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フィリップ四世時代:中世と近代の〈敷居〉 ダンテ・アリギエーリ Dante Alighieri1265-1321)の、『神曲』(伊 La Divina Commedia ;仏 Divine Comédie)では、ダンテが地獄・煉獄・天国と彼岸の国を遍歴する様子が描かれている。ダ ンテは、1300 年の復活祭の前の金曜日である〈聖金曜日〉に、地獄で古代ローマのウェルギリウ スに出会い、ウェルギリウスはダンテの地獄行の案内役を務めることになる。その後、二人の旅 人は、九つの〈圏〉から成る地獄を抜け、煉獄山に辿り着く。煉獄は七つの〈冠〉で構成されて いるのだが、その第五冠 5 e cercle 〈貪欲者 avarice〉では、生前に欲深かった者たちが、五体を地面 に伏して嘆き悲しみ、それによって欲望を消滅させんとしている。その〈貪欲者〉で、ダンテと ウェルギリウスは、ユーグ・カペー Hugues Capet(在位 987-996)に出会い、二人の旅人は、この カペー朝の創始者から、彼の後の歴代のフランス国王に対する毒舌に満ちた概説を聞かされる。 これは、著者であるダンテのユーグ・カペーの血統全体に対する不信を表わし、さらにアナーニ で教皇ボニファティウス八世 Boniface VIII(在位 1294-1303)を襲撃したフィリップ四世 Philippe IV(在位 1285-1314)に対するダンテのアクチュアルな批判をも意味しているのだそうだ 1このダンテとユーグ・カペーの邂逅が叙述されているのは、『煉獄篇』(伊 Purgatorio ;仏 Le Purgatoire)の第二十曲なのだが 2、オノレ・ド・バルザック(1799-1850)と同時代人である歴史 家ジュール・ミシュレ(1798-1874)は、その著書『フランス史』の中で 3、この『煉獄篇』第二 十曲を引用した後で以下のようなことを述べている。 Cette furieuse invective gibeline, toute pleine de vérités et de calomnies, c'est la plainte du vieux monde mourant, contre ce laid jeune monde qui lui succède. Celui-ci commence vers 1300; il s'ouvre par la France, par l’odieuse figure de Philippe le Bel. (4) 真実と中傷に満ち満ちた皇帝派のこの猛烈な罵倒、これは、かの醜く若き世界に対する、死に瀕し た古き世界の嘆きである。この若き世界は 1300 年頃に始まり、それはフランスから、フィリップ端 麗王の醜悪な姿から開いている。 1 フィレンツェとフランドルの十字路 ──『追放された者たち』における〈1308 年〉のパリ―─ 加倉井  仁

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フィリップ四世時代:中世と近代の〈敷居〉

ダンテ・アリギエーリ Dante Alighieri(1265-1321)の、『神曲』(伊 La Divina Commedia;仏

Divine Comédie)では、ダンテが地獄・煉獄・天国と彼岸の国を遍歴する様子が描かれている。ダ

ンテは、1300年の復活祭の前の金曜日である〈聖金曜日〉に、地獄で古代ローマのウェルギリウ

スに出会い、ウェルギリウスはダンテの地獄行の案内役を務めることになる。その後、二人の旅

人は、九つの〈圏〉から成る地獄を抜け、煉獄山に辿り着く。煉獄は七つの〈冠〉で構成されて

いるのだが、その第五冠 5e cercle 〈貪欲者 avarice〉では、生前に欲深かった者たちが、五体を地面

に伏して嘆き悲しみ、それによって欲望を消滅させんとしている。その〈貪欲者〉で、ダンテと

ウェルギリウスは、ユーグ・カペー Hugues Capet(在位 987-996)に出会い、二人の旅人は、この

カペー朝の創始者から、彼の後の歴代のフランス国王に対する毒舌に満ちた概説を聞かされる。

これは、著者であるダンテのユーグ・カペーの血統全体に対する不信を表わし、さらにアナーニ

で教皇ボニファティウス八世 Boniface VIII(在位 1294-1303)を襲撃したフィリップ四世 Philippe

IV(在位 1285-1314)に対するダンテのアクチュアルな批判をも意味しているのだそうだ(1)。

このダンテとユーグ・カペーの邂逅が叙述されているのは、『煉獄篇』(伊 Purgatorio;仏 Le

Purgatoire)の第二十曲なのだが(2)、オノレ・ド・バルザック(1799-1850)と同時代人である歴史

家ジュール・ミシュレ(1798-1874)は、その著書『フランス史』の中で(3)、この『煉獄篇』第二

十曲を引用した後で以下のようなことを述べている。

Cette furieuse invective gibeline, toute pleine de vérités et de calomnies, c'est la plainte du vieux monde

mourant, contre ce laid jeune monde qui lui succède. Celui-ci commence vers 1300; il s'ouvre par la France, par

l’odieuse figure de Philippe le Bel.(4)

真実と中傷に満ち満ちた皇帝派のこの猛烈な罵倒、これは、かの醜く若き世界に対する、死に瀕し

た古き世界の嘆きである。この若き世界は 1300年頃に始まり、それはフランスから、フィリップ端

麗王の醜悪な姿から開いている。

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フィレンツェとフランドルの十字路

──『追放された者たち』における〈1308 年〉のパリ―─

加倉井  仁

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さらにミシュレは、ダンテの名を再び引き合いに出しながらこうも述べている。

[…] il fit la revue du monde fini, le classa, le jugea. Le Moyen Age, comme l'antiquité, comparut devant lui. Rien

ne lui fut caché. […] Le Moyen Age avait vécu; la vie est un mystère, qui périt lorsqu'il achève de se révéler. La

révélation, ce fut la Divina Commedia, […]. L'art vient ainsi terminer, fermer une civilisation, la couronner, la

mettre glorieusement au tombeau.(5)

彼(ダンテ)は終わった時代を再検討し、それを分類し、判断を下した。中世は、古代と同様に、彼

の前に姿を現した。何一つとして彼には隠されなかった。(……)中世は生き切ってしまったのだった。

生とは一つの神秘であり、謎とは、それが完全に明らかにされた時に滅びるのだ。こうした暴露、そ

れが『神曲』であった(……)。かくして芸術が訪れると、ひとつの文明を終え、文明を閉じ、それに

冠を与え、その文明を華々しく墓に入れるのである。

ミシュレによれば、ダンテが『神曲』で中世の秘密を暴露してしまったが故に、この時代に終止

符を打ってしまったのだそうだ。つまりミシュレの言う「死に瀕した古き世界」とは中世を、「醜

く若き世界」とは近代を指し示し、すなわち上記の引用箇所は、近代の始まりが 1300年頃のフィ

リップ四世時代だったことを意味している。

具体的に言うと、ミシュレが指摘している中世から近代への移行とは、1287年の聖職者の裁判

行為の禁止や高等法院の世俗化のような政教分離政策、1302年の三部会の招集、1303年のアナー

ニ事件での教皇ボニファティウス八世の捕縛、1307年のテンプル騎士団員の一斉逮捕に端を発す

るテンプル騎士団の壊滅、こうした近代的な官僚国家体制を背景にしたフィリップ四世の政策こそ

が、中世の象徴たる封建制度 féodalité・教皇制度 pontificat・騎士制度 chevalerieを解体していった

のである。

しかしここで注意しておきたいのは、ミシュレが、十四世紀初頭の〈近代〉を無条件に明るいも

のと見なしてはおらず、国王フィリップ四世を「悪魔 Diable」、その官僚である法曹家たち légistes

を「鉛と鉄の de plomb et de fer(6)」魂の持ち主、そしてフィリップ四世の政府を絶え間なく金を呑

み込む怪物と考えている点である(7)。

したがってフィリップ四世時代とは、ミシュレの肯定に値する近代が完全に到来した時期ではな

く、まだ中世色が残っていた時代で、いわば中世的なものと近代的なものが混交した時期と見なす

こともできるだろう。

そしてバルザックの『人間喜劇』が織り成す 91作品中でも最古の時代が物語の時代背景になっ

ている『追放された者たち』は(8)、〈1308年〉というフィリップ四世の統治時代、まさしく、この

中世と近代が混交した〈敷居〉的な時代が背景になった作品なのである。

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フィレンツェのダンテ

その名はダンテ

『追放された者たち』の時代背景は 1308年、当時のパリの人口は推定 22万 8千、西ヨーロッパ

で最大の人口を誇っていた(9)。そして物語の最初の場面はパリのシテ島 la Citéノートル =ダム

Notre-Dame界隈の表象から書き出され、ここに位置するパリの警吏ティールシェール Tirechairの

家の描写がなされている(10)。この家の二階の二部屋の片方には二十歳ほどの異邦人の若者が、別

の一部屋には同じく異邦の老人が住んでいる。実は、この老人は故国を追われた者で、彼はセーヌ

川の水面に映る落日を眺めながら、故国への思慕を若者に語っている。

« Je pleure mon pays, je suis banni ! Jeune homme, à cette heure même j'ai quitté ma patrie. […] une ville dont le

nom ne doit pas sortir de ma bouche. […] Ma chère patrie, pourquoi m'as-tu proscrit ? — Mais j'y triompherai ! »

[…]

Le vieillard était debout, dans une attitude prophétique et regardait dans les airs vers le sud, en montrant sa

patrie à travers les régions du ciel.(11)

「私は我が国に涙している、私は追放されたのだ! 若者よ、まさにこの時刻に、私は我が祖国を離れ

たのだ。(……)都市、その名は私の口から漏らしてはならない。(……)我が親愛なる祖国、何故に

汝は私を追放したのか?――だが、いつの日か私はそこで大勝利をおさめることになろう!」(……)

老人は預言者のような態度で佇み、空の南の彼方を眺め、空域を貫き、己が祖国を示していた。

老人が故国を偲ぶこの慨嘆は、『追放された者たち』という作品名を象徴的に表わし、そしてさ

らに、この老人が何者で、いったい何処から追放された者なのかという〈謎〉が、その物語内容を

牽引してゆくベクトルの一つになってさえいる。

物語の中でこの老人は、下宿の主人であるティールシェール夫妻には、悪魔と通じているに違い

ない摩訶不思議な怪しい人物とみなされているのだが、その一方で、パリ大学神秘神学教授シジ

エ・ド・ブラバン Siger de Brabantには丁重に扱われ、そして、天国に魅せられるあまり自殺を試

みた若者に対しては、天上への飛翔について詩人の言葉を以って語り、若者の気持ちを鎮めてい

る。

すなわちこの老人は、作品内で結末部に至るまで、作中人物からも語り手からも、不可思議な人

物、あるいは〈詩人〉として叙述され続けているのだ。しかし、小説の結末部でそれまで〈読者〉

に知らされていなかった事実が明らかにされる。その符丁が、老人と若者の耳に響く数頭の馬の蹄

の音で、この場面を語り手は次のように叙述している。

Les deux proscrits, les deux poètes tombèrent sur terre de toute la hauteur qui nous sépare des cieux. Le

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douloureux brisement de cette chute courut comme un autre sang dans leurs veines, mais en sifflant, en y roulant

des pointes acérées et cuisantes. Pour eux, la douleur fut en quelque sorte une commotion électrique.(12)

二人の追放者、二人の詩人は、我々を天空から分ける高みから地上に落ちた。この墜落の苦しい痛み

は、彼らの血管の中を別の血のように走ったのだが、鋭い音を立てながら、鋭利で痛切な尖端で血管

の中を駆け巡った。彼らにとってこの苦しみは、ある種の感電となった。

老人の許を訪れた兵士は、〈白党〉の勝利の結果、老人のフィレンツェ Florenceへの帰還が可能

になったことを伝達に来たのだ。このことにより、老人の出身地だけではなく、ここまでテクスト

の中で刻まれていなかった彼の名までもが〈読者〉に明らかにされる。

実は――

この老人はフィレンツェから追放された「ダンテ・アリギエーリ」その人だったのである。

フィレンツェの歴史とダンテ追放の経緯

ここで、『追放された者たち』の時代たる十三世紀末から十四世紀初のフィレンツェの状況とダ

ンテ追放の経緯を確認してみよう(13)。

フィレンツェは、金融業や製造業によって莫大な富を蓄積していった。もっとも裕福だったのは

毛織物組合で、十四世紀初めには約 3万人の労働者をかかえ、200の店舗を所有する程であった。

この時代の北イタリアの主要都市は、ただ単にそれぞれの地域の在地商業の中心都市としてだけで

はなく、地中海商業の拠点の一つとして遠隔地商業を展開し、こうした二重の商業的拠点となった

フィレンツェは経済的発展を迎え、それは 6万人という人口の多さとしても表われている(14)。

そして政治的には十三世紀の北イタリアは、ローマ教皇の教皇権を擁護するグェルフィ派と、神

聖ローマ帝国皇帝こそがヨーロッパにおいて絶対的な権威を持つという主張を支持する皇帝派のギ

ベリィーニ派という聖俗二大勢力が対立しており、イタリアの各都市は、このどちらかと結び付き、

派閥抗争を繰り広げていた。

とはいえども、一つの都市も一枚岩ではなく、たとえばフィレンツェでは、ブオンデルモンティ

家とドナーティ家はグェルフィ派に、アミデイ家とウベルティ家はギベリィーニ派に属し、一方が

勝利を収めると、他方が都市を追放される、そうした抗争が繰り返され、最終的にフィレンツェで

は教皇派が実権を握ったのだった。

こうした状況下、ダンテは、1280年代に教皇派のグェルフィ派の一員として、対皇帝派の軍務

につくようになり、たとえば、1289年のカンパルディーノの戦いで教皇派のフィレンツェと皇帝

派のアレッツォが争った際には、教皇派の騎兵隊の一員として参加している。そして、この戦いに

おいて教皇派のフィレンツェが勝利を収めたのであった。

やがてダンテは、1295年の中頃からフィレンツェの市政に携わるようになり、彼の人生は政治

生活に入ってゆく。そして 1300年 6月にダンテは、六人の執政官(プリオーレ)の一人に選出さ

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れ、市政を一期務めた。

しかしこの時期に、フィレンツェ教皇派(グェルフィ)は内部分裂していた。一つが、名門貴族

のコルソ・ドナーティが率い、貴族階級の味方をするグェルフィ黒党(ネーリ)で、もう一つは、

商人出身のヴィエーリ・デ・チェルキが代表し、商人階級を重視するグェルフィ白党(ビアンキ)

で、ダンテは白党に属していた。

この両派の政争が激化して、ついには 1301年秋、黒党と白党の間で実際に戦争が勃発した。こ

の政争の際にダンテは、偶然にもフィレンツェの外にいたのだが、フィレンツェの実権を握った黒

党によって、1302年にフィレンツェからの永久追放、戻ってきたら死刑の宣告を受け、その結果、

ダンテは流浪生活を余儀なくされたのである。

かくして、それまで政治生活を送っていたダンテは、本格的な文学生活に入ることになり、十九

年間の追放期間に『俗語詩論』、『饗宴』、『帝政論』、そして『神曲』などを執筆していったのだっ

た。

そして 1321年 9月 14日、ダンテはマラリアにかかりラヴェンナで没し、結局、フィレンツェへ

の帰還は叶わなかったのである。

1308 年パリ ダンテとシジエ

なるほど確かに、ダンテがフィレンツェから追放されたこと、それ自体は歴史的事実であり、

『追放された者たち』は、これをテクストに織り込んだ作品だと言える。しかしながら史実に照ら

し合わせてみると、この作品における虚構のダンテと現実のダンテとの間には幾つもの齟齬が認め

られる。

たとえば、『追放された者たち』の中では、フィレンツェから追放されたダンテが 1308年にパリ

に滞在した時の様子が描かれている。このエピソードのソースになっているのがボッカチオ

(1313-1375)の『ダンテ伝』内の記述なのだが、これには何ら確証はないらしい。したがって、

1308年のダンテとシジエ・ド・ブラバンの出会いは本来起こり得ないことなのだ。

ちなみに、このシジエに関してバルザックは『神秘の書』の「序文」の中でこう述べている。

Au douzième siècle (voyez Les Proscrits), le docteur Sigier professe, comme la science des sciences, la

Théologie Mystique dans l’Université, cette reine du monde intellectuel, à laquelle les Quatre Nations

catholiques faisaient la cour. Vous y voyez Dante venant faire éclairer sa Divine Comédie par l’illustre docteur

qui serait oublié, sans les vers où le Florentin a consacré sa reconnaissance envers son maître.(15)

十二世紀に(『追放された者たち』を見てください)(16)、シジエ博士は、知的世界の女王である大学で、

学問中の学問として神秘神学の講義をしていた。この大学にカトリックの四国民団が入っていた。読

者諸君は、そこにダンテがやって来て、著名な博士が自分の『神曲』に照明を当てるのを目にするの

です。その師に向かって、かのフィレンツェ人が自分の感謝を捧げた詩句がなかったならば、今頃博

士は忘れられていることでしょう。

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「『神秘の書』序文」のこの箇所は、『追放された者たち』の、「束の間の栄光が何になりましょ

う Qu’est une gloire passagère ?」と述べるシジエに対してダンテが「私は自分の感謝を永遠にした

いのですが Je voudrais éterniser ma reconnaissance」と応え、それを受けてシジエが「それでは、あ

なたの一行をお願いできないでしょうか? Eh bien, une ligne de vous ?」という、ダンテとシジエの

遣り取りと響き合っている(17)。この「あなたの一行」とは、ダンテが『神曲』の『天上篇』(伊

Paradiso;仏 Le Paradis)の第十歌でシジエの名を言及していることを指している(18)。

シジエは、1255年から 1257年の間、パリ大学で哲学を学び、その後、人文学教授になった人物

である。彼は、十一世紀の西方イスラム社会の代表的な哲学者イヴン・ルシュド Ibn Rudhd(ラテ

ン名:アヴェロエス Averroès 1126-1198)による解釈を通じて直接アリストテレス哲学を受け継ぐ

スコラ哲学、ラテン・アヴェロエス主義 Latin Averroïsmeの代表的な哲学者であった。これを主張

したのは、ドミニコ会やフランチェスコ会という十三世紀当時の二つの大修道会に属さないパリ大

学教授の聖職者たちで、シジエはその代表的な哲学者であった。そのため、1270年 12月 10日と

1277年 3月 7日にはパリ司教によって異端宣告を受け、オルビエト Orvietoの教皇庁に逃れたが、

そこで 1281年から 1284年の間に死んだとされる(19)。つまり史実という点から見た場合、シジエ

もまた〈追放された者たち〉の一人だと言えよう。

さて、シジエの没年が十三世紀後半ということは、物語内容の展開時である 1308年のパリにシ

ジエが存在することは明らかなアナクロニズムである。この現実と虚構の齟齬が、はたして著者で

あるバルザックの調査不足による事実誤認に由来するものであるかどうかは分からない。しかし事

実に反して、すでに死んでいるはずのシジエを十四世紀初頭に甦らせ、確証がないにもかかわらず、

ダンテをパリに滞在させたのは、虚構の中でダンテとシジエを出会わせ、シジエに「天国と地獄」、

「圏」、「内的天使」、「外的人間」、「宇宙の原理としての神」などに関する講義をさせることに(20)、

虚構上の意義を見出すことができるからであろう。

ちなみに確証はないのだが、ダンテが『地獄篇』(伊 Inferno;仏 L’Enfer)の執筆を始めたのは、

1308年か 1309年だと推測される(21)。つまり『追放された者たち』の時代背景である〈1308年〉

とは、ダンテが『神曲』に着手した時期とぴたり重なり合うのだ。

そしてここに、「『神秘の書』の序文」で、ダンテは「著名な博士(シジエ)が『神曲』に照明を

当てるのを目にする」とバルザック自身が述べていたことを考え合わせると、ダンテとシジエの出

会いとは、著者であるバルザックがシジエに託した己の世界観と、ダンテの『神曲』の世界観の照

応を意味していよう。これこそが、史実を改変させてまで、『神曲』にとって重要な〈1308年〉に

ダンテとシジエを出会わせた虚構上の理由ではなかろうか(22)。

ダンテ転生

『追放された者たち』の結末では、〈白党〉の勝利によってフィレンツェ帰還が可能になったダ

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ンテが「教皇派に死を!Mort aux Guelfes !(23)」と叫ぶ姿が描かれている。しかしここには、少なく

とも史実と虚構の相違が四つ確認できる。

先にダンテ追放の経緯の中で確認したように、1302年のフィレンツェ追放後、ダンテはフィレ

ンツェに二度と戻ることはなかった、これが一つ目の相違である。

そして、〈白党〉に属していたダンテが〈黒党〉によってフィレンツェから追放されたことは事

実で、追放直後の 1302年 6月の初めには白党の追放者たちと同盟を組み、フィレンツェへの侵入

を計画したり、この計画が失敗に終わった後、白党のフィレンツェ侵入の再計画のためにヴェロー

ナ(伊 Verona)を訪れたりしている。しかし 1304年の早春にダンテはそのヴェローナを去ってい

る(24)。このことは、ダンテと白党の追放者たちとの決定的な決裂を象徴するもので、その後のダ

ンテは特定の党派には属さず、〈一人一党〉主義を貫くことになる。したがって 1308年のダンテが

白党に属していたと断じることはできず、この点において史実と虚構の相違が認められる。

そして次に着目したいのは、兵士が語っている〈白党〉が勝利した事件についてである。史実を

参照すると、1308年にフィレンツェで事件が起ったのは確かである。

十四世紀初頭のフィレンツェで実権を握っていたのは教皇派(グェルフィ)・黒党(ネーリ)で、

コルソ・ドナーティが時の最高権力者になっていた。コルソは、ピサとルッカの領主ウグッチョー

ネ・デッラ・ファジョーラの娘と婚約し、その後ろ盾を得てフィレンツェの専制君主になろうとし

た。その結果、コルソは謀反人の烙印を押され、フィレンツェからの逃亡を余儀なくされ、1308

年 10月に死を迎えることになる(25)。すなわち、『追放された者たち』の中で言及されている事件

とは、おそらく、この黒党の最高権力者コルソの失権を指し示し、この点においては、史実が巧み

に虚構に嵌め込まれていると言えるかもしれない。しかしながら、史実である黒党首魁のコルソ・

ドナーティの失権は、実のところ〈白党〉の勝利を意味しているわけではなく、したがってこれは

語り手の拡大解釈だと考えられよう。

そして最後に取り上げたいのは、『追放された者たち』の結辞としてダンテが挙げた「教皇派に

死を!」という叫びである。ダンテは教皇派・白党(ブランキ)に属していて、その政敵が教皇

派・黒党(ネーリ)だったのだから、小説の結辞は、教皇派に対するものではなく、黒党に対する

怨嗟の叫びであってしかるべきだ。この点において、著者バルザックのフィレンツェの歴史におけ

る誤認が指摘できるかもしれない。

つまり、現実と虚構の整合性こそが善という写実的な点から見た場合、よりによって作品にとっ

て重要な結末部で、書き手は過ちを積み重ねてしまったということになる。

しかしである。

本論考では、これをテクストにとって不可欠な、作者による虚構上の修正とみなしたい。

『追放された者たち』では、1302年にフィレンツェから追放された政治家ダンテが、流浪の末

にパリにやって来て、『神曲』に着手したであろう 1308年に、パリ大学の神秘神学の教授シジエと

出会っている。すなわちここで描かれているダンテは、文学的な生活を送る、『神曲』の著者であ

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る詩聖ダンテの姿なのだ。

しかし、〈1308年〉にフィレンツェで勃発した教皇派・黒党の最高権力者コルソの失権によって、

ダンテのフィレンツェ帰還が可能になる。つまり、作品結末における兵士の来訪は、神学的な思想

に充ちた詩人の形而上の思索的な生活を、形而下の政治的な生活に突如変化させるものだった。し

たがって、結末部のダンテの姿は、テクストの大半において叙述されてきた〈詩人ダンテ〉ではな

く、〈政治家ダンテ〉としての現身であり、結末の叫びは、こう言ってよければ政治家に舞い戻っ

たダンテが発したものなのだ。

実のところ、この時期のダンテは詩人であっても、完全に政治を忘れたわけではなかった。ダン

テが『神曲』執筆中の〈1308年〉に、政治哲学の論文である『帝政論』を発表したことがその証

左であり、これは真の統治者像をテーマとしたラテン語の散文で、ダンテの政治に対する情熱の再

熱を意味している。つまり事実としても虚構としても、詩人ダンテの中に政治家ダンテは眠ってい

たのである。

それではテクストにおいて政治家ダンテが、教皇派を怨嗟の対象にしたのは何故なのだろうか。

ここで一つ史実を確認しよう。

1294年 12月にローマ教皇の座についたボニファティウス八世は、『神曲』の『地獄篇』におい

て、地獄に堕ちた教皇として、逆さに生き埋めにされている姿が描かれている。それほどまでに、

ダンテはこの教皇を憎悪していた。というのも、この教皇こそが、フィレンツェの支配を画策し、

この都市の教皇派の黒党と白党の内部分裂を扇動したからで、つまるところ、ダンテ追放の原因と

なる状況をつくったのが、他ならぬボニファティウス八世だったのだ(26)。

したがって、『追放された者たち』結末部の、フィレンツェに帰還可能になった、元教皇派・白

党の政治家ダンテの憎悪は、〈黒党〉に対するものというよりも、そして〈教皇派〉そのものに対

するものというよりも、教皇に、それも時の教皇クレメンス五世(在位 1305-1314)ではなく、教

皇派を分裂させた元凶である〈ボニファティウス八世〉に向けられたものであるように思われる。

そして再確認になるが、この叫びを挙げているのは、詩人ではなく、政治家ダンテなのである。

つまり、詩聖ダンテから、フィレンツェの政治家ダンテへの〈転生〉という『追放された者たち』

の結末部に照明を当てるには、たとえ歴史的事実に反して、〈白党〉を勝利させ、ダンテのフィレ

ンツェ帰還を可能にし、黒党ではなく、政治家ダンテの真の敵であった教皇ボニファティウス八世、

〈教皇派〉に対する怨嗟の叫びをダンテにあげさせる、そのような虚構的補正がテクストには必要

だったのではなかろうか。

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ガンのゴドフロワ

追放天使ゴドフロワの変化

再確認になるが、『追放された者たち』の主要作中人物は、異国の老人、すなわちフィレンツェ

出身のダンテと、おなじく異邦人の若者である。

語り手は、この若者を「この若きゴドフロワ、大学で勉強するためにフランドルからパリにやっ

て来た哀れな孤児 ce jeune Godefroid, pauvre orphelin venu de Flandre à Paris pour étudier à

l'Université(27)」と記述している。そして、このゴドフロワの許には、美しい貴婦人が頻繁に訪問し

ている。

そして、この若者もまた、作品名『追放された者たち』が表わすもう一人の追放者である。それ

では、フィレンツェから追放されたダンテに対して、若者は何処から追われたのであろうか。

ゴドフロワは「地上のいかなる国よりも美しい祖国をぼくは懐かしく思います。祖国、それを僕

は見たことはありません。でも、その記憶は持っています。(……)天国です je regrette une patrie

plus belle que toutes les patries de la terre, une patrie que je n'ai point vue et dont j’ai souvenir. […] Là-

haut(28)」と述べている。

このように天国への憧憬を述べる若者についてダンテは「この哀れな子供は自分を天国から追放

された天使と思っているのだ ce pauvre petit se croit un ange banni du ciel(29)」と考えている。

そしてテクストの中で語り手は、ダンテと若者を「一人は神であり、一人は天使であった L’un

était un Dieu, l’autre était un ange(30)」と叙述している。

さらに物語の中でゴドフロワは、天国に魅せられるあまり首を吊って自殺しようとする。しかし

彼のこの試みは失敗し、若者の肉体は地面へと落ちる(31)。この物理的な〈落下〉は、若者が自殺

によって辿り着こうとした天国から地上に追い返された〈転落〉と照応していると考えられよう。

すなわち『追放された者たち』の大部分においてゴドフロワは、作中人物からも語り手からも、

天から追放された天使として描かれているのである(32)。

しかしながら物語の結末部の兵士の登場によって老人の正体がフィレンツェから追放されたダン

テであることが明らかにされたように、突然出現した貴婦人がゴドフロワにこう打ち明けている。

« Viens, mon enfant, mon fils ! il m'est maintenant permis de t'avouer ! Ta naissance est reconnue, tes droits

sont sous la protection du Roi de France, et tu trouveras un paradis dans le cœur de ta mère. »(33)

「いらっしゃい、わが子よ、わが息子よ! 今こそあなたに告げることが私には許されたのです!

あなたの出生が認められ、あなたの権利はフランス王の保護下にあり、そしてあなたは、天国が母の

心の中にあるのが分かるでしょう」

この場面で、夫人と若者が母子であるという未知の事実が、作中人物であるゴドフロワに知らさ

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れ、読者には、それまで仄めかしに過ぎなかった二人の関係について確証が与えられている。さら

に、この結末の場面は、作品冒頭部でマオ伯爵夫人がゴドフロワの部屋で「ガン伯爵ゴドフロワ

Gothofredus, comes Gantiacus ( « Godefroid, comte de Gand » )(34)」と書かれた羊皮紙を見つけた場面と

響き合って、若者の正体が認証される仕掛けになっている。

結末部では、老人がフィレンツェのダンテであることが〈認知(アナグノーリシス)〉されるこ

とによって、〈逆転(ペリペティア)〉がおこり、詩聖ダンテから政治家ダンテに突然変化したよう

に、若者がマオ伯爵夫人の息子で、ガン伯爵家のゴドフロワであることが〈認知〉された結果、ゴ

ドフロワにも突如変化が起こっている(35)。

ここで忘れずに指摘しておくならば、『追放された者たち』は(36)、1831年 5月に『パリ評論』に

掲載されたプレ・オリジナル版や、あるいは、同年 9月の『哲学的小説・コント集』Romans et

contes philosophiquesに収められた初版の段階には、先に引用した「ガン伯爵ゴドフロワ」という

箇所は存在せず、これは、1836年の 1月にヴェルデWerdetから発行された『神秘の書』Le Livre

mystiqueの第二版において初めて書き加えられたものなのだ(37)。そしてこの加筆の結果、修正前

と修正後において、結末に仕掛けられた効果に違いが生じている。

すなわち修正以前の結末部の〈認知〉によって起こっている〈逆転〉は、マオ夫人とゴドフロワ

の母子関係の認知という一点のみであった。これに対して 1836年の加筆後は、この母子関係の明

示に、ガン伯爵フランドルという、より具体的な情報が付加されている。

すなわち『追放された者たち』の結末部における兵士や貴婦人の登場は、二人の追放者・二人の

詩人の変化の符丁になり、このことは、二人の詩人の天上から地上への墜落を意味しているように

思われる。つまりダンテにおいては、「翻訳する詩人 le poète qui traduit」からフィレンツェの政治

家への変化、これに対して「感じる詩人 le poète qui sent」であるゴドフロワにおいては、天から追

放された天使から、ガン伯爵家の者への変化、こうした聖なる者から俗なる者への突然の変化を表

わしているのではなかろうか。

『追放された者たち』におけるベルギー

『追放された者たち』には、物語が展開しているパリ、ダンテの出身地であるフィレンツェとい

う、この時代のヨーロッパの二大都市のみならず、さまざまな形で〈フランドル〉の要素がテクス

トに織り込まれている。たとえば、パリの警吏ティールシェールが提供している貸し部屋には「フ

ランドルのタペストリー tapisseries de Flandre(38)」が掛けられている。さらには、この作品の主要作

中人物の一人であるゴドフロワはフランドル出身で、その正体はガン伯爵家の人間であった。ここ

に、ベルギーという観点も付加すると、シジエ・ド・ブラバンも忘れずに取り上げねばならない。

シジエは、そのブラバンという姓からも推察できるように、正確な生誕地は特定できないのだが、

フランドル地方と隣接したブラバン公爵領の生まれだからである。ここでついでに指摘しておくな

らば、1835年の『神秘の書』第一版に付された「序文」の中で、著者であるバルザックは次のよ

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うに述べてもいる。

Trois mille exemplaires du Livre mystique seront frauduleusement vendus par la voleuse Belgique au détriment

des libraires français, […].(39)

『神秘の書』三千部は、フランスの出版業者を犠牲にして、泥棒を働くベルギーによって、不法に販売

されている(……)。

『追放された者たち』がその第一作になっている「『神秘の書』序」では、ベルギーのブリュッ

セルで海賊版が作られることによって、フランスの作家が搾取されるがままになっている状況に、

著者であるバルザックは大きな憤りを覚えているのだ。このように『追放された者たち』には、さ

まざまなレヴェルで、テクストの中にベルギーの要素が入っている。しかし焦点を絞ってフランド

ルのガンに照明を当ててみると、この地域や都市はゴドフロワの出身地として言及されるのみなの

で、さらなるテクスト理解のために、物語の時代背景となる十三世紀末から十四世紀初頭のフラン

ドルやガンの歴史について確認する必要がここに出てくる(40)。

十三世紀末から十四世紀初のフランドル・ガン

フランドル(蘭 フランデン)地方は経済的に発展し(41)、早い時期から都市化された地域であっ

た。十三世紀から十五世紀のフランドル都市史研究によれば、この時期のフランドル伯領には約五

十の都市が存在していたという。そのうち 2万を超えていたのが(42)、西フランドルの人口 5万の

ブリュージュ Bruges(蘭 ブルッヘ Brugge)と 3万のイープル Ypres(蘭 イープル Ieper)、そして

東フランドルの 4万 2千のガン Gand(蘭ヘント Gent)である。

そのフランドルを代表する三大都市の一つであるガンは、地理的には、エスコー Escaut(蘭 ス

ヘルデ Schelde)川とリス Lys(蘭 レイエ Leie)川という南北を貫く二つの河川の合流点に位置し、

神聖ローマ帝国の主要地域の一つである、中部ラインラント(ドイツ西部、ライン川沿岸の一帯)

と北海を東西に結ぶ商業ルートの結節点に位置していたため、早い時期から、フランドル地方にお

ける最大の商業都市の一つとしての地位を占めていた。そして十二世紀以降に発達した運河による

水運網の形成によって、ガンはフランドル伯領だけではなく、南のエノー伯領、東のブラバン公領、

北部のホラント伯領と共に、経済的に密接な関係を形成していたのだった。

十二世紀から十三世紀の間の西ヨーロッパの主要都市は、ただ単にそれぞれの地域の在地商業の

中心都市としてだけではなく、ガンのようなフランドル都市は北海・バルト海商業の拠点となり遠

隔地商業も展開していた。つまり、現地の羊毛による毛織物生産の他に、イングランド産の羊毛を

原料とする様々な種類の高品質の毛織物を生産し、ポーランドからイタリアに至る広範な販路を得

て、二重の商業的拠点となったガンは経済的繁栄を迎えていたのだった。

このように経済的に繁栄した、豊かなフランドルを巡って、フランス・イングランドの両国は覇

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権を争うことになったのである(43)。

フィリップ二世(在位 1180-1223)以来、フランドルはフランスの宗主権の下にあったのだが、

フランドル伯ギー・ド・ダンピエール Gui de Dampierre(1226-1305:在位 1253-1305)はイングラ

ンドとの同盟を画策し、娘のフィリッパをイングランドの王太子エドワード(のちのエドワード二

世)に嫁がせようとした。しかしフランス国王がこれを妨害、フィリップ四世は、フランドル伯に

破談を強要したが、ギーはこれを拒否し、フランドルはイングランドと結んでフランスに抵抗、か

くして英仏間の対立は深まっていったのである。

はじめのうちこそ両国の戦いは、武力衝突ではなく、外交において展開されていたのだが、1297

年にフィリップ四世はフランドルの併合を宣言し、ここに侵攻、ヴァロワ伯シャルルが率いたフラ

ンス軍はフランドルを占領し、1300年フランドル伯ギーを捕え、彼の代わりにフランドル総督の

地位に就いたのがジャック・ド・シャティヨン Jacques de Châtillonであった。しかしながら、この

フランドル総督の支配があまりにも苛烈だったため、1302年 3月 21日にブリュージュで反乱がお

こり、4000名のフランス人が虐殺され、フランス勢力はフランドルから駆逐された。

しかしこれがフランス軍のフランド再侵攻の引き金になった。

フィリップ四世はアルトワ伯ロベール二世をフランドルに派遣した。このフランス軍に対して、

フランドルは、ガン、ブリュージュ、イープルなどが中心になって同盟を組み抵抗した。

迎え撃つフランドル軍は、1302年 7月 11日、クルトレー Courtrai(蘭 コルトレイク Kortrijk)

近郊でフランス軍を迎えた。そして圧倒的な戦力差があったにもかかわらず、ガン、ブリュージュ

を中心とするフランドル諸都市の歩兵中心の市民・農民連合軍が、騎士を中心とするフランス軍に

勝利し、フランスのフランドルへの介入をおしとどめたのである。これがクルトレーの戦い、別名

金拍車の戦い Bataille des éperons d’orである(44)。

この戦いの後、「レリアールツ Leliaerts」と呼ばれていた、フランス王側についていたガンの都

市貴族は一次的に都市から追放されることになった。とはいえども、この追放は一次的なもので、

都市貴族の多くは数年以内にガンに戻ったという(45)。

そして 1305年、フランス王国とフランドル伯の間にアティス・シュル・オルジュ Athis-sur-Orge

の和平が成立すると、新しいフランドル伯ロベール三世 Robert III de Flandre、ダンピエール家

Maison de Dampierreのロベール・ド・ダンピエール Robert de Dampierre(在位 1305-1322年)に伯

領を付与する代わりに、フランス国王フィリップ四世は、フランドルの全ての都市の城壁を破壊し

たのであった。

こうした十四世紀初頭のフランドルの歴史的状況は、1308年を時代背景とした『追放された者

たち』のテクストの中に織り込まれているように思われる。すなわち、フランドルのガンからパリ

にやって来ていたゴドフロワが虚構人物であるのは確かで、テクストに彼の姓は記述されていない。

しかし『追放された者たち』の時代設定が 1308年で、この時点でゴドフロワが二十歳くらいとい

うことは、彼は 1280年代後半の生まれで、その父はこの時期にフランドル伯の地位にあった人物

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ということになる。ここでフランドル伯の史実を参照すると、該当するのは、イングランドと手を

組もうとしてフランス王国のフランドル侵攻の口実をつくり、1300年にフランスに捕えられ、フ

ランドルを追われた、あのフランドル伯ギー・ド・ダンピエールということになろう。つまりフラ

ンドルの孤児ゴドフロワもまた、父であるギー同様に、フランドルからの追放者とみなすこともま

たできるのではなかろうか。

三都市物語

1308年を時代背景にした『追放された者たち』は、『人間喜劇』の『哲学的研究』に分類され、

『ルイ・ランベール』や『セラフィタ』と共に『神秘の書』の一角をなし、物語の中では、パリ大

学教授のシジエの講演の中に認められるようにバルザックの世界観が展開され、『神曲』を執筆中

のダンテや、天から追放された天使として描かれているゴドフロワが登場している、いわば、形而

上的・神秘的な作品であるのは確かである。しかしながら、この作品はその結末部において、天上

から地上への失墜が突如おこり、テクストは聖から俗なものへの、哲学的な小説から風俗小説への

変化を遂げ、それは『追放された者たち』の中では、ダンテの詩人から〈フィレンツェ〉の政治家

への変化、ゴドフロワの天使から〈フランドル・ガン〉の貴族への変化として表象されている。つ

まり、この作品にはパリ・フィレンツェ・ガンという三つの都市が出てきているのだ。

そしてここでさらに注意したいのは、物語の時代背景になっているのが〈1308年〉という点で

ある。十四世紀初とは、ミシュレが指摘しているように、フランス・パリにおいては、フィリップ

四世のさまざまな政策により中世から〈近代〉への移行がなされていた過渡的な時期であった。そ

して北イタリア・フィレンツェから追放されたダンテの『神曲』は、その内容の暴露的性質ゆえに

中世に終止符を打ってしまった作品であった。そしてクルトレー(蘭 コルトレイク)の戦いの結

果、フランドル都市の統治システムは、都市貴族による支配からギルドを中心とした自治体制への

構造転換を果たし(46)、このことはフランドルの〈近代〉化を意味しているとも考えられる。

すなわち『追放された者たち』とは、中世から近代への過渡期である〈1308年のパリ〉という

混交的な時空間において、イタリアのフィレンツェの追放者とフランドルのガンの追放者が邂逅す

る物語になっていて、こう言ってよければ、ダンテやゴドフロワは擬人化された都市で、この点か

ら、『人間喜劇』最古の物語は、中世と近代の〈敷居〉的状況にあるフランス・パリ、イタリア・

フィレンツェ、フランドル・ガンが交差する〈三都市物語〉になっているように思われる。

(1) ルイス,R. W. B.著,三好みゆき訳『ダンテ』,東京:岩波書店,2005年,p. 156.

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(2) DANTE, Œuvres complètes, Paris : Gallimard, (« Bibliothèque de la Pléiade »), 1983, pp. 1254-1263.

(3) Cf. MICHELET, Jules, « Chapitre II Philippe le bel - Boniface VIII. 1285-1340. », in Histoire de France, Livre

V, in Œuvres complètes de Michelet V, Paris : Flammarion, 1975, pp. 54-87.

(4) Ibid., p. 54.

(5) Ibid., p. 66.

(6) Ibid., p. 58 et p. 75.

(7) Cf. ミシュレ,ジュール著,立川孝一訳『フランス史』II,東京:藤原書店,2010年,p. 12.

(8) Cf. BALZAC, Honoré de, La Comédie humaine : Nouvelle édition publiée sous la direction de Pierre-Georges

CASTEX, Paris : Gallimard, 1976-1981, 12 vol. (« Bibliothèque de la Pléiade »).本論考における『人間喜劇』

からの引用は全て プレイヤード新版(Pléiade)からで、参照する場合には巻数をローマ数字で、ペー

ジをアラビア数字であらわす。

(9) Cf. CHANDLER, Tertius, 3000 years of urban growth, New York : Academic Press, 1974, p. 118.

(10) Cf. Les Proscrits, Pl. XI, p. 525.

(11) Ibid., pp. 545-546.

(12) Ibid., p. 554.

(13) Cf. ルイス,R. W. B.著,三好みゆき訳『前掲書』,pp. 3-13,pp. 74-90;中嶋浩郎・中嶋しのぶ『フ

ィレンツェ歴史散歩』,東京:白水社,2006年,pp. 36-50,p. 65.

(14) Cf. CHANDLER, Tertius, op. cit., p. 86.

(15) Préface du « Livre mystique », Pl. XI, p. 504.

(16) この年代はあきらかな過ちで、歴史的事実としてシジエは十三世紀の人間で、虚構のシジエが登場

する『追放された者たち』の時代設定もまた、十二世紀ではなく、1308年だからである。

(17) Les Proscrits, Pl. XI, p. 544.

(18) DANTE, op. cit., p. 1447.

(19) Cf. STEENBERGHEN, Fernand van, Maître Siger de Brabant, Belgique : Louvain, Publications universitaires,

(Philosophes médiévaux, t. XXI), 1977, pp. 432-433; PUTALLAZ, François-Xavier, IMBACH, Ruedi,

Profession : philosophe : Siger de Brabant, Paris : Editions du Cerf, 1997, pp. 23-26, pp. 65-67 et pp. 145-147.

(20) 『追放された者たち』のシジエの講義内容には、ダンテの『神曲』とスウェーデンボルグの『天界

と地獄』が混じり合い、素描されており、バルザックは、スウェーデンボルグ思想を早い段階からダ

ンテと関連させて受容しているという。Cf. 大須賀沙織「『神秘の書』をつなぐテーマ」,『神秘の書』

所収,東京:水声社,2013年,p. 403.

(21) ルイス,R. W. B.著,三好みゆき訳『前掲書』,p. 107.

(22) シジエとダンテの出会いが事実に反しているという指摘は既に幾つかの論考でなされている。Cf.

GUISE, Runé, « Notes et variantes des Proscrits », Pl. XI, pp. 1461-1462;安士正夫「解説」,『バルザック

全集』3所収,東京:東京創元社,1973年,p. 314;私市保彦「地上から天上を貫いて」,『神秘の書』

所収,東京:水声社,2013年,pp. 418-419.

(23) Les Proscrits, Pl. XI, p. 555.

(24) Cf. ルイス,R. W. B.著,三好みゆき訳『前掲書』,pp. 91-95;中嶋浩郎・中嶋しのぶ『前掲書』,p. 46.

(25) 中嶋浩郎・中嶋しのぶ『前掲書』,pp. 47-48.

(26) 歴史的に言えば、ボニファティウス八世は、1303年のアナーニ事件によって、時のフランス国王フ

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ィリップ四世に逮捕され、1303年に没しており、1308年時点の教皇は、1305年に教皇庁をフランス

のアヴィニョンに移したフランス人のクレメンス五世であった。

(27) Les Proscrits, Pl. XI, p. 530.

(28) Ibid., p. 546.

(29) Ibid., p. 547.

(30) Ibid., p. 534.

(31) Cf. Ibid., p. 548.

(32) 〈天を追われた者〉という概念はプラトンに発し、キリスト教世界に浸透し、それがスウェーデン

ボルグの天使論と合流し、バルザックの中に定着したそうだ。Cf. 大須賀沙織「前掲論文」,pp. 406-

407.

(33) Les Proscrits, p. 555.

(34) Ibid., p. 535.

(35) 〈認知〉と〈逆転〉の概念に関しては、アリストテレスの「詩学」の第十一章を参照のこと。Cf. ア

リストテレス著,松本仁助・岡道男訳,「詩学」,東京:岩波書店,1997年,pp. 47-49.

(36) 『追放された者たち』のテクスト生成に関しては以下を参照した。Cf. « Histoire du texte » des

Proscrits, Pl. XI, pp. 1451-1454 ; VACHON, Stéphane, Les travaux et les jours d’Honoré de Balzac :

chronologie de la création balzacienne, Paris : CNRS, 1992, pp. 110-114 et p.153.

(37) Cf. « Notes et variantes » des Proscrits, Pl. XI, p. 1460.

(38) Les Proscrits, Pl. XI, p. 526.

(39) Préface du « Livre mystique », Pl. XI, p. 508.

(40) Cf. 河原温『中世フランドルの都市と社会』,八王子:中央大学出版部,2001年,pp. 10-14;河原温

『ブリュージュ:フランドルの輝ける宝石』,東京:中央公論新社,2006年,pp. 15-17.

(41) 地名の表記に関して、現在のベルギーにあたる、北ベルギーのフランドル(蘭:フランデン)地方

は、現在オランダ語圏なので、オランダ語の読み方とスペルで記述するべきなのだが、本論考がフラ

ンス文学に関するものであるという点から、フランス語の読み方とスペルで表記し、オランダ語の読

み方とスペルは(蘭)と丸括弧の中で示す。

(42) Cf. CHANDLER, Tertius, op. cit., pp. 125-128.

(43) Cf. MICHELET, Jules, op. cit., pp. 59- 64 et pp. 73-76.

(44) この戦いは「金拍車の戦い」とも呼ばれている。というのも、落馬したフランス軍騎士から多数の

金の拍車がフランドル市民・農民連合軍兵士の手に渡ったためである。そしてこの戦いは、歩兵が騎

兵を、市民軍が騎兵を打ち破ったという意味において戦史的に重要な戦いである。Cf. 河原 温『ブリ

ュージュ:フランドルの輝ける宝石』,p. 16;青谷秀紀『記憶のなかのベルギー中世:歴史叙述にみ

る領邦アイデンティティの生成』,京都:京都大学学術出版会,2011年,pp. 39-40.

(45) 河原温『中世フランドルの都市と社会』,p. 24.

(46) 青谷秀紀『前掲書』,p. 228.

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