化を紹介し、サンフアン移住地について知ってもらうために、サンフアンの起業家グループが立ち上がった。サンタ・クルス市内で、サンフアン(San Juan)の頭文字から命名した“SJマルシェ”を開催し、主に農業組合が取り扱わない農産品や農産加工品の販売を始めたのだ。 中心となったのは、JICAの「農村婦人リーダー研修」で来日して指導を受けたり、ブラジルの「南米婦人の集い」に参加す

るなどした女性たち。展示会への出展やリサーチを通して市場のニーズをつかみ、商品開発を行っている。 現在はSJマルシェも定期的に開催され、例えば、夏であればなす、きゅうりなど旬の味覚が並ぶ。質の高い野菜は人気を呼び、サンタ・クルス市民はもちろん、レストランからも注文が入るようになってきた。女性や高齢者の多い小規模農家の収入向上や、サンフアン移住地の認知向上はもちろん、ボリビア社会でも健康志向とともに注目されつつある日本食の普及など、夢は尽きない。

ボリビア

日本企業との連携で花の首都を彩る

メルコフロール花卉・鉢物生産者協同組合で、花の直売を行う日系農家の人々。ブエノスアイレスの花文化を支える存在だ

ルゼンチンには19世紀末から20世紀初めにヨーロッパ諸国から多くの人が流入し、花を観賞したり贈ったりする習

慣が普及した。同時期に移り住んだ日系人たちは、花をめでる文化に反して庭の手入れや花の栽培に長けた職人が少ないことに注目し、花の生産を手掛けて成功した。 その後も日系移民の多くが、首都のブエノスアイレス近郊で花卉栽培を手掛けている。政府は1964年にブエノスアイレスを “花の首都”と名付け、近郊で毎年10月に花祭りを開催。多くの見物客が集まるこの花祭りの運営も、日系花卉農家が中心的な役割を果たしており、展示パビリオンの設計も日系造園技師が手掛けている。 日系の花卉農家を支援するため、JICAは1977年、ブエノスアイレス市近郊に園芸総合試験場を設置。1995年に国立農牧技術院(INTA)の敷地内に移転した後には、新たにアルゼンチンの花卉産業の育成支援を目的とした技術協力を開始した。

アルゼンチン

日系人ビジネスマンと日本企業の強力タッグ

日系社会次世代育成事業(中学生招へいプログラム)は30周年を迎え、参加者が一堂に会するイベントが行われた

本から南米への移住の先駆けは、1899年に移民船佐倉丸に乗って横浜港を発ったペルーへの第一回移民、約

790人だった。ペルー日系人協会(APJ)は2017年で創立100周年を迎え、現在は約10万人ともいわれる日系人や日本人移住者がペルー社会の各所で活躍している。例えば防災分野では、1961~62年に日本の建築研究所で地震工学を学び、ペルーの大学に地震工学コースを導入・普及した日系2世のフリオ・クロイワ教授が地震津波防災の研究と啓発活動などへの貢献を評価され、国連笹川防災賞や濱口梧陵国際賞を受賞した。政財界でもペルーの発展に向けて多くの日系人が活躍している。 日系社会が4世、5世と代替わりする中、重点が置かれているのは次世代の日系人の育成やビジネス分野で活躍している日系人企業経営者などへの支援だ。その内容は、中高大学生向けの

次世代育成研修から、製造業向けの“5S活動”普及や起業家支援の日系研修まで多岐にわたる。これらに加えて、日系人が経営する現地企業と日本の中小企業とのビジネス・パートナーシップを強化し、企業同士が連携できるアイデアを見つけるための調査ミッションも複数派遣されている。 日系社会が長年にわたって築いた日本への信頼を地盤に、日系人企業と進出日本企業の連携やネットワークがペルー経済の原動力となるのではと期待されている。

ペルー

医療を届け、自閉症児を育てる

薬に頼らず、自閉症の子どもたちが自立のスキルを身に付けることを目指すPIPAは、ブラジルでは稀有な施設だ

ラジルには「日系病院」と呼ばれる医療機関がある。もともとは、移住した日系社会への医療サービス提供が目的

だったが、近年では日本企業の駐在員や地域の人たちなど、日系人以外も信頼を寄せる地域の中核病院となっている。 日本は日系病院に対し、以前から機材の供与や日系社会ボランティアの派遣、近年では民間連携による最新の画像診断技術の活用支援などを行ってきたが、自閉症児の療育・就労準備プロジェクトも高い評価を得ている。ブラジル全土では約200万人の自閉症児がいるとみられているが、療育・教育のための環境や技術が整っておらず、多くの場合は薬物療法で“沈静”されているのが現状だ。日本人移民の有志によって設立され、高齢者施設や医療センターなどをいくつも運営しているサンパウロ日伯援護協会は、サンパウロで自閉症児療育施設「PIPA」を運営。

ブラジル

2004年にはINTAに移管され、INTA花卉研究所となった。 2005年からは種苗会社の「株式会社サカタのタネ」との共同研究で国内の野生植物を基にした園芸品種開発を開始し、メカルドニアの新品種開発に成功。その際、素材となった野生種が生えていた地域にも利益を分配する仕組みを作り、生物多様性保護の視点からも注目されている。ライムンド・ラビニョーレ国立種子研究所総裁は、「生物多様性条約にのっとり、原産地にも利益を分配する事例として、園芸植物では稀有な例。資源提供国となるわが国にとっては重要な取り組みです」と話す。INTA花卉研究所は今や同国随一の花卉園芸部門の研究拠点として、アルゼンチンの花文化を牽引している。

日常生活療法(TVD)を実践して自閉症児が身の回りのことを自分でこなし、地域の中で自立して生活できるようなスキルの習得を目指している。 PIPAに対しては、JICAが日系社会シニア・ボランティアや草の根技術協力を通じて支援しているのに加え、三井物産などの企業や団体も独自に協力を行っている。また、地元の日系社会もバザーなどで資金調達を支援しており、その活動状況は発表会などを通じて地域に届けられている。

けん

日本人移民の歴史を港町ヨコハマで

50万人目となった神奈川学園中学校の女子生徒たちと朝熊由美子館長(右端)

つて多くの移民を送り出した横浜港を臨む観光名所・赤レンガ倉庫近く、JICA横浜国際センターの2階に、海外

移住資料館がある。今年で開設17年目を迎えるが、昨年8月には来訪者が50万人を超え、観光情報サイト「トリップアドバイザー」でもエクセレンス認証を獲得した、隠れた人気スポットだ。 資料館にはハワイや北米、中南米などに渡った日本の移民たちの歴史を物語る年表や移住先での生活を再現したセット、日系1世・2世のインタビュー映像などの貴重な記録を集めた常設展示に加え、「ハワイ日系人の歩み」や「メヒコの心に生きた移民たち」など、一つの国やテーマを特集した企画展示も年間3、4回開催されている。日本人の海外移住をテーマとする国内外の博物館などとも連携が進む。 同館3階のポートテラスカフェは、世界各地の料理を日替わり

で提供するカフェテラス式レストラン。移民たちが今も住む中南米の料理はもちろん、資料館での展示に合わせた特別メニューも提供されていて、港を眺めながら異国料理を楽しむことができる。いつもとは違うヨコハマを味わいに、ちょっと寄り道するのもお勧めだ。2月10日からは、海外移住者を送り出した県に焦点を当てる「移住者送出県シリーズ」として、高知県出身の移民に関する特別展示を予定している。常設展示・特別展示ともに入場無料。 詳しくはウェブサイト(http://www.jomm.jp/index.html)で。

日本でも!

Page 11: JW H1-4 2...2018 JANUARY No.52 ISSN 2188-0670 [ムンディ] 平成30年1月1日発行(毎月1回1日発行) 編集・発行/独立行政法人 国際協力機構 〒102-8012

ワ〞の存在を知ったきっかけは、伊波さんの友人が仕事

で実際にこのオキナワ移住地を訪れていたことだ。オ

キナワ移住地に住んでみたい―

そう思った伊波さん

は友人を通じて仕事を紹介してもらい、2010年か

ら2年間、現地の「オキナワ第一日ボ学校」で日本語

教師として働くことになった。「2年間働く中で多くの

ことを学び、自分の価値観や人生観にさまざまな変化

がありました。帰国後は沖縄県の教員採用試験に合格

し、小学校教員として働いていましたが、頭の片隅に

は〝再びオキナワ移住地を訪れて何かを還元したい〞と

いう思いがずっとありました」と伊波さんは話す。

 そんな中、伊波さんにとって絶好の機会が訪れる。

2014年、沖縄県がJICAと結んだ自治体連携ボ

ランティア派遣に向けた覚書によって、県内の教員が

青年海外協力隊としてオキナワ移住地に派遣されるこ

とになったのだ。「就職3年目以上という応募資格を満

たした年にすぐ受験し、今回の派遣が決まりました。

実はその前の年に、まだ2年目なのに駄目元で応募し

たほど、オキナワ移住地でもう一度教壇に立つことは

私の念願でした」

 伊波さんは現在、初等教育6年・中等教育3年のヌ

エバ・エスペランサ校で週に4日活動している他、か

つての職場だった思い出のオキナワ第一日ボ学校でも

週に1日活動している。「近年、オキナワ移住地では子

どもたちの日本語力と学習意欲の低下、さらには家庭

や地域の日本語教育への関心の低さが課題となってい

ます」と伊波さん。そこで、主に取り組んでいるのが、

子どもたちへの日本語の指導だ。

 ヌエバ・エスペランサ校では、6〜9年生の担任と

して、週に7時間の授業を担当。日本語の指導はもち

ろん、子どもたちへの移住学習やキャリア教育、日系

日本語や移住学習を通じて

自分たちのオキナワに関心を

人としてのアイデンティティーの形成も授業の柱に据

えているという。「これまで、移住地の歴史を学び、当

時の移住者の気持ちを考える学習を行ってきました。

そのまとめとして作成したのが、仕事、学校、行事な

どのテーマごとにクイズに答えながらゴールを目指す

〝移住すごろく〞です。クイズは、子どもたちが家族や

先生にインタビューしながら情報収集を行って作りま

した。例えば仕事がテーマなら、移住地で栽培されて

いる農作物や収穫時期に関する情報を集めました」

 一方、現地の教員に対しては、月に2回の校内研修

を実施。伊波さんも講師となり、授業の進め方や子ど

もへの対応の仕方など、学級経営や授業実践につなが

る方法やノウハウを伝えている。また、教員同士でお

互いの授業を見学して意見交換を行う「授業研究」も

行っている。

 さらに、第一移住地の子どもが通うオキナワ第一日

ボ学校と、第二、第三移住地の子どもが通うヌエバ・

エスペランサ校の交流を深めるための合同学習にも取

り組んでいる。「両校から合わせて30人ほどの児童が集

まり、移住の歴史や将来の働き方などについて学んで

います。初めは緊張していた子どもたちも次第に打ち

解け、少しずつ仲良くなっています」と伊波さんはう

れしそうに語る。

 日本のやり方を押し付けず、お互いの考えを尊重す

ること、そして、オキナワ移住地でしかできない活動

を行うことを心掛けている伊波さん。運動会や豊年祭

といった地域の行事に積極的に参加している他、沖縄

の伝統文化の継承にも努めている。「派遣期間はもうす

ぐ終わりますが、私が帰国しても活動が途切れること

なく続いていくためにはどうすればいいかを考えてい

る段階です。これからも、大好きなオキナワ移住地と

沖縄県のどちらにも貢献できるような活動を続けたい

と思います」

 多くの出会いを糧に、日本の〝沖縄〞とボリビアの〝オ

キナワ〞をつなぐ伊波さんの挑戦が続いている。

 ボリビア第2の都市、サンタ・クルスから車で約2

時間。日本語で「めんそーれ

オキナワへ」と書かれた

看板をくぐった先に、青年海外協力隊員の伊波さと子

さんが活動する町がある。そこは、1954年に当時

の琉球政府の計画移民によって築かれた「オキナワ移

住地」。北から南に第1、第2、第3移住地と分かれて

おり、約900人の日系人と1万人を超えるボリビア

人が暮らしている。町を歩けば、日本食を売っている

商店や、日本語でも対応している診療所などがあり、

至る所で琉球の風を感じることができる。

 大学卒業後、地元の沖縄県で臨時教員として働いて

いた伊波さん。地球の反対側にあるもう一つの〝オキナ

沖縄県うるま市出身。大学卒業後、沖縄県内の小学校で臨時教員として勤務。2010年から2年間、ボリビアにあるオキナワ移住地の学校で日本語教師を務める。12年に帰国後、小学校教諭に本採用となり、16年7月から青年海外協力隊(小学校教育)としてボリビアで活動中。

PROFILEJICA Volunteer

Story

IHASatoko

「〝沖縄〞と〝オキナワ〞の架け橋になる」

南米のボリビアには、1950年代に沖縄県からの移住者たちが築いた町がある。

地球の反対側にあるもう一つの〝オキナワ〞。ここで小学校教員として活動する青年海外協力隊員の伊波さと子さんは、

子どもたちに日本語や日系社会の歴史について教えている。

January 2018 1819  January 2018

伊波 さと子

�小学校教育�

a.道徳の授業の一幕。つぼを“自分自身”、つぼに入った水を“努力”の積み重ねに例え、諦めないことの大切さを伝えたb.子どもたちが作成した移住すごろく。出題されるクイズも子どもたち自身で調べて考えたc.伊波さんの授業を受ける子どもたち。表現豊かな伊波さんの話にいつも引き込まれているd.オキナワ移住地の入り口に建てられている看板

d

c

多くのことを学んだ2年間

今度は何かを還元したい

b

ボリビアにあるオキナワ第一日ボ学校の教壇に立つ伊波さん。「沖縄の古き良き時代を感じるこの町で、助け合うことの大切さを学びました」

a

ボリビア

サンタ・クルス

写真:柴田大輔

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めた高度経済成長期以降は、海の生き

物を〝育て、増やす〞機能に注目が集

まるようになりました」。そう説明する

のは、海洋建設代表取締役社長の片山

真基さんだ。

 海洋建設は貝殻を活用した人工魚礁

を初めて開発したパイオニア。主力製

品の「シェルナース」は、廃棄される

貝殻を網目のあるパイプに詰めて作っ

た人工魚礁で、日本で年間50万トン発

生するといわれる、カキやホタテなど

の貝殻を再利用し、廃棄物の削減と生

物多様性の向上を実現している。

 シェルナースは主に自治体の公共事

業で活用されている。約20年前に販売

を始めたころは、漁業関係者から「う

ちの海にごみを沈めるのか」と言われ

ることもあったというが、現地に足を

運び、社員自ら海に潜って海中の環境

を調査したり、課題をヒアリングした

りしながら、その海に適したシェルナ

ースを提案する姿勢と製品の効果が信

頼を呼び、国内で実績を重ねていった。

そのシェルナースが、昨年、ついに太

平洋を越え、カリフォルニア湾へと渡

った。

 メキシコの南バハカリフォルニア州

は、貝類の養殖業が盛んな反面、年間

1440トンにも上る貝殻の廃棄処理

が深刻な問題となっている。加えて、

同州はメキシコの全漁獲量の4割以上

を占める大漁業地だが、近年、海洋資

源の減少が著しい。「事前調査によると、

州政府は当初、貝殻を処理するための

焼却施設の整備を支援してほしいと考

えていたようです。しかし、私たちは

シェルナースを使えば、二つの問題を

改善できると考え、将来的なプロジェ

クト実施を目指して、JICAの中小企

業海外展開支援事業に応募したのです」

と片山さんは振り返る。

 採択後、片山さんが現地に初めて足

を運んだのは昨年7月。まずは、州政

府の行政官に〝魚礁とは何か〞を説明

することから交渉が始まった。現地の

漁業組合の漁師たちからは、特にタイ

類やハタ類、ロブスターの漁獲量を増

やしたいという声も上がった。「州が

もともと問題意識を持っている貝殻の

処分が進むよう、できるだけ多くの貝

を使いつつ、同時に資源の増加も目指

していきたいと思います」と片山さん。

 シェルナースは産卵用や稚魚の保護

育成用など、目的に合わせて、大きさ

や形状の違うものを使うのが特徴だ。

また、ロブスターは魚より狭い所を好

廃棄物利用で

海辺の町を潤す

むといった特性に合わせて、パイプに

入れる貝殻の量も調整する。試験段階

の今回は、地元の漁師などと共に、ホ

タテの貝殻を用いて60センチ四方のシ

ェルナースを4基作り、同州の2カ所

の海、水深5〜7メートルに2基ずつ

沈めた。

 それから3カ月後の昨年10月。それ

ぞれ1基のシェルナースを引き上げ、

生物の生息具合を調査した。地元の大

学の協力の下、取り出した貝殻を調べ

ると、エビカニ類や小魚などが見つか

り、シェルナースが生き物たちのすみ

かになりつつあることが実証された。

この1月には残りの2基を引き上げて、

生き物がどれくらい増えているか検証

するという。

 片山さんは、「シェルナースは沿岸地

域で実施することに意義があるんです」

と強調する。「沿岸地域の人々の生活は、

水産業と密接に結び付いています。シェ

ルナースとして貝殻を再利用しながら

資源を育て、それによって沿岸に暮ら

す人々の生活を潤わせ、ひいては地域

全体の活性化につなげたいと思ってい

ます」

 日本人は昔から、自然環境に適度に

人の手を加えることで自然の機能や生

産性を高め、豊かな環境をつくる〝里山・

里海〞という考え方を大事にしてきた。

国内で既に普及しているシェルナース

の知恵が各国に広がれば、世界の海で

人と自然が共存していくための〝里海

づくり〞が展開されることだろう。

引き上げたシェルナースについていた生物を地元の大学と一緒に調査した。短期間の調査だが、絶滅危惧種を含め約100種類、約2,000個体の生物を確認した

シェルナースを南バハカリフォルニア州沿岸の海底に設置する片山さん。波で流れたり、壊れたりしないよう、シェルナースの重量は自治体が持つ海洋データを基に計算して設計する

今回用いたシェルナース。シェルナースは、元漁業者である片山さんの父親が、養殖場のカキ筏の周りに魚がすみついていることや、筏直下の海水が周囲より透明度が高いことに気付いたのがきっかけで開発につながったのだという

海洋建設の大型シェルナース。今回、メキシコでは小型のものを利用したが、同社の一番大きい製品では縦横約8メートル、高さ約10メートルにもなる

南バハカリフォルニア州とのキックオフミーティング。シェルナースの説明と課題解決の方向性を確認した

 岡山県倉敷市に、〝海大好き集団〞を

名乗る中小企業がある。1983年設

立の海洋建設株式会社だ。従業員25人

の同社は、自社に潜水士や港湾海洋調

査士をはじめとするあらゆる技術者を

抱え、全国津々浦々の自治体から水圏

環境に関する調査などを受託して、豊

かな海づくりに貢献している。

 構造物を海に沈めて、微生物やさま

ざまな小型動物の生育の場を供給する

「人工魚礁」は、日本では〝豊かな海づ

くり〞の一般的な手法だ。「人工魚礁の

本来の目的は、魚を集めて〝捕りやすく〞

することでしたが、水産資源が減り始

〝海のものは海に戻す〞が

海を守るための鉄則

シェルナースの引き上げの様子。貝殻についた生物が流れ落ちないよう、袋に入れて引き上げる

貝殻の再利用で豊かな里海づくりを魚のすみかや餌場として、豊かな海を支えている“魚礁”。

廃棄される貝殻を使った人工魚礁のパイオニアである岡山県の企業が、メキシコの海の課題解決に乗り出した。

海洋建設株式会社国 際 協 力 の 担 い 手 た ち

いかだ

January 2018 2021  January 2018

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 イチゴ狩り、ブドウ狩り、リンゴ狩り、

ミカン狩り…。果樹園で旬の果物を収穫

してその場で味わう習慣は昔からあった

が、近年は特にこうした〝味覚狩り〞の

体験を積極的に提供する農園が増えてき

た。キーワードは〝六次産業化〞だ。農

業は一次産業。それに、加工・製造とい

う二次産業、サービス業という三次産業

の要素を掛け合わせることで農業そのも

のの付加価値を高め、農家の収入向上を

目指すのが六次産業化の基本的な考え

方。ただ作って売るだけでなく、どう売

るかの創意工夫が問われる。

 そんな中、年間16万人の訪問者を集め

る農園が、広島県三次市にある。平田観

光農園の平田克明社長は、「父の農園を

引き継いだとき、地域ににぎわいをもた

らし、農家としての収入向上を実現する

ために必要なことを考えました。そして、

農業と縁のない人にも農業に触れ合って

もらえる〝観光農園〞を思い立ったので

す」と話す。そのアイデアは、日本にお

ける観光農園の先駆けとして、後進に大

きな影響を与えた。

 農園を引き継ぐ前、平田さんは広島県

農業試験場で果樹の研究を手掛けてい

た。その経験を生かして、一年中、何ら

かの〝味覚狩り〞を楽しめるように、さ

まざまな種類の果物を栽培。今では15ヘ

クタールの敷地で16種類、全180品種

の果物が、訪れる観光客を楽しませてい

る。

 平田さんの取り組みは日本国内はもち

を与える〝六次産業化〞の目に見えるサ

ンプルとなっている。

 岸本さんは、「この農園での研修で学

んだように、消費者との交流を一つの〝商

品〞として成立させるのは、ボリビアで

も実現できそうな面白い取り組みだと思

いました」と語る。「〝農業を体験する〞

という形にならない価値を来園者に提供

するというアイデアには、ここに来るま

で気付きもしませんでした」

 一方で、平田社長と岸本さんがそれぞ

れ研修を通して気になったのが、経営者

としての視点だという。「一緒に働いた

日本人の人たちを見ていて、とにかく勤

勉なことには感心しましたが、同時に経

営に対する意識が薄いのではないか、と

思うことがありました」と岸本さんが語

る一方で、平田社長は「中南米から来る

研修員の皆さんは農業技術を学ぶことに

関しては強い学習意欲を持っています

し、農村振興・地域活性化についても熱

心に聴いてくれます。何より、〝日本人

は経営に対する情熱が足りない〞と言わ

れたことに驚きました。彼らは、農園経

営の手法についても、とにかくハングリ

ーに学ぼうとするのです」とかみ締める。

 〝経営者としての農家〞という強い思

いと意欲。平田社長は、中南米の研修員

から、それを改めて学んだという。研修

員を受け入れるといっても、技術やノウ

ハウなどを一方的に伝えるだけで終わる

のではない。「国際協力を通じて、違う

環境で生きてきた人たちが互いに学び合

い、理解し合って、共に成長するのが理

想の姿だと考えています。私たちの農園

では日本の研修生も海外からの研修員た

ちと一緒に学び、交流を深めていますが、

その経験が刺激となって、海外での学び

を目指す人が一人でも多く出てきてくれ

ればと思います」

 一方、岸本さんも、「日本の若い人た

ちにも、ぜひ国を出て、海外で研修を受

けてみてほしいと思います。技術だけで

はなく、さまざまなことを学べるはずで

す」と強調する。

 帰国後はボリビアで観光農業を導入

し、付加価値の高い農業を実践していき

たいと語る岸本さん。農業は日系ボリビ

ア人をはじめ、中南米の日系移民の多く

が従事し、成功した分野でもある。日本

と中南米、互いの文化が再び交わること

で、新たな可能性が生まれそうだ。

ナシやブドウの一大産地

観光農園が注目集める

広島県北部に位置する、人口約5万4,000人の自治体。中国山地と吉備高原に囲まれた立地から果樹栽培が盛んで、ワイナリーも存在する。ジミー・カーター米元大統領との縁が深く、同氏との縁で栽培が始まった品種“カーター・ピーナッツ”などの名物もある。

広島県三次市

農園の秋を彩るリンゴの収穫にいそしむ研修員の岸本さん。同観光農園では、一年中何かしらの果物が実り、来園者を迎える

広島県では、温暖で雨の少ない瀬戸内地方がかんきつ類の栽培に適しているのに対し、そこから内陸に入った丘陵地帯は落葉果樹の一大産地となっている。

土地の強みと、農家としての収入向上を実現する“六次産業化”の現場で、中南米からの研修員が成功のヒントを探している。

地域と

世界の

きずな

58

ろん、世界各地からも注目を集めている。

これまでに中国やインドネシアなどのア

ジア諸国、フランス、ドイツといったヨ

ーロッパなど、海外から100人近くの

研修生が平田観光農園を訪れ、その経営

手法を学んだ。国内の研修生や学校の体

験学習なども含めると、年間約3000

人が同農園で農業を学んでいる。

 この農園で、2014年に受け入れを

始めたのが、中南米の日系若手農家だ。

これまでに、ブラジルとボリビアから研

修員を受け入れ、3〜6カ月間、農園経

営のノウハウを学んでもらっている。

 今年、平田観光農園で研修に参加した

のは、日系ボリビア人の岸本夏子さんだ。

ボリビアでも農業を手掛けており、日本

の果樹栽培について学ぶためにJICA

の日系研修制度で来日した。

 「私たちは、果樹の栽培技術はもちろ

ん、第六次産業のキモでもある〝観光農

業〞のノウハウや、自分たちの農園だけ

にとどまらない農村地域全体の振興策に

ついても、研修の中で伝えるようにして

います」と平田社長は話す。実際、平田

観光農園の訪問客は、味覚狩りだけでな

く農園で取れた果物などを利用した料理

を味わい、草木染やスイーツ作りなどを

体験することができる。また、おみやげ

も園内で採れた果物の他に、それらを加

工したジャムやドライフルーツ、スイー

ツなどをそろえており、作物に付加価値

採れたてのリンゴを使ったアップルパイ作り。こうした体験講座が、来園者に大人気だ

三次市は広島県でも特に水に恵まれ、果樹栽培や稲作が盛ん。その強みを生かすために作られた観光農園は、今や名所にもなっている

日本はもちろん、世界中から研修員が集まる。民家にホームステイしながら、観光農園のノウハウを学ぶのだ

農業に付加価 値を、農村に活力を

互いの違いから学び合う

〝海外〞で研修を受ける意義

三 次 市[ 広島県 ]

み よし朝礼前に集まったスタッフたちと。広い農園にレストラン、体験施設など、かなりの大所帯だ

三次市

よし

January 2018 2223  January 2018

Page 14: JW H1-4 2...2018 JANUARY No.52 ISSN 2188-0670 [ムンディ] 平成30年1月1日発行(毎月1回1日発行) 編集・発行/独立行政法人 国際協力機構 〒102-8012

故郷の町で貧困や格差の問題を目

の当たりにし、国際協力への道を志

すようになった高橋スリマラさん。

ブラジルで、国際協力事業や公共政

策に携わってきたこれまでの仕事か

ら一転。日本でJICA職員とし

て働きながら、さらなるステップアッ

プを図っている。

 

私はブラジル・サンパウロ州の人口40万人

ほどの町で、日系2世の父とブラジル人の母

との間に生まれました。そこには日系人が多

く住んでおり、近年では医者や弁護士、政治

家などさまざまな分野で活躍する人材を輩出

しています。

 

小学2年生のときに父の仕事の関係で大阪

に引っ越しました。中学時代は2年間ブラジ

ルに帰国しましたが、日本での生活を経験し

たことで、それまで意識したことがなかった

故郷の町に存在する格差を強く感じたことを

覚えています。物乞いをする人がいたり、私

と同世代の子どもが学校に行かずに仕事をし

ていたり、中でも一番ショックだったのが、

近所の家を訪ねて回り、食べ物を少しずつ分

けてもらいながら食いつないでいる人が何人

もいたことです。そのとき、ブラジルの貧困

問題を解決したいという漠然とした思いが芽

生えました。

 

高校卒業後はブラジルに戻り、大学で国際

関係学を学びました。JICAブラジル事務

所でのインターンシップにも参加し、日本語

を生かして事業やセミナーの準備を手伝いま

した。専門家による指導や日本での研修を通

じて、ブラジルの人たちが刺激を受けている

姿を目の当たりにし、一国だけでは課題解決

が難しいことでも、国際協力を通じてなら実

現への道を探れることを実感しました。そこ

で、当時まだJICAと統合する前の国際協

力銀行(JBIC)リオデジャネイロ駐在事

務所に就職したのです。

 

印象に残っているのは、ブラジル東北部の

貧困地帯に上水道施設を整備する円借款事業

に携わったことです。調査のために初めて現

地を訪れたのですが、ほとんどの家庭に水道

が行き渡っておらず、雨水や川の水を飲んで

いることに驚きました。その後、浄水場や送

水管などが整備され、地元の人たちが「まさ

か水道水を飲める日が来るなんて信じられな

い」と喜んでいると聞いたとき、非常にやり

がいのある仕事だと感じました。

 

JBICでの仕事を通じて公共政策に関心

を持つようになった私は、ブラジル側の職員

として事業を推進したいと思い、2009年

から8年間、サンパウロ州の公務員として働

きました。水や環境分野の事業をはじめ、海

外融資の資金調達の担当など幅広い業務に携

わりましたが、昨年7月にJICA中南米部

に転職した背景には、ここ数年のブラジルの

政治混乱によって、事業が思い通りに進まず

悩んでいたことがあります。計画の立て方や

事業の進め方などを改善できるように、より

ステップアップしたい――社会人10年目とい

う節目を迎え、もう一度海外で挑戦してみた

いという思いが沸き上がり、友人を通じて知

ったJICA中南米部の採用枠に応募したの

です。

 

現在は、アルゼンチンの担当とブラジルの

January 2018 24

祖国ブラジルの発展を支えたい

2017年にJICAが実施したエネルギー分野の研修に同行した高橋さん。チリのエネルギー関係者が参加し、千葉県の工場を視察した

From Headquarters

担当補佐を務め、両国の政治・経済の情勢や、

重点課題、案件の状況などをしっかりと把握

し、JICA内外の関係者に説明できるよう

に準備をしています。特にアルゼンチンにつ

いてはまだ知識が浅いため、できるだけ現地

のニュースを確認するように努めています。

 

日本での生活は15年ぶりなので、日本語で

は苦労する面もあります。特にメールや資料

で読み手に伝わりやすい文面を作成するのは

簡単ではありませんが、いつも同僚や先輩た

ちが親切にサポートしてくれます。その分、

ブラジル大使館とのやり取りなど、中南米の

人たちの考え方や仕事のやり方を熟知してい

る私だからこそできる部分で貢献したいと考

えています。

 

日本で多くのことを学び、いずれはブラジ

ルの発展のために貢献したいという気持ちは

今も変わりません。初心を忘れず、これから

も目標に向かってまい進し続けます。

ブラジル・サンパウロ州生まれ。小学校から高校までの約9年間を日本で過ごす。2007年に、国際協力銀行(JBIC)リオデジャネイロ駐在事務所に現地職員として就職。その後、JICAブラジル事務所現地職員、サンパウロ州政府公務員などを経て、2017年7月より現職。

JICA中南米部南米課

高橋 スリマラTAKAHASHI Sulimara

サンパウロ州政府公務員時代の高橋さん(左から2人目)。州の国際室が主催するイベントでモデレーターを務めた

故郷で持った問題意識が原点に

15年ぶりの日本で新たな挑戦

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JANUARY 2018

 

北岡伸一JICA理事長は、昨年11月

3日から7日にかけてモロッコとフラン

スを訪問。仏国際関係研究所(IFRI)

主催の「第10回世界政策会議(W

orld Policy C

onference

:WPC)」に登壇す

るとともに、両国で関係要人と面談しま

した。

 

WPCは、世界的な政策課題・時事問

題について各国の要人・専門家らが議論

する国際的なフォーラムです。10回目と

なる今回は、モロッコのマラケシュで開

催されました。

 「アフリカにおける投資」と題したセ

ッションに参加した北岡理事長は、ケニ

アで開催した第6回アフリカ開発会議

(TICAD

VI)でのアフリカの強いオ

ーナーシップに言及しつつ、食糧供給確

保による物価と賃金の安定、人的資本の

育成、民間投資促進を取り上げ、これら

の課題に対する日本のアフリカでの取り

組みを紹介しました。また、各国の要人

やモロッコで活躍するJICAボランテ

ィア、アフリカの若者のための産業人材

育成イニシアティブ(ABEイニシアテ

ィブ)で日本に留学したモロッコの元留

北岡理事長がモロッコ、フランスを訪問 01

03タンザニア初の女子陸上競技会を開催

02 アフガニスタン-タジキスタン国境地域の安定化に貢献 

JICAは昨年11月27日、カブール

にて、国連開発計画(UNDP)との

間で、「第二次タジキスタン│アフガ

ニスタン国境地域生活改善計画(UN

DP連携)」に対し、10億3300万

円を限度とする無償資金協力の贈与契

約を締結しました。本事業は、アフガ

ニスタン│タジキスタン国境に接する

両国対象州の12県で、農村地域の生活

環境の改善を目指すものです。

 

本事業の対象地域は国境沿いという

立地から、交易地などとして社会発展・

経済成長の可能性があります。JIC

Aは2014年から対象地域住民の収

入向上や就労機会の拡大を支援し、経

済活動の活性化やハンドクラフトなど

の小規模起業家の増加につながりまし

た。本事業ではその経験を踏まえ、両

国国境地域において未だ不十分な基礎

インフラの整備を図るとともに、地域

経済の活性化やビジネス人材の育成を

支援します。両国の国境地域に居住す

る人々の相互交流に加えて、日本に端

を発する一村一品運動の支援を通して

日本の知見が活用されます。

 

JICAは昨年11月25と26日の2日

間、タンザニア情報・文化・芸術・スポ

ーツ省と共催で、同国で初めての女子

選手向け陸上競技会「LA

DIES FIR

ST

を最大都市ダルエスサラームの国立競

技場で開催しました。競技会では10

0メートル走や1万メートル走、やり

投げ、走り幅跳びなど11種目が行われ、

各州から選抜された計105人が参加。

100メートル走で優勝したウィニフ

リーダ・マケンジさん(16歳)は「環

境が整わない中でも、小学生のときか

ら練習してきたことが結果につながり

ました。今後はオリンピックを目指し

たいと思います」と力強く語りました。

 

タンザニアは、男女格差を示す「ジ

ェンダー不平等指数」で世界188カ

国中159位(2015年)となって

おり、その是正が課題です。陸上競技

会を通じて男女に同等の機会が与えら

れる社会の実現に向け、JICAはオ

リンピック男子マラソン入賞者で

JICAタンザニア事務所の広報大使

を務めるジュマ・イカンガー氏ととも

に、この競技会を企画しました。

25  January 2018

調印式に出席した、UNDPアフガニスタン事務所のジョスリン・メーソン所長代理と、JICAの渡邉健アフガニスタン事務所長

学生たちと面談しました。

 

その後に訪問したフランスでは、北岡

理事長は河野正道経済開発協力機構

(OECD)事務次長やシャルロット・

ゴルニツカ開発援助委員会(DAC)議

長と面談し、国際関係が変容する中での

OECDとDACの今後の方向性や役割

について意見交換を行いました。また、

フランス開発庁のレミー・リュウ総裁や

グレゴリー・クレモント海外経済協力振

興会社(P

roparco

)社長とも面談し、今

後のさらなる連携強化を確認するととも

に、サスティナビリティ・気候変動分野

での協力や、開発における民間セクター

との連携の重要性について意見交換を行

いました。

 

さらに、IFRIで開催された討論会

に出席した北岡理事長は「日本の開発途

上国へのアプローチ〜積極的平和主義に

ついて」をテーマに、日本とJICAの

開発援助の姿勢について紹介。参加した

フランスの有識者からも開発を取り巻く

国際関係の変容やアフリカにおける日仏

の効果的な連携について意見が寄せら

れ、活発な討論が行われました。

WPCでアフリカにおけるJICAの取り組みについて語る北岡理事長(中央)

OECDのゴルニツカDAC議長(右)とも会談した

1万メートル走の競技で、懸命に走る先頭集団の選手たち

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子どもたちの成長のために

017年11月、ペルーの首都リマ

で「ペルー日系人協会設立10

0周年記念

JICA野球教室」が開催

された。会場のラ・ウニオン総合運動

場は、日系人によって作られた憩いの

場。野球場だけでなく、サッカー場、

テニスコート、ゲートボール場、プール、

体育館などのさまざまなスポーツ施設

の他、幼稚園や小中学校、障害者福祉

施設も併設されている。

 ペルーに野球を伝えたのは日本人だ。

野球は、長い苦難の歴史を経験した日

系移民が自らのアイデンティティーの

拠り所として親しんできたスポーツで、

今でも特別な競技として認識されてい

る。また、少年野球は、規律や道徳と

いった日本的な精神を学ぶ教育の機会

としても注目されているという。JIC

Aは野球指導の青年海外協力隊員を1

981年にペルーに初めて派遣して以

来、技術強化や野球を通じた青少年の

健全な育成支援に継続的に取り組んで

いる。治安上の理由で隊員の派遣が中

断されていた時期にも、大森雅人さん

をはじめとする元隊員らが指導を続け

てきた。

 野球教室には126人の子どもたち

が集まり、原辰徳さんをはじめ、元プ

ロ野球選手の宮本和知さん、西山秀二

さん、駒田徳広さん、久保文雄さんが

特別講師を務めた。原さんは子どもた

ちにまずこう呼び掛けた。「今日は一つ

だけ約束してください。私が〝分かり

ましたか?〞と聞いたら、〝はい!〞と

返事をしてください」。すると早速、「は

い!」と答える元気な声が響き渡った。

「あいさつの大切さを伝えることで、野

球は日本人が大事にしている規律や価

値観を共有できるスポーツだと知って

もらいたかったのです」と原さんは話

す。

 その後、ボールの投げ方、ゴロの捕

り方、走塁、バッティングなどの指導

が行われ、その一つ一つに対して、子

どもたちは一生懸命に応えていた。国

や言葉の壁なんて関係なく、野球を通

じてペルーと日本がつながった――。

好きなことにのめり込む子どもたちの

姿を見て、原さんはそう感じたという。

 野球教室の最後、講師陣からはこう

伝えられた。「〝ありがとう〞は日本の

素晴らしい言葉です。そんな〝ありが

とう〞の反対は〝当たり前〞です。野

球ができることを当たり前だと思わず、

ご両親に感謝して、喜びを感じながら

毎日コツコツ練習してください」。さら

に、原さんは、「巨人軍に入団できる可

能性を秘めた子どもを5人見つけまし

た。粘り強く練習を続ければ、きっと

強くなれるはずです」と激励の言葉を

送った。

 日本はこれまで、幅広い分野の国際

協力を通じてペルーの発展を支えてき

た。その一つが、野球以外にもさまざ

まなスポーツ指導を通じた、人材育成

への貢献だ。原さんらは、30年前に陸

上競技の指導のために青年海外協力隊

員としてペルーに渡り、今はシニア海

外ボランティアとして再び同じ地で活

動している椿原孝典さんの指導の様子

を見学した。当時の椿原さんの教え子

が現在は指導者となり、選手と共に東

京オリンピック出場を目指している。

準備や後片付け、集合時間の厳守とい

った指導も徹底していたという椿原さ

ん。その思いは30年の時を超え、指導

者となった教え子に引き継がれている

のだ。

 また、原さんらは今回、スポーツと

同様に両国の絆を象徴する〝防災〞分

野の協力にも触れた。訪れたのは、1

986年にJICAの支援で創設され

た「日本・ペルー地震防災センター(C

ISMID)」。日本と同じく環太平洋

火山帯に位置するペルーは、地震や津

波の被害に見舞われやすい上、洪水や

土砂崩れなども頻発する。そこで、こ

のセンターでは、地震の発生源や影響

の調査、津波リスクの分析、構造物の

強化実験といった学術的な取り組みに

加え、住民への啓発を目的とした防災

教育の教材も開発している。

 CISMIDの初代センター長であ

る日系人のフリオ・クロイワ名誉教授

が、センターを案内してくれた。クロ

イワ教授は、1960年代に日本で地

震工学を学んだ後、ペルーの大学に初

の地震工学コースを導入。これまでに、

津波・沿岸防災に関して功績を挙げた

個人・団体を表彰する「濱口梧陵国際賞」

や「国連笹川防災賞」を受賞しており、

ペルーにおける日系人の貢献が国際的

にも評価されたのだ。センターを見学

した原さんは、「日本の知見や技術が世

界に広がることに、大きな期待を感じ

ました」と話す。

 今回の訪問を通じて、原さんは、「そ

れまで遠い存在だったペルーとの距離

がぐんと縮まったように思います」と

語っていた。〝日本人の心〞を受け継ぐ

日系人の存在や、日本からのさまざま

な協力が、地球の両側をつなぐ確かな

架け橋となっていることを実感する視

察となった。

2国際協力を通じた日本との絆

原さんの問い掛けに元気よく「はい!」と答える子どもたち

原辰徳さんらが

ペルーで熱血指導!

―日本との固い絆

特 別 レ ポ ー ト

「ファンケルキッズベースボール」プロジェクトを通じて集められた中古の野球道具を寄贈した

オリンピック出場を目指すシルバナ・セグラ選手を指導するシニア海外ボランティアの椿原さん(奥)

「日本・ペルー地震防災センター(CISMID)」では、マスコットキャラクターが防災の意義を親しみやすく伝えている

1899年、横浜港を出港した「佐倉丸」に乗り、日本から

初めての南米移住者たちが目指した国、ペルー。ペルーの日系

社会と日本をつなぐ架け橋となってきた「ペルー日系人協

会」が、2017年に設立100周年を迎えた。これを記念

して開かれた野球教室に、原辰徳さんら元プロ野球選手5人

が特別講師として参加。さまざまな国際協力の現場を目の

当たりにし、両国の固い絆に触れた。

ペルーの子どもたちへの打撃指導に当たる原さんペルー

写真提供:富田全宣(青年海外協力隊/職種:写真)

読売巨人軍前監督

リマ

January 2018 2627  January 2018

Page 17: JW H1-4 2...2018 JANUARY No.52 ISSN 2188-0670 [ムンディ] 平成30年1月1日発行(毎月1回1日発行) 編集・発行/独立行政法人 国際協力機構 〒102-8012

寺田 広紀Terada Hiroki

外務省 国際協力局国別開発協力第二課長

「ここが知りたい」。国際協力に関係する政策を 外務省の担当者が分かりやすく解説します!

 遠い国々と思うかもしれませんが、実は1888年、日本がアジア以外で初めて平等な条約を結んだ国はメキシコでした。第2次世界大戦後もサンフランシスコ平和条約の調印や国連への加盟など、日本が国際社会への復帰を図るに当たり、中南米諸国は常に日本を支援してくれたのです。 中南米諸国は、民主主義や法の支配など我々と根本的な価値観を共有している政治的・経済的に重要なパートナーです。さらには豊かな鉱物資源や農産物にも恵まれており、日本企業も多数進出しています。 日本は中南米諸国の発展を支えるさまざまな経済協力を実施してきました。代表的なものが、ブラジルのセラードと呼ばれるサバンナ地帯の農業開

中南米の国々と日本の関係は?

 カリブ地域は、毎年のように到来するハリケーンで甚大な被害を受けており、対策として災害に強いインフラ整備だけではなく、防災システムの構築などが必要です。日本は、災害に強い国づくりを目指すこの地域のニーズに応え、幅広い支援を実施しています。 2012年のハリケーン・サンディーでは、ジャマイカのアノット・ベイ公立病院が大きな被害を受けました。産婦人科病棟の屋根が大きな損傷を受けたため、同病院で出産した母親と乳児は廊下に置かれたベッドを利用せざるを得ないほどでした。病院関係者や地元住民の熱意もあり、日本は草の根・人間の安全保障無償資金協力により屋根を補修するなど、復旧を支援しました。 昨年3月には無償資金協力を通じて、ジャマイカの災害現場で司令塔の役割を果たす指揮車2台を供与しました。今後は緊急時災害通信システムの整備を支えるのが日本の役割です。また、地方の学校では青年海外協力隊が防災教育を実施し、住民の防災に対する意識向上を図っています。 日本は、カリブ地域の小島しょ国特有の脆弱性克服を含めた持続可能な発展に向けて、今後も多くの人々の生活と生命を守るための支援を継続していく方針です。また、ジャマイカに対する防災分野の協力が、他のカリブ諸国への協力のモデルケースになることも期待されています。

(在ジャマイカ日本国大使館 二等書記官 篠﨑英樹)

A1.

 中南米諸国は地震や津波、ハリケーンなど、日本と同様、災害のリスクが高い地域です。このため、防災における日本の経験とノウハウを共有し、被害の軽減を目指す協力が続いています。例えば、中米各国を対象にコミュニティー防災の取り組み促進のための技術協力を行ったり、各国の状況を踏まえた最適な防災策を提案したりしているのです。また、日本がこの地域で力を入れている協力が、環境保護やクリーンエネルギーです。例えばコスタリカでは、火山国ならではの豊富な地熱エネルギーを生かした地熱発電の支援を行っています。その他にも、中南米各国を対象に太陽光パネルの供与

Q1.

発です。農業に適さないといわれたセラードの開発協力は1979年に始まりました。日本の開発協力が起爆剤となり、牧草地も含めた開発面積は4,500万ヘクタールを超えて、さらに拡大を続けています。ブラジルは今や世界一の大豆生産国ですが、同国内で収穫される大豆の半分はセラード産です。また、1969年にチリで始まったサケ・マス類の日本の養殖支援を通じ、魚介類の養殖が一大産業となり、今では日本が輸入するサケ・マスの8割近くをチリ産が占めるほどに成長しました。

 中南米諸国は順調に経済成長し、所得水準も徐々に上昇しています。それに伴い、協力の種類もインフラ整備などを行う円借款から、日本の技術を伝える技術協力の比重が増える方向に、徐々にシフトしてきました。これからは、日本が一方的に協力するだけでなく、各国が日本の協力から得たノウハウを、日本と共に他の国に伝えていく“三角協力”が一つの鍵です。 例えばブラジルのサンパウロ州では、日本の交番制度を導入し、犯罪予防に焦点を当てた治安改善に力を入れてきました。その成果は高く評価され、近年では、サンパウロ州警察がブラジルの他の州や中米などから研修を受け入れています。他にも、チリの防災協力やアルゼンチンでの中小企業活性化などが挙げられます。

日本と中南米諸国とのこれからの関係は?

や、カリブ海の小島しょ国を対象に省エネルギー推進のための技術協力など、内容は多彩です。 一方、19世紀末から多くの日本人が移民として中南米諸国に渡ったことから、今では世界の日系人の実に6割に当たる約213万人がこの地域に住んでいます。そこで、日本は日本語教師や高齢者福祉などを中心に、ボランティアを派遣して日系社会を支えています。これまでに派遣されたボランティアの数は2,000人近く。これに加えて、日系人向けの研修を数多く実施しており、中でも次世代を担う若者に対する日本での研修事業には、これまで累計約1,300人の方が参加しています。

 所得水準が向上した国は、徐々に開発協力を受ける立場から“卒業”し、今度は自らが他の国に供与していく立場になります。卒業を控えた中南米の国々と、日本が今後、どのように連携して開発協力を進めていくかが問われています。

A2.

最近はどんな協力をしている  の?Q2.

A3.

Q3.

災害に強い国づくりを

無償資金協力で供与された指揮車

Me�age from Jamaica

1日本と中南米諸国の

友好関係は古く、

多くの日系人が移り住んでいる

2日本は防災、環境保

護などで

中南米諸国と協力している

3これからは、パートナ

ーとして力を合わせ、

他の国々での開発協力に取り組んでいく

都市救急救助技術研修の現場にて。チリ国中南米防災人材育成拠点化支援プロジェクト(通称「KIZUNA」プロジェクト)より

テーマ

1994年、大蔵省(当時)に入省。2004年から約3年間在アメリカ日本国大使館で勤務。財務大臣秘書官、財務省主計局主計官補佐、関税局総務課政策推進室長、国際協力銀行ワシントン上席駐在員などを経て、2017年7月より現職。

ニカラグアで日本が支援している太陽光発電所(写真提供:JICS)

中南米諸国と日本

ぜいじゃく

January 2018 2829  January 2018

Page 18: JW H1-4 2...2018 JANUARY No.52 ISSN 2188-0670 [ムンディ] 平成30年1月1日発行(毎月1回1日発行) 編集・発行/独立行政法人 国際協力機構 〒102-8012

1,000頭以上の家畜を引き連れ、150キロの道のりを一週間かけて春営地に向かう。年によっては嵐や積雪で春営地に辿り着けないこともあるが、今シーズンは無事に難関を抜けた。ゴールは目の前だ

広漠の地に解き放つ

地球ギャラリー vol.112

地球ギャラリー vol.112

松尾

純(まつお

じゅん)

広島生まれ。19歳の頃から一眼レフを持って世界を旅する。

50以上の国と地域での撮影経験を持ち、チベット文化圏を最

も得意なフィールドとする。5000メートルを超えるヒマ

ラヤ山脈など、世界各地の辺境で暮らす人々を写し続ける。

公式サイト

 

http://junmatsuo.jp

 モンゴルの首都ウランバートルから1600キロ。西の果て

に、カザフ族が多く居住するバヤン・ウルギー県がある。イヌワ

シを使って狩猟をする鷹匠文化が残る地域だ。村から20キロ離

れ、ぽつんと冬の住居を構える耳の不自由な鷹匠がいた。イン

タ・カザルベック。祖父の代から鷹匠だ。相棒は6歳の雌ワシ。

名はアイナ。雄のワシは怠け者だから狩りには使わない。アイナ

は3年前に山で捕ってきて一年間調教した。

 獲物はキツネやフクロウ、オオカミなど。特にキツネの皮と毛

は高値で売れる。狩りの時期は、その毛が美しくなる10月から2月

の間。夏の間にワシを太らせてから、餌を減らして腹を空かせる。

その後、口からホースで水を流し込んで胃を洗浄し、ワシの足の

肉付き具合を見ながら、ちょうど良いところで狩りに出掛ける。

 狩りはワシ一羽、鷹匠一人ではできない。麓から仲間や村人が

馬の鞍を叩いたり、声を出したりして岩の中の動物をおびき出

し、山頂に追い込んでいく。仲間の声を合図に鷹匠はワシのマス

クを外し、空に放つ。そして、ワシは獲物の背後から迫り倒す。

[モンゴル]写真・文=松尾純(写真家)

Mongolia地球ギャラリー vol.112

老いたワシは自然に返す。その前日に知人を呼んでパーティーを開き、腹いっぱい餌を与える。「娘を嫁に送り出すようなものだよ。野生でがんばってこい、と」伝統衣装に着替え、家族総出で幼馴染の家を訪れる。親しい仲でも訪問時はしきたりを守る。隣近所とは家畜の面倒を見合ったり、共に家畜の盗難を防いだりする

a.

b.

a

b

耳の不自由な夫・カザルベックに代わって、外との連絡を取るのは妻の役目。狩りの間、家の仕事も全て引き受ける。食卓には塩漬けにして干した馬肉や羊肉を茹でた“カズ”が並ぶ

カザフ族では末弟が家を継ぐ。9人兄弟の末子であるカザルベックが鷹匠を継いだ。「耳は悪いけど、鷹匠をできるし、ダンスも楽器もできるから幸せだよ」

家畜はヒツジにヤギ、ウマ、ヤク、ラクダ。木が乏しい地域で、家畜の糞が燃料になる。トラック一台分で2,000円強の収入だ

多くの遊牧民は毎晩9時になると、県が放送するラジオを聴く。電波が悪く音質の良くない放送に耳を澄ます。貴重な情報源だ

コス(宿泊所)がない場所では、すでに移動が終わり、空になった遊牧民の冬の住居に泊まる。断りなく他人の住居を使うことができるのもここでは当たり前のこと

春営地に向かう男たちは、標高3,000メートルの峠を越えた。山の斜面に横になり、たばこをふかす。「この大地が我が家だ」と言わんばかりに、ゆったりくつろぐ

 鷹匠の普段の暮らしは他の遊牧民と変わらない。乳搾り、燃料

になる家畜の糞拾い、放牧。家畜が好む新しい草を求め、年に4

回住む場所を変える。厳冬期には暖かい村で暮らし、春前になる

と山を登り春営地に移る。夏はさらに山奥へ移動し、それから秋

営地に向かう。それぞれの場所には簡素な小屋が建ててあり、家

具一式も備わっている。

モンゴル

 子どもを鷹匠に育てるのは父親の役目だ。3歳で馬に乗せ、5

歳で祭りで行われる競馬に出す。6歳になると学校の休みの間に

狩りに連れて行き、調教した自分のワシを与える。

 カザルベックの息子はまだ3歳になったばかり。狩りはまだ習

っていないが、日々、父親のやることを見て学んでいる。父親に

寄り掛かりながら、一人前の口ぶりで言った。「僕も鷹匠になる

よ。子どもに狩りを教えて、馬も今より増やすんだ」

 最も大変なのは〝クゼウゲ・クシュ〞と呼ばれる春の移動。積

雪も残り、家畜も痩せているので気を遣う。2月20日頃から始ま

り、1カ月以内に全ての遊牧民の移動が終わる。3月後半には家

畜の出産やカザフ族のお正月があるからだ。

 ルート上に設けられた村ごとのコス(宿泊所)は無料で使える。

管理人の他に、獣医、役人などが国から派遣され、遊牧民が到着

すると皆で荷をほどいて役所から配給された餌を家畜に与え、小

屋で休ませる。風が強いときには半月も足止めを食らうこともあ

るので、コスは欠かせない。除雪し、雪崩を食い止める壁などを

作ってルートを確保するのも国から派遣される作業員の役割だ。

 遊牧民や鷹匠の暮らしは、家族や隣人との助け合いがなければ

成り立たない。そういう営みを国がしっかり支えているのだ。

 春営地であるダヤン湖にいち早く到着していた男と出会った。

小学3年生で学校をやめて遊牧民になり、現在50歳。一度は遊牧

の暮らしから離れたが、結局戻ってきた。思うままに遊牧し、好

きな所に小屋を建て、山の恵みを受けて暮らす。誰の許可も要ら

ない。遊牧民として育ってきた彼らにとって、これほど安心でき

る暮らしはない。

 「家族も家畜もいる。これで十分だろ」

春営地に到着しても、家が雪に埋もれて見つからず、2日間、雪かきに追われることも。近所の人も手伝いに駆け付ける

春営地のダヤン湖に到着したばかりの少女。160キロ離れた村から5日間かけてやって来た。ここには3つの村から約2,000世帯が集まる。夜間はマイナス45度。それでもこの地にやってくるのは、雪の下からじきに生えてくる、家畜が大好きな新しい草のため

バヤン・ウルギー

たかじょう

くら

ふん

Page 19: JW H1-4 2...2018 JANUARY No.52 ISSN 2188-0670 [ムンディ] 平成30年1月1日発行(毎月1回1日発行) 編集・発行/独立行政法人 国際協力機構 〒102-8012

1,000頭以上の家畜を引き連れ、150キロの道のりを一週間かけて春営地に向かう。年によっては嵐や積雪で春営地に辿り着けないこともあるが、今シーズンは無事に難関を抜けた。ゴールは目の前だ

広漠の地に解き放つ

地球ギャラリー vol.112

地球ギャラリー vol.112

松尾

純(まつお

じゅん)

広島生まれ。19歳の頃から一眼レフを持って世界を旅する。

50以上の国と地域での撮影経験を持ち、チベット文化圏を最

も得意なフィールドとする。5000メートルを超えるヒマ

ラヤ山脈など、世界各地の辺境で暮らす人々を写し続ける。

公式サイト

 

http://junmatsuo.jp

 モンゴルの首都ウランバートルから1600キロ。西の果て

に、カザフ族が多く居住するバヤン・ウルギー県がある。イヌワ

シを使って狩猟をする鷹匠文化が残る地域だ。村から20キロ離

れ、ぽつんと冬の住居を構える耳の不自由な鷹匠がいた。イン

タ・カザルベック。祖父の代から鷹匠だ。相棒は6歳の雌ワシ。

名はアイナ。雄のワシは怠け者だから狩りには使わない。アイナ

は3年前に山で捕ってきて一年間調教した。

 獲物はキツネやフクロウ、オオカミなど。特にキツネの皮と毛

は高値で売れる。狩りの時期は、その毛が美しくなる10月から2月

の間。夏の間にワシを太らせてから、餌を減らして腹を空かせる。

その後、口からホースで水を流し込んで胃を洗浄し、ワシの足の

肉付き具合を見ながら、ちょうど良いところで狩りに出掛ける。

 狩りはワシ一羽、鷹匠一人ではできない。麓から仲間や村人が

馬の鞍を叩いたり、声を出したりして岩の中の動物をおびき出

し、山頂に追い込んでいく。仲間の声を合図に鷹匠はワシのマス

クを外し、空に放つ。そして、ワシは獲物の背後から迫り倒す。

[モンゴル]写真・文=松尾純(写真家)

Mongolia地球ギャラリー vol.112

老いたワシは自然に返す。その前日に知人を呼んでパーティーを開き、腹いっぱい餌を与える。「娘を嫁に送り出すようなものだよ。野生でがんばってこい、と」伝統衣装に着替え、家族総出で幼馴染の家を訪れる。親しい仲でも訪問時はしきたりを守る。隣近所とは家畜の面倒を見合ったり、共に家畜の盗難を防いだりする

a.

b.

a

b

耳の不自由な夫・カザルベックに代わって、外との連絡を取るのは妻の役目。狩りの間、家の仕事も全て引き受ける。食卓には塩漬けにして干した馬肉や羊肉を茹でた“カズ”が並ぶ

カザフ族では末弟が家を継ぐ。9人兄弟の末子であるカザルベックが鷹匠を継いだ。「耳は悪いけど、鷹匠をできるし、ダンスも楽器もできるから幸せだよ」

家畜はヒツジにヤギ、ウマ、ヤク、ラクダ。木が乏しい地域で、家畜の糞が燃料になる。トラック一台分で2,000円強の収入だ

多くの遊牧民は毎晩9時になると、県が放送するラジオを聴く。電波が悪く音質の良くない放送に耳を澄ます。貴重な情報源だ

コス(宿泊所)がない場所では、すでに移動が終わり、空になった遊牧民の冬の住居に泊まる。断りなく他人の住居を使うことができるのもここでは当たり前のこと

春営地に向かう男たちは、標高3,000メートルの峠を越えた。山の斜面に横になり、たばこをふかす。「この大地が我が家だ」と言わんばかりに、ゆったりくつろぐ

 鷹匠の普段の暮らしは他の遊牧民と変わらない。乳搾り、燃料

になる家畜の糞拾い、放牧。家畜が好む新しい草を求め、年に4

回住む場所を変える。厳冬期には暖かい村で暮らし、春前になる

と山を登り春営地に移る。夏はさらに山奥へ移動し、それから秋

営地に向かう。それぞれの場所には簡素な小屋が建ててあり、家

具一式も備わっている。

モンゴル

 子どもを鷹匠に育てるのは父親の役目だ。3歳で馬に乗せ、5

歳で祭りで行われる競馬に出す。6歳になると学校の休みの間に

狩りに連れて行き、調教した自分のワシを与える。

 カザルベックの息子はまだ3歳になったばかり。狩りはまだ習

っていないが、日々、父親のやることを見て学んでいる。父親に

寄り掛かりながら、一人前の口ぶりで言った。「僕も鷹匠になる

よ。子どもに狩りを教えて、馬も今より増やすんだ」

 最も大変なのは〝クゼウゲ・クシュ〞と呼ばれる春の移動。積

雪も残り、家畜も痩せているので気を遣う。2月20日頃から始ま

り、1カ月以内に全ての遊牧民の移動が終わる。3月後半には家

畜の出産やカザフ族のお正月があるからだ。

 ルート上に設けられた村ごとのコス(宿泊所)は無料で使える。

管理人の他に、獣医、役人などが国から派遣され、遊牧民が到着

すると皆で荷をほどいて役所から配給された餌を家畜に与え、小

屋で休ませる。風が強いときには半月も足止めを食らうこともあ

るので、コスは欠かせない。除雪し、雪崩を食い止める壁などを

作ってルートを確保するのも国から派遣される作業員の役割だ。

 遊牧民や鷹匠の暮らしは、家族や隣人との助け合いがなければ

成り立たない。そういう営みを国がしっかり支えているのだ。

 春営地であるダヤン湖にいち早く到着していた男と出会った。

小学3年生で学校をやめて遊牧民になり、現在50歳。一度は遊牧

の暮らしから離れたが、結局戻ってきた。思うままに遊牧し、好

きな所に小屋を建て、山の恵みを受けて暮らす。誰の許可も要ら

ない。遊牧民として育ってきた彼らにとって、これほど安心でき

る暮らしはない。

 「家族も家畜もいる。これで十分だろ」

春営地に到着しても、家が雪に埋もれて見つからず、2日間、雪かきに追われることも。近所の人も手伝いに駆け付ける

春営地のダヤン湖に到着したばかりの少女。160キロ離れた村から5日間かけてやって来た。ここには3つの村から約2,000世帯が集まる。夜間はマイナス45度。それでもこの地にやってくるのは、雪の下からじきに生えてくる、家畜が大好きな新しい草のため

バヤン・ウルギー

たかじょう

くら

ふん

Page 20: JW H1-4 2...2018 JANUARY No.52 ISSN 2188-0670 [ムンディ] 平成30年1月1日発行(毎月1回1日発行) 編集・発行/独立行政法人 国際協力機構 〒102-8012

1,000頭以上の家畜を引き連れ、150キロの道のりを一週間かけて春営地に向かう。年によっては嵐や積雪で春営地に辿り着けないこともあるが、今シーズンは無事に難関を抜けた。ゴールは目の前だ

広漠の地に解き放つ

地球ギャラリー vol.112

地球ギャラリー vol.112

松尾

純(まつお

じゅん)

広島生まれ。19歳の頃から一眼レフを持って世界を旅する。

50以上の国と地域での撮影経験を持ち、チベット文化圏を最

も得意なフィールドとする。5000メートルを超えるヒマ

ラヤ山脈など、世界各地の辺境で暮らす人々を写し続ける。

公式サイト

 

http://junmatsuo.jp

 モンゴルの首都ウランバートルから1600キロ。西の果て

に、カザフ族が多く居住するバヤン・ウルギー県がある。イヌワ

シを使って狩猟をする鷹匠文化が残る地域だ。村から20キロ離

れ、ぽつんと冬の住居を構える耳の不自由な鷹匠がいた。イン

タ・カザルベック。祖父の代から鷹匠だ。相棒は6歳の雌ワシ。

名はアイナ。雄のワシは怠け者だから狩りには使わない。アイナ

は3年前に山で捕ってきて一年間調教した。

 獲物はキツネやフクロウ、オオカミなど。特にキツネの皮と毛

は高値で売れる。狩りの時期は、その毛が美しくなる10月から2月

の間。夏の間にワシを太らせてから、餌を減らして腹を空かせる。

その後、口からホースで水を流し込んで胃を洗浄し、ワシの足の

肉付き具合を見ながら、ちょうど良いところで狩りに出掛ける。

 狩りはワシ一羽、鷹匠一人ではできない。麓から仲間や村人が

馬の鞍を叩いたり、声を出したりして岩の中の動物をおびき出

し、山頂に追い込んでいく。仲間の声を合図に鷹匠はワシのマス

クを外し、空に放つ。そして、ワシは獲物の背後から迫り倒す。

[モンゴル]写真・文=松尾純(写真家)

Mongolia地球ギャラリー vol.112

老いたワシは自然に返す。その前日に知人を呼んでパーティーを開き、腹いっぱい餌を与える。「娘を嫁に送り出すようなものだよ。野生でがんばってこい、と」伝統衣装に着替え、家族総出で幼馴染の家を訪れる。親しい仲でも訪問時はしきたりを守る。隣近所とは家畜の面倒を見合ったり、共に家畜の盗難を防いだりする

a.

b.

a

b

耳の不自由な夫・カザルベックに代わって、外との連絡を取るのは妻の役目。狩りの間、家の仕事も全て引き受ける。食卓には塩漬けにして干した馬肉や羊肉を茹でた“カズ”が並ぶ

カザフ族では末弟が家を継ぐ。9人兄弟の末子であるカザルベックが鷹匠を継いだ。「耳は悪いけど、鷹匠をできるし、ダンスも楽器もできるから幸せだよ」

家畜はヒツジにヤギ、ウマ、ヤク、ラクダ。木が乏しい地域で、家畜の糞が燃料になる。トラック一台分で2,000円強の収入だ

多くの遊牧民は毎晩9時になると、県が放送するラジオを聴く。電波が悪く音質の良くない放送に耳を澄ます。貴重な情報源だ

コス(宿泊所)がない場所では、すでに移動が終わり、空になった遊牧民の冬の住居に泊まる。断りなく他人の住居を使うことができるのもここでは当たり前のこと

春営地に向かう男たちは、標高3,000メートルの峠を越えた。山の斜面に横になり、たばこをふかす。「この大地が我が家だ」と言わんばかりに、ゆったりくつろぐ

 鷹匠の普段の暮らしは他の遊牧民と変わらない。乳搾り、燃料

になる家畜の糞拾い、放牧。家畜が好む新しい草を求め、年に4

回住む場所を変える。厳冬期には暖かい村で暮らし、春前になる

と山を登り春営地に移る。夏はさらに山奥へ移動し、それから秋

営地に向かう。それぞれの場所には簡素な小屋が建ててあり、家

具一式も備わっている。

モンゴル

 子どもを鷹匠に育てるのは父親の役目だ。3歳で馬に乗せ、5

歳で祭りで行われる競馬に出す。6歳になると学校の休みの間に

狩りに連れて行き、調教した自分のワシを与える。

 カザルベックの息子はまだ3歳になったばかり。狩りはまだ習

っていないが、日々、父親のやることを見て学んでいる。父親に

寄り掛かりながら、一人前の口ぶりで言った。「僕も鷹匠になる

よ。子どもに狩りを教えて、馬も今より増やすんだ」

 最も大変なのは〝クゼウゲ・クシュ〞と呼ばれる春の移動。積

雪も残り、家畜も痩せているので気を遣う。2月20日頃から始ま

り、1カ月以内に全ての遊牧民の移動が終わる。3月後半には家

畜の出産やカザフ族のお正月があるからだ。

 ルート上に設けられた村ごとのコス(宿泊所)は無料で使える。

管理人の他に、獣医、役人などが国から派遣され、遊牧民が到着

すると皆で荷をほどいて役所から配給された餌を家畜に与え、小

屋で休ませる。風が強いときには半月も足止めを食らうこともあ

るので、コスは欠かせない。除雪し、雪崩を食い止める壁などを

作ってルートを確保するのも国から派遣される作業員の役割だ。

 遊牧民や鷹匠の暮らしは、家族や隣人との助け合いがなければ

成り立たない。そういう営みを国がしっかり支えているのだ。

 春営地であるダヤン湖にいち早く到着していた男と出会った。

小学3年生で学校をやめて遊牧民になり、現在50歳。一度は遊牧

の暮らしから離れたが、結局戻ってきた。思うままに遊牧し、好

きな所に小屋を建て、山の恵みを受けて暮らす。誰の許可も要ら

ない。遊牧民として育ってきた彼らにとって、これほど安心でき

る暮らしはない。

 「家族も家畜もいる。これで十分だろ」

春営地に到着しても、家が雪に埋もれて見つからず、2日間、雪かきに追われることも。近所の人も手伝いに駆け付ける

春営地のダヤン湖に到着したばかりの少女。160キロ離れた村から5日間かけてやって来た。ここには3つの村から約2,000世帯が集まる。夜間はマイナス45度。それでもこの地にやってくるのは、雪の下からじきに生えてくる、家畜が大好きな新しい草のため

バヤン・ウルギー

たかじょう

くら

ふん

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Divination

ドゥルベン・ベルヒーン・トゥルグは、土産物店でもよく見掛けるほどポピュラーだ

ドゥルベン・ベルヒーン・トゥルグ

食文化と結び付いた占いといえば

【RE C I P E】●材料(2人分)マトン(ヒツジ)肉または牛肉200g/玉ネギ中1個/ニンジン2分の1本/ピーマン2個/冷凍うどん麺2袋/サラダ油適量/塩少々

野菜をすべて千切りにし、肉もお好みのサイズで細長くスライスしておく。鍋にお湯を沸かし、麺を少し固めに茹でておく。フライパンに油を引き、中火で玉ネギと肉を炒める。焼き色が付いたら塩で味付けをして、ニンジンとピーマンを入れる。具材をフライパンに広げて平らにし、その表面が出るくらいまで水を加える。沸騰したら具材の上に茹でた麺を入れて平らに広げ、その上からサラダ油をかける。ふたを閉めて中火で3~5分待つ(焦げないように火加減を調節)。水気がなくなったら火を消し、30秒ほどむらした後、麺と具材を混ぜ合わせたら出来上がり。

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モンゴルの文化を知ろう!

地球ギャラリー

 モンゴルでは、ウシ、ウマ、ラクダ、ヒツジ、ヤギの“5畜”の肉をよく食べる。特に小型のヒツジとヤギについては、残ったくるぶしの骨を集めるのがモンゴルの子どもたちの習慣だ。集めたくるぶしを4つ使った占い、「ドゥルベン・ベルヒーン・トゥルグ」は、日本語に訳すとその名も「4つのくるぶしの占い」。子どもからお年寄りまで、国中で広く親しまれている伝統の占いだ。 占い方は、サイコロを振るようにくるぶしの骨を4つ投げる。立体的なくるぶしの骨は、面ごとに家畜の形になぞらえてウマ・ラクダ・ヒツジ・ヤギと当てはめられており、出た面の組み合わせで吉凶を占う。例えば、“4つともウマが出たら、あらゆることが成就する”、といった具合だ。 家庭だけでなく、レストランでもくるぶしの骨は捨てずに取ってあり、首都ウランバートルのモンゴル料理店でも店員に一声掛けると、くるぶしの骨とそれらを受け止める専用のフェルト生地を持ってきてくれる。各テーブルには、出た面の組み合わせに応じた占いの結果を記したカードまで備え付けてある。家畜のくるぶしの骨は占いだけでなく、子どもたちの計算練習やおはじき遊びに使うこともあるほど、モンゴルの生活に根差したものだ。

取材協力:アルタンゲレルさん

モンゴルの家庭の味といえば

ツォイワン 「ツォイワン」の麺は、モンゴルで肉に次いでよく食べるという小麦が材料だ。肉をふんだんに使ったツォイワンは、モンゴルの代表的な家庭料理で、特に子どもたちに人気があり、日本の焼きそばのような感覚で食されている。 「麺の太さは家庭や地域によってさまざまで、すりつぶした薬草を入れて黄や緑の色を付けることもあります。モンゴルでは家庭で麺作りをすることが珍しくなく、私も毎回、麺から作っているんです」。日本に留学した経験を持ち、JICA事業などの通訳を務めるアルタンゲレルさん

はそう話す。 彩りを添えるために野菜をたくさん使うツォイワンもあるが、麺と肉だけのものもよく見掛ける。どちらの場合も味付けはシンプルに塩だけ、それも岩塩を使うのがモンゴル流だ。同国で採れる岩塩は、日本でも輸入食品店などに並んでおり、人気が高い。岩塩は現地では健康にいい食品とされており、うがいに使うこともあるという。 写真のツォイワンはヒツジ肉を使ったもので、一番上に白く見えるのはヒツジのしっぽの脂身だ。お好みで牛肉を使ってもおいしくできる。

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新 着 情 報

E VENTM OVIE

B OOK

2016年/オーストリア/90分監督:ウルリヒ・ザイドル出演:ジェラルド・アイヒンガー、エヴァ・ホフマン、マニュエル・アイヒンガー他公開:1月末よりシアター・イメージフォーラム(東京都渋谷区)他   全国ロードショーURL:www.movie-safari.com配給:サニーフィルム

B OOK

『ぼくは13歳、任務は自爆テロ。 テロと紛争をなくすために必要なこと』30年以上続く内戦の終わりは見えず、無政府状態が続き、自爆テロが頻発するソマリア。どうしたらテロをなくすことができるのか。著者は2011年にNGO「日本ソマリア青年機構」を立ち上げ、2017年からはNPO法人「アクセプト・インターナショナル」の代表理事として、ソマリア人ギャング団やテロ組織から足を洗った若者を社会に復帰させるプロジェクトに取り組んできた。「テロリストとして生まれた人は誰一人いない」。国際協力の中でも置き去りにされがちなギャングやテロといった課題に真正面からぶつかる強い信念が伝わってくる。

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ジョン・キラカ 作さくまゆみこ 訳西村書店1,620円(税込)

永井陽右 著合同出版1,512円(税込)

『サファリ』シカに似て角の立派なニアラは1,600ユーロ、ウシカモシカの異名を持つヌーは615ユーロ。これはナミビアのハンティング・ロッジでの動物の狩猟料だ。現在、サハラ砂漠以南のアフリカ24カ国では野生動物の狩猟が許可され、年間1万8,500人ものハンターが動物の皮や頭だけを目的とした“トロフィー・ハンティング”を楽しんでいる。アフリカ諸国にとって、これが貴重な観光収入となっている現実もあるが、合法でお金を払えば全てが許されるのだろうか。ハンティングをレジャーとして捉える海外のハンターたちと、彼らが狩猟した獲物を解体して、余った肉を黙々と食べる現地の人 と々の対比がくっきりと浮かび上がる。

『第25回ワン・ワールド・フェスティバル』西日本で最も大きな“参加型×交流型”の国際協力イベント「ワン・ワールド・フェスティバル」が今年も開催される。NGO・NPO、政府系機関、国際機関、企業、教育機関などが一堂に会して活動を紹介する「ワールド・ビレッジ」や、織物や楽器などを体験できるワークショップ、ステージでの音楽やダンスなど、プログラムが満載。さらに、世界の食を楽しめる企画がある他、モンゴルの住居ゲルも用意される。3カ所の会場を回って、世界が抱える課題のために自分が何をできるか探してみよう。

会期:2月3日(土)、4日(日)10:00~17:00会場:北区民センター、扇町公園、カンテレ扇町スクエア1階ステージ  (大阪府大阪市)URL:www.interpeople.or.jp/owf問:ワン・ワールド・フェスティバル実行委員会事務局 TEL:06-6777-1039

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『ごちそうの木 タンザニアのむかしばなし』むかしむかし、日照りが続いて食べ物がなくなってしまった土地に、たわわに実のなる大きな木が一本。その実が採れずに困った動物たちは、賢いカメにどうしたら良いか聞きに行くことに。小さなノウサギが“自分が行く”と名乗り出たものの、大きい動物が行くべきだと反対され、ゾウとスイギュウが出掛けるのだが――。タンザニアの南西に住むフィパの人々が語り継いできた愉快な昔話を、同国の近代絵画ティンガティンガで描いた一冊だ。

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JANUARY 2018 No.52編集・発行/独立行政法人 国際協力機構 Japan International Cooperation Agency : JICA

〒102-8012 東京都千代田区二番町5-25 二番町センタービルTEL:03-5226-9781 FAX:03-5226-6396 URL:http://www.jica.go.jp/バックナンバーはJICAホームページ(http://www.jica.go.jp/publication/mundi)でご覧いただけます。 本誌掲載の記事、写真、イラストなどの無断転載を禁じます。

本誌へのご意見・ご感想やJICAへのご質問をお寄せください。

Eメール : [email protected] A X :03-3221-5584(『mundi』編集部宛)

◎応募締切:2018年2月15日

添付のアンケートはがき、Eメール、FAXから、本誌に対するご意見やご感想、またJICAへのご質問を、氏名・住所・電話番号・職業・年齢・性別・ご希望のプレゼントを明記の上、お送りください。ご記入いただいた個人情報は統計処理およびプレゼント発送以外の目的で使用いたしません。当選者の発表は発送をもってかえさせていただきます。

プレゼント付き

次号予告(2018年2月1日発行予定)

国際協力を支える人々世界各国でさまざまな国際協力プロジェクトを展開しているJICA。その活動はJICA職員だけでなく、多くの人の協力によって成り立っています。開発コンサルタントやJICA専門家などJICA事業を支える国際協力の仕事に迫ります。

本誌をご希望の場合は下記方法で

お申し込みください。

本誌をご希望の方には、送料をご負担いただく形で送付いたします。巻末の払込取扱票に、氏名・住所・電話番号・ご希望の送付期間・送付開始月を明記の上、指定の金額を郵便局でお支払いください。入金の確認後、発送を手配いたします(入金から1週間程度かかることもありますのでご了承ください)。複数冊、またはバックナンバーをご希望の方は送料が異なりますので、下記までお問い合わせください。

申込方法

申込先住 所T E LF A XEメール

(株)国際開発ジャーナル社 総務部(発送代行)〒102-0083 東京都千代田区麹町3-2-4 麹町HFビル[email protected]

① ミャンマー産の箸置き② 書籍『ぼくは13歳、任務は自爆テロ。   テロと紛争をなくすために必要なこと』 (p37参照)③ 書籍『ごちそうの木 タンザニアのむかしばなし』 (p37参照)

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太陽まぶしいカリブのビーチ、謎深いナスカの地上

絵、絶景ブームの火付け役ウユニ塩湖。行ってみたいけ

れど、遠いし、旅費も高い――中南米と聞いて、そんな

印象とともに今月号を手に取ってくださった方も多かっ

たのではないかと想像します。

 

かく言う私も、その一人。中南米はなかなかご縁のな

い地域です。私は昨年の夏まで中国に駐在していました

が、中国では「日中大豆戦争」と見出しを付ける報道も

あるほど、中南米での大豆の買付をめぐる日中競争が話

題になっています。それを聞けば、途端に2万キロの距

離はどこへやら、「豆腐は?

納豆は?」と、目の前の食

卓に直結した問題になるから不思議です。

 

以前は、大豆は中国の主力輸出品でした。その中国が

2000年以降、あっと言う間に世界一の大豆輸入国と

なったのは、経済発展に伴って肉を食べる機会が増え、

食肉用家畜の飼料として、大豆が必要になったことが主

な要因といわれています。

 

一方、ブラジル、アルゼンチン、パラグアイの3カ国

で、今や世界の大豆輸出量の50%以上のシェアを占める

までに成長した南米の大豆産業。そのルーツは日系移住

者が味噌や醤油といった〝祖国の味〞を守り続けるため

に、庭先で細々と栽培していたことにあるそうです。

 

後日、私は日本が豆腐や納豆を作るために使う大豆

と、中国が飼料用に使う大豆は、それぞれ輸出国が異

なり、〝戦争〞というほどの状況ではないことを知って

ホッとするのですが、同時に、世界の食糧を「もう1つ

のニホンの人々」が支えてきたのだと、何だかとても誇

らしい気持ちになりました。

 

遠いけれど実は近い――読者の皆様に少しでもそう

した感想を持っていただけたなら、今月号の企画は成

功です。

JICA広報室広報課長 

佐々木美穂

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Vol.111 ミャンマー

ぬくもり感じる木の贈り物

©Yuki Asada

 手にしてみると、見た目も手触りも本物の栗そっくり!ミャンマーの古都バゴーから届いたのは、木材を削って作られた箸置き。バゴーには職人たちが木製の生活雑貨や食器、木彫像などを手作りする小さな工房が120軒ほどあります。 「この伝統産業に日本のものづくりの経験を加えて、世界に通用する名産品を作ろう」。そう考えたNPO法人「アジアクラフトリンク」の斎藤秀一さんが目を付けたのは、材料である天然木の端材でした。「通常の木工製品には色の濃い芯材が中心に使われ、白い部位が混じった端材は現地で薪になっていました。でも逆転の発想で、濃い部位と白い部位の天然の色合いを生かせば、ちょうど栗の形と色になると思い付いたんです」

 最初は職人たちに理解してもらうのが難しかったそうですが、根気よくイメージを共有し、次第に“栗らしく”なっていきました。利用価値が低い端材を、デザインに工夫を凝らすことで、付加価値の高い商品へと生まれ変わらせたのです。 「日本が求める品質に沿った製品作りは簡単ではありませんが、私たちの活動に参加すると収入向上につながることを知り、協力してくれる工房も増えてきました。品質向上のため、2017年には技術センターも設立しました。将来的にはデザインも現地で行うことを目指しています」と語る斎藤さん。自分の手で生活を変える――。その夢に向かって、ミャンマーの職人たちが、今日も一つ一つ心を込めて商品を作り続けています。

外務省の「日本NGO連携無償資金協力」の受託事業として、技術センターでは講習会を通じた技術指導を行っている

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NO-GATARI FROM m

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Myanmar

January

2018. NO.111

ミャンマーの箸置きを4人にプレゼント!→詳細は38ページへ

商品は直営フェアトレードショップsaiなどで購入できます。http://www.shop-sai.com/

ミャンマーバゴー

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.52ISSN 2188-0670

[ムンディ] 平成30年

1月1日発行(毎月1回1日発行) 編集・発行/独立行政法人 国際協力機構

〒102-8012 東京都千代田区二番町5-25 

二番町センタービル TEL 03-5226-9781 FAX 03-5226-6396 http://w

ww.jica.go.jp/

87Vol.

 私の曽祖父は熊本からペルーに渡った日系移民です。私が幼いころ、両親はよく演歌を聞いていました。父親は日本で単身3年間働いていたのですが、あるとき、帰国の際にお土産として演歌のCDを買ってきてくれたんです。それがきっかけで私は歌手に憧れるようになりました。 私が生まれ育ったリマの日系社会は、分かりやすく言うと“古き良き日本”。昔の日本のように、ご近所さんの家に集まってテレビを囲む光景が珍しくありません。もちろん、今はどの家庭にもテレビがありますが、大勢で顔を合わせておしゃべりする時間を楽しんでいるのです。日系人はスペイン語を話していますが、料理や音楽、踊りなどを通じて、皆、日本文化を大切にし続けています。地域や家族のつながりが強いのも、日系社会の文化の一つといえるかもしれません。 リマにいたころは、よく日系社会の高齢者施設を訪れ、日本語の歌を歌っていました。歌手になるために日本に

行くことを決めたときには、日系社会の知人たちが激励のコンサートを企画してくれた上、活動資金も募ってくれました。“心でつながっている”という感覚――独特の一体感や結束こそが日系社会の良さなのだと思っています。 歌手を目指して日本で暮らし始めた9年前は、自分がイメージしていた“日本”と実際との違いを感じました。現代の日本では時間に追われる生活をしている人が多く、人々のつながりも希薄になっていると感じたのです。その一方で、物事が時間通りに進むことや、特に仕事におけるマネジメントやチームワークを重視する文化の素晴らしさなど、新たに発見した日本の良さもありました。 私は現在、東京を拠点に歌手として活動し、日本語の曲の他、中南米でヒットしたスペイン語の曲も歌っています。私にとって一番うれしいのは、私の歌や活動を通じて、日本の方とペルーの方の出会いが生まれているということ。私自身が何かを教えたり、

人々の考え方を変えたりするのではなく、音楽を通じて、自然と2つの国の人々が出会い、交流を持つようになってほしい――それが、私の目指す“架け橋”としての役割です。日本とペルーの良いところも悪いところも知っている自分だからこそ、できることがあると思っています。 他方で、その他の国についてはまだまだ知らないことだらけです。日本とペルーだけでなく、世界のいろいろな国のことを知り、音楽に限らず、さまざまな方法で文化交流や国際協力の活動につなげていけたらと思っています。人々が互いのことを知り、理解し合うことで、世界はより良いものになると信じています。

私の 2つのニホンの心をつなぐ歌手 エリック・フクサキ

「なんとかしなきゃ!プロジェクト」は、開発途上国の現状について知り、一人一人ができる国際協力を推進していく市民参加型プロジェクトです。ウェブサイトやFacebookの専用ページを通じて、さまざまな国際協力の情報を発信していきます。

なんとかしなきゃ で 検索

Eric FUKUSAKI

PROFILE 1991年、ペルー・リマ出身。リマの日系社会で育ち、幼少期から日本音楽に親しんできた。独学で日本語を習得し、歌手になることを目指して2009年に単身来日。その2年後、アップフロントワークス主催のオーディション「第1回フォレストアワード」で特別賞を受賞する。14年に「エリック・フクサキ」としてソロデビューを果たし、現在はソロ活動の他、バックコーラス、楽曲提供なども手掛ける。写真は自ら作曲した3rdシングル『飾らない歌』の発売記念ライブの様子(2列目中央がエリックさん)

The Magazine of the Japan International Cooperation Agency