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N a n k i c h i N i i m i 4調11 16 宿26810 15 67811 12 13 14 1913 1917 1919 1921 1926 1931 1932 1933 1936 1937 1938 1939 46813 18 19 20 23 24 25 26 730 45824大正 昭和 02 25 安城高等女学校19回生 入学記念写真(昭和13 年5月25日) 左端が南 吉。南吉は、着任した年に 入学した19回生の学年 担任となり、以後卒業まで 4 年 間 、最も親 密な交 流 があった 2 7 30 4 8 16 稿7 1 4 10 11 調13

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Na

nk

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hi

N

ii

mi

知多郡半田町に生まれる

父・渡辺多蔵、母・りゑの二男で、「正

八」と名付けられる

母・りゑが病気で亡くなる

継母・志んが来て、弟・益吉が生まれる

母の実家・新美家の養子となるが、

4ヶ月ほどで渡辺家に戻る

県立半田中学校へ入学

半田中学卒業

半田第二尋常小学校の代用教員を勤

める

『赤い鳥』に『正坊とクロ』『張紅倫』入選

東京外国語学校英語部文科入学

『赤い鳥』に『ごん狐』入選

『手袋を買ひに』を書く

東京外国語学校卒業

東京で東京土産品協会に勤めるが、

体調が悪化して11月には帰郷

河和第一尋常高等小学校の代用教員

を勤める

杉治商会畜禽研究所に住み込みで勤

務する安

城高等女学校に赴任、一年生

を担任

16回生の修学旅行に付き添う

(東京、日光、長野方面)

滝山寺へ生徒を連れて自転車旅

行に行く

生徒詩集第一集『雪とひばり』発

行(以後六集まで)

新田町字出郷にて大見坂四郎

方に下宿

村積山へ遠足に行く

哈爾濱日日新聞へ寄稿を始める

18回生の関西旅行に付き添う

富士登山、画帖『六根晴天』『六

根清浄』を描く

伊豆大島、東京方面視察旅行に

行き、画帖『筆勢非凡』を描く

職員と宮路山へピクニックに行く

19回生の関西旅行に付き添う

小説『大力の黒牛と貨物列車の

話』(『百牛物語』)を書く

岩津天神へ遠足に行く

過労から肝臓を患い一時病床につく

伝記『良寛物語

手毬と鉢の子』

出版

腎臓結核悪化、血尿出る

19回生の生徒の卒業に際し色紙

に句を書く

級報『雪とひばり』発行

童話『花のき村と盗人たち』を

書く

童話集『おぢいさんのランプ』出版

勤務先をしばしば休む

このころより病状悪化により学

校欠勤長

期欠勤のため安城高等

女学校退職

父・多蔵宛ての遺言状を書く

巽聖歌に未発表の作品をすべて送る

喉頭結核のため29歳7ヶ月

で永眠 法名・釈文成

  童話集『牛をつないだ椿の木』『花

のき村と盗人たち』出版

  安城高等女学校の中庭に、教え

子たちによって「ででむし詩碑」が建て

られる

2年

6年

8年

10年

15年

6年

7年

8年

 

11年

12年

13年

14年

 

15年

16年

17年

18年

23年

(1913

(1917

(1919

(1921

(1926

(1931

(1932

(1933

(1936

(1937

(1938

(1939

(1940

(1941

(1942

(1943

(1946

4歳

6歳

8歳

13歳

18歳

19歳

20歳

23歳

24歳

25歳

26歳

27歳

28歳

29歳

●●●●●●●●●●●●●●●●●

7月30日

4月

5月

8月

2月

4月

4月

5月

5月

7月

8月

3月

4月

3月

3月

10月

12月

3月

5月

5月

10月

11月

1月

2月10日

3月22日

9月

11月 新

美南吉

【生涯年表】

大正昭和新美南吉の

安城時代

わたなべたぞう

すぎじしょうかいちくきんけんきゅうじょ

こうわ

しんでんちょうあざでごう

おおみさかしろう

むらづみやま

ぬすびと

ろっ

こんしょうじょう

ろっこんせいてん

ひっせいひぼん

しゃくぶんじょう

年齢は数え年で表記しています。

0203

童話『ごんぎつね』の作者である新美南吉。愛知県半田市の出身であることはよく知られていま

すが、実は、安城にとってもゆかりの深い人物です。平成25年は、南吉生誕百年。南吉はどんな一

生を送ったのでしょうか。安城では、どのように過ごしていたのでしょうか。

安城高等女学校19回生入学記念写真(昭和13年5月25日) 左端が南吉。南吉は、着任した年に入学した19回生の学年担任となり、以後卒業まで4年間、最も親密な交流があった

岩津天神への遠足(昭和16年3月10日) 教え子たちにまじって楽しそうな様子の南吉。笑顔の南吉を見ることのできる貴重な写真

ででむし詩碑

安城高等女学校の校舎の前で木に寄りかかっているところ(昭和16年3月の写真より)

宮みやじさん

路山ピクニック(昭和15年3月25日)右から2人目が南吉。同僚の大村先生

(右端)の送別として宮路山へピクニックに行き、その山頂で撮ったと思われる

作家として、教師として。

安城は、南吉が過ごした「第二のふるさと」。

生い立ちと児童文学への道

 

新にい

美み

南なん

吉きち(本名正しょうはち八)は、大正2

(1913)年7月30日、知多郡半田町

(現半田市)で生まれました。4歳で

母を亡くし、8歳で母方の実家「新美

家」の養子に入るなど、複雑な少年時

代を送りました。この頃の孤独や母への

憧れは、後の作品に垣間見ることがで

きます。

 

南吉は、16歳の頃から、若手作家の

登竜門であり日本を代表する児童雑

誌『赤い鳥』に作品を投稿し始め、昭和

7年1月号には『ごん狐』が掲載。この

頃からペンネームの「南吉」が定着して

いきました。同年4月、東京外国語学

校英語部文科に入学。東京で巽たつみせいか

聖歌

19回生の担任になり、卒業までの4年

間を受け持ちました。特に作文や詩の

指導に熱心でした。生徒に作文を書か

せては丁ていねい寧に添てんさく削し、また生徒の日記

にも言葉を添え、そしてそのやりとり

から創作のヒントを得ることもありま

した。哈ハルピン

爾濱日日新聞の記者になった

江口榛一からの依頼を機に作品を次々

に執しっぴつ筆したのもこの頃で、昭和16年に

初の単行本『良りょうかんものがたり

寛物語 

手てまり毬と鉢はちの

子こ

』が、昭和17年には初の童話集『おぢ

いさんのランプ』が出版されました。と

ころが、同年11月頃から体調が悪化し、

翌昭和18年2月には安城高等女学校

や与よだじゅんいち

田準一、江えぐちしんいち

口榛一などとの交流を通

して、文学活動の世界を広めていきま

した。

創作活動や、同僚や生徒との交流に

最も充実していた「安城時代」

 

南吉の東京生活は、昭和10年11月に

体調を崩して帰郷したことで終わりま

す。半田で会社勤めなどをするも労働

も過酷で、経済的にも精神的にも苦し

かったようです。そんなとき、中学時代

の恩師の尽力で安城高等女学校の教員

になることができました。昭和13年4

月のことでした。

 

安城高等女学校では英語・国語・農

業を教えるほか、着任時に入学した

を退職します。そして同年3月22日、

喉こうとうけっかく

頭結核で29歳7ヶ月の生涯を閉じま

した。

 

昭和23年、元同僚や教え子たちに

よって、安城高等女学校の中庭に南吉の

詩が刻まれた「ででむし詩碑」が建てら

れました。南吉の顕けんしょうひ

彰碑第1号です。

 

南吉が安城で過ごした5年間は、教

員という社会的地位を得て経済的に

安定し、さらに教え子との交流から精

神的にも充実していました。この「安城

時代」は、新美南吉が最も輝いた時期

ともいえるのです。

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Na

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知多郡半田町に生まれる

父・渡辺多蔵、母・りゑの二男で、「正

八」と名付けられる

母・りゑが病気で亡くなる

継母・志んが来て、弟・益吉が生まれる

母の実家・新美家の養子となるが、

4ヶ月ほどで渡辺家に戻る

県立半田中学校へ入学

半田中学卒業

半田第二尋常小学校の代用教員を勤

める

『赤い鳥』に『正坊とクロ』『張紅倫』入選

東京外国語学校英語部文科入学

『赤い鳥』に『ごん狐』入選

『手袋を買ひに』を書く

東京外国語学校卒業

東京で東京土産品協会に勤めるが、

体調が悪化して11月には帰郷

河和第一尋常高等小学校の代用教員

を勤める

杉治商会畜禽研究所に住み込みで勤

務する安

城高等女学校に赴任、一年生

を担任

16回生の修学旅行に付き添う

(東京、日光、長野方面)

滝山寺へ生徒を連れて自転車旅

行に行く

生徒詩集第一集『雪とひばり』発

行(以後六集まで)

新田町字出郷にて大見坂四郎

方に下宿

村積山へ遠足に行く

哈爾濱日日新聞へ寄稿を始める

18回生の関西旅行に付き添う

富士登山、画帖『六根晴天』『六

根清浄』を描く

伊豆大島、東京方面視察旅行に

行き、画帖『筆勢非凡』を描く

職員と宮路山へピクニックに行く

19回生の関西旅行に付き添う

小説『大力の黒牛と貨物列車の

話』(『百牛物語』)を書く

岩津天神へ遠足に行く

過労から肝臓を患い一時病床につく

伝記『良寛物語

手毬と鉢の子』

出版

腎臓結核悪化、血尿出る

19回生の生徒の卒業に際し色紙

に句を書く

級報『雪とひばり』発行

童話『花のき村と盗人たち』を

書く

童話集『おぢいさんのランプ』出版

勤務先をしばしば休む

このころより病状悪化により学

校欠勤長

期欠勤のため安城高等

女学校退職

父・多蔵宛ての遺言状を書く

巽聖歌に未発表の作品をすべて送る

喉頭結核のため29歳7ヶ月

で永眠 法名・釈文成

  童話集『牛をつないだ椿の木』『花

のき村と盗人たち』出版

  安城高等女学校の中庭に、教え

子たちによって「ででむし詩碑」が建て

られる

2年

6年

8年

10年

15年

6年

7年

8年

 

11年

12年

13年

14年

 

15年

16年

17年

18年

23年

(1913

(1917

(1919

(1921

(1926

(1931

(1932

(1933

(1936

(1937

(1938

(1939

(1940

(1941

(1942

(1943

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4歳

6歳

8歳

13歳

18歳

19歳

20歳

23歳

24歳

25歳

26歳

27歳

28歳

29歳

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7月30日

4月

5月

8月

2月

4月

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5月

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7月

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3月

4月

3月

3月

10月

12月

3月

5月

5月

10月

11月

1月

2月10日

3月22日

9月

11月 新

美南吉

【生涯年表】

大正昭和新美南吉の

安城時代

わたなべたぞう

すぎじしょうかいちくきんけんきゅうじょ

こうわ

しんでんちょうあざでごう

おおみさかしろう

むらづみやま

ぬすびと

ろっ

こんしょうじょう

ろっこんせいてん

ひっせいひぼん

しゃくぶんじょう

年齢は数え年で表記しています。

0203

童話『ごんぎつね』の作者である新美南吉。愛知県半田市の出身であることはよく知られていま

すが、実は、安城にとってもゆかりの深い人物です。平成25年は、南吉生誕百年。南吉はどんな一

生を送ったのでしょうか。安城では、どのように過ごしていたのでしょうか。

安城高等女学校19回生入学記念写真(昭和13年5月25日) 左端が南吉。南吉は、着任した年に入学した19回生の学年担任となり、以後卒業まで4年間、最も親密な交流があった

岩津天神への遠足(昭和16年3月10日) 教え子たちにまじって楽しそうな様子の南吉。笑顔の南吉を見ることのできる貴重な写真

ででむし詩碑

安城高等女学校の校舎の前で木に寄りかかっているところ(昭和16年3月の写真より)

宮みやじさん

路山ピクニック(昭和15年3月25日)右から2人目が南吉。同僚の大村先生

(右端)の送別として宮路山へピクニックに行き、その山頂で撮ったと思われる

作家として、教師として。

安城は、南吉が過ごした「第二のふるさと」。

生い立ちと児童文学への道

 

新にい

美み

南なん

吉きち(本名正しょうはち八)は、大正2

(1913)年7月30日、知多郡半田町

(現半田市)で生まれました。4歳で

母を亡くし、8歳で母方の実家「新美

家」の養子に入るなど、複雑な少年時

代を送りました。この頃の孤独や母への

憧れは、後の作品に垣間見ることがで

きます。

 

南吉は、16歳の頃から、若手作家の

登竜門であり日本を代表する児童雑

誌『赤い鳥』に作品を投稿し始め、昭和

7年1月号には『ごん狐』が掲載。この

頃からペンネームの「南吉」が定着して

いきました。同年4月、東京外国語学

校英語部文科に入学。東京で巽たつみせいか

聖歌

19回生の担任になり、卒業までの4年

間を受け持ちました。特に作文や詩の

指導に熱心でした。生徒に作文を書か

せては丁ていねい寧に添てんさく削し、また生徒の日記

にも言葉を添え、そしてそのやりとり

から創作のヒントを得ることもありま

した。哈ハルピン

爾濱日日新聞の記者になった

江口榛一からの依頼を機に作品を次々

に執しっぴつ筆したのもこの頃で、昭和16年に

初の単行本『良りょうかんものがたり

寛物語 

手てまり毬と鉢はちの

子こ

』が、昭和17年には初の童話集『おぢ

いさんのランプ』が出版されました。と

ころが、同年11月頃から体調が悪化し、

翌昭和18年2月には安城高等女学校

や与よだじゅんいち

田準一、江えぐちしんいち

口榛一などとの交流を通

して、文学活動の世界を広めていきま

した。

創作活動や、同僚や生徒との交流に

最も充実していた「安城時代」

 

南吉の東京生活は、昭和10年11月に

体調を崩して帰郷したことで終わりま

す。半田で会社勤めなどをするも労働

も過酷で、経済的にも精神的にも苦し

かったようです。そんなとき、中学時代

の恩師の尽力で安城高等女学校の教員

になることができました。昭和13年4

月のことでした。

 

安城高等女学校では英語・国語・農

業を教えるほか、着任時に入学した

を退職します。そして同年3月22日、

喉こうとうけっかく

頭結核で29歳7ヶ月の生涯を閉じま

した。

 

昭和23年、元同僚や教え子たちに

よって、安城高等女学校の中庭に南吉の

詩が刻まれた「ででむし詩碑」が建てら

れました。南吉の顕けんしょうひ

彰碑第1号です。

 

南吉が安城で過ごした5年間は、教

員という社会的地位を得て経済的に

安定し、さらに教え子との交流から精

神的にも充実していました。この「安城

時代」は、新美南吉が最も輝いた時期

ともいえるのです。