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ISSN 1346-6402 奈良国立博物館研究紀要 第17号・第18号 平成29年1月

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  • 奈良国立博物館研究紀要

    第十七号・第十八号

    平成二十九年一月

    ISSN 1346-6402

    奈良国立博物館研究紀要

    第17号・第18号

    平成29年1月

  • 奈良国立博物館研究紀要

    第17号・第18号

    平成29年1月

    /鹿園雑集 17・18号/17・18号/大扉 17・18号 2017.01.31 15.57.15 Page 183

  • 口絵1 銅造観音菩薩立像(夢違観音) 正面 奈良・法隆寺

    /鹿園雑集 17・18号/17・18号/口絵 2017.01.31 15.56.50 Page 107

  • 口絵2 銅造薬師如来立像(香薬師) 正面 奈良・新薬師寺

    /鹿園雑集 17・18号/17・18号/口絵 2017.01.31 15.56.50 Page 108

  • 口絵3 木造伝文殊菩薩立像(六観音のうち) 正面 奈良・法隆寺

    /鹿園雑集 17・18号/17・18号/口絵 2017.01.31 15.56.50 Page 109

  • 口絵4 木造勢至菩薩立像(六観音のうち) 正面 奈良・法隆寺

    /鹿園雑集 17・18号/17・18号/口絵 2017.01.31 15.56.50 Page 110

  • 口絵5 文殊菩薩騎獅像 正面 奈良・法華寺

    /鹿園雑集 17・18号/17・18号/口絵 2017.01.31 15.56.50 Page 111

  • 口絵6 同 光背

    /鹿園雑集 17・18号/17・18号/口絵 2017.01.31 15.56.50 Page 112

  • 口絵7‐1 文殊菩薩騎獅像 截金文様 正面左腋部

    7‐3 同 背面右腋部

    7‐2 同 右脇腹部

    7‐4 同 臀部上方

    /鹿園雑集 17・18号/17・18号/口絵 2017.01.31 15.56.50 Page 113

  • 口絵8 最勝曼荼羅

    /鹿園雑集 17・18号/17・18号/口絵 2017.02.14 13.35.19 Page 114

  • ―論

    文―

    「白鳳彫刻二題―法隆寺夢違観音像と新薬師寺香薬師像、法隆寺伝文殊・勢至菩薩像―」………………

    岩田

    茂樹

    ―作品研究―

    「奈良・法華寺文殊菩薩騎獅像」

    ………………

    岩井共二・岩田茂樹・大江克己・佐々木香輔・鳥越俊行・山岸公基・山口隆介

    23

    ―資料紹介―

    「新所蔵の「最勝曼荼羅」について―室町時代興福寺の祈雨本尊―」………………………………

    北澤

    菜月

    39

    ―修理報告―

    平成二十五年度

    修復文化財関係銘文集成……………………………………………………………………………

    51

    平成二十五年度

    修復文化財(木造)材質調査報告…………………………………………………………………

    59

    奈良国立博物館

    文化財保存修理所

    修理一覧(平成二十五年度)…………………………………………………

    63

    学芸部研究活動報告(平成二十六年一月〜十二月)……………………………………………………………………

    69

    学芸部研究活動報告(平成二十七年一月〜十二月)……………………………………………………………………

    77

    英文要旨…………………………………………………………………………………………………………

    88(3)

    /鹿園雑集 17・18号/17・18号/目次 17・18号 2017.02.17 09.20.30 Page 171

  • 平成二十七年(二○一五)夏に奈良国立博物館で開催された特別展

    「白鳳」には、七世紀後半から八世紀初頭にかけてのいわゆる白鳳

    時代に制作されたとみられる仏教彫刻が網羅され(1)、幾多の名品が会

    場を埋めた。法隆寺・銅造観音菩薩立像(夢違観音)もそのひとつで

    ある。また同寺の六観音像と呼ばれる木彫群のうち、伝文殊・伝普

    賢菩薩立像の二軀も出陳された。いずれも図録の作品解説を筆者が

    担当したが、その執筆および展覧会会期中の観察の過程で気づいた

    小さな発見を述べてみたいと思う。

    夢違観音像の造像技法をめぐって

    (1)

    夢違観音と称される法隆寺所蔵・銅造観音菩薩立像(口絵1)は、

    像高八六・九㎝を計測する立像。左右の冠繒や天衣遊離部を失い、

    三面頭飾の右方分に付属する翅状の飾や右手第三指に一度折れた形

    跡があるものの、像本体に関しては概して保存は良好である。

    三面頭飾と冠繒は別製。その他はおおむね蠟型鋳造による一鋳と

    みられる。この大きさの金銅仏としては軽く、一人で持ち上げるこ

    とが可能である。像底は塞がれているのでいわゆる「くるみ中型」

    の技法になるとする推測もある(2)が、東京国立文化財研究所(当時)の

    撮影したγ線透過写真(3)(

    図1・2)を参照すると、像内は白く透過す

    るので空洞と思われる。

    「髻の頂部から裙裾底部の両脚間まで鉄心を貫通させていたが、

    鋳造後この鉄心を抜き去り、貫通孔を鋳かけで塞いでいる(4)」とする

    指摘がある。髻頂には小孔があって内部がわずかにうかがえ、その

    周辺には確かに鋳かけの痕跡が認められる(図3)。鉄心の抜き痕で

    あることは疑いないだろう。裙裾底部の鋳かけについては、肉眼に

    よる外部からの観察のみでは判断は難しいが、γ線透過写真を見る

    と、像底内部の中央に山形の黒い盛り上がりが写っており、これが

    鋳かけの痕跡かとも思われる。

    なお、足裏に設けられた角�の周辺部を観察すると、左・右とも

    �の回りが窪んでいるのが認められる(図4)。鋳造時に発生した鬆

    は足裏に最も顕著に認められるので、頭部を下、像底部を上にして

    湯を流し込んだと思われる。であれば湯は頭頂から足裏にかけて順

    次満たされてくるわけであるから、同鋳された�の周囲に凹みがで

    きることはありえない。このことをどのように解釈すればよいだろ

    うか。

    白鳳彫刻二題

    ―法隆寺夢違観音像と新薬師寺香薬師像、法隆寺伝文殊・勢至菩薩像―

    1 ���� 17・18 (2017)

    /鹿園雑集 17・18号/17・18号/白鳳彫刻二題01 2017.01.31 15.58.50 Page 57

  • 蠟型鋳造の場合、無垢(ムク)の像でないかぎり、中型の上に蜜蠟

    を盛り上げてゆく工程があるわけだが、足�で像を立たせる本像の

    ような仕様を選択するとき、当然ながら像と台座とは別鋳となる。

    その場合、像本体の蜜蠟原型制作に際し、どのようにして像を立た

    せるのであろうか。像本体と同時に足�を蠟型で制作することは難

    しいのではないだろうか。像本体の蠟型原型が完成した段階では、

    まだ像の足裏には�がなく、平らなのではないだろうか。

    今のところ想像の域を出ないが、本像足�周辺の凹みは、鋳造の

    直前の段階で、あらかじめ造っておいた別製の�を本体の蠟型の足

    裏に挿入し、鋳くるんだためにできたのではあるまいか。�の挿入

    の便のためにあらかじめ穿った孔の周辺部の形状が残存したのでは

    ないかとする解釈である。

    足�を観察すると、右足�では�の左側面に鬆が多数認められる

    ものの、�の底部には鬆が見えない(図5)。これは左側面を上にし

    ての鋳造であったことを意味しないだろうか。本体と一鋳であれば、

    このようなことにはなりにくいのではないか。

    ちなみに、上代の金銅仏で足�を有するものは少数だが、たとえ

    ばやはり「白鳳」展に出陳された滋賀・真光寺の観音菩薩立像の場

    図1 銅造観音菩薩立像(夢違観音)γ線透過写真 正面 奈良・法隆寺

    図2 同右 側面

    2

    /鹿園雑集 17・18号/17・18号/白鳳彫刻二題01 2017.01.31 15.58.50 Page 58

  • 合、両足�は現存するが、長さが異なり、またともに足裏との間に

    隙間ができて少しがたつきを生じている。これらもまた足�を別製

    としたがための現象ではあるまいか。

    以上、いうまでもなく憶測の域を出るものではないが、ひとつの

    解釈として提示し、識者のご叱正を仰ぎたい。

    (2)

    次に頭髪部の表面を見つめよう。頭髪部にはかつて塗られていた

    群青が残存するのを肉眼でも確認できる。注目されるのは、頭髪の

    全面に施された細かな刻み目あるいはキズである(図6)。おそらく

    鑢(ヤスリ)目であろう。ただしこれは群青の剥落した部位において

    確認できるのであるから、かつては群青に覆われて見えなかったは

    ずのものである。つまり、群青の「食いつき」をよくし、剥落を防

    図3 銅造観音菩薩立像(夢違観音) 髻頂 奈良・法隆寺

    図4 同上 足裏

    図5 同上 足�

    3 ���� 17・18 (2017)

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  • ぐための仕様とみるべきであろう。

    同様の鑢目を頭部に施す作例に、深大寺釈迦如来倚像、そして盗

    難にあって所在不明の新薬師寺薬師如来立像(香薬師)がある(図

    7・8)。いずれも如来形であるが螺髪をともなわず、かつてそれを

    接着していた痕跡も確認できない(5)。

    深大寺像の頭部を観察すると、全面におよぶ鏨(タガネ)目がある

    のがわかる。この鏨目については、螺髪の接着のための仕様とみる

    説(6)と、鏨目をもって螺髪の代替的表現とみなす説(7)とがある。しかし

    鏨目に加えてさらに鑢目のあることはあまり注目されていない。こ

    れをもって螺髪接着のための工作とみなすべきか、あるいは夢違観

    音像と同様に顔料塗布のための工作とみるべきか、ただちに断じえ

    ないが、少なくとも鏨目をもって完成形と考えるのは困難といえよ

    う。い

    ずれにせよ、夢違観音像、深大寺釈迦如来像、香薬師像の三像

    に共通して頭部に鑢目が確認できるという事実は、これらの像の制

    作にあたった工房ないし工人が共通するのではないかという想像を

    惹起させる(8)。

    深大寺像については衣文の表現などに差異も認められ、工房が共

    図6 銅造観音菩薩立像(夢違観音) 後頭部(部分) 奈良・法隆寺

    図8 銅造薬師如来立像(香薬師) 前頭部(部分) 奈良・新薬師寺

    図7 銅造釈迦如来倚像 前頭部(部分) 東京・深大寺

    4

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  • 通したとしても、若干の時代差ないし担当者の個性の相違を想定す

    べきかと思われるが、夢違観音像と香薬師像はあらゆる点で酷似す

    る作品といってよい。次にこのことについて述べたい。

    夢違観音像と香薬師像の関係について

    まずは体型の比較から始めよう。

    正面観(口絵1・2、図9・10(9))において、上半身と下半身のバラン

    スや、身体と腕の長さの比率、また胸から脇腹、そして腰へと至る

    肉身の輪郭線など、一見して酷似することが悟られよう。なで肩の

    体型もよく似ている。側面観(図11・12)では、胸から腹、そして脚

    へと至る輪郭線の微妙かつ繊細な流れ方も軌を一にしている。背面

    (図13・14)に回ると、正面と同様によく似た体型が実感されるが、

    細かい部位でも、たとえば後頭部の生え際と着衣の襟とに挟まれた

    部分、つまり襟足のかたちもうりふたつである。

    次に面相(図15・16)である。

    まずもって目・鼻・口の配置される位置がほぼ同じといってよい。

    頬骨のふくらみの場所と高さも同様である。また額上の髪際線の微

    かなうねりも同じラインを描く。眉の下の段差がそのまま鼻梁の側

    面につながること、鼻の下方の面を平らにし、鼻全体を縦長の二等

    辺三角形に整え、そこに両側から陰刻線を入れて小鼻の括りを表す

    点も共通する。目尻を尖らせた流線形の目で、上下の瞼がともに微

    細なカーブを描く点、目頭にいわゆる蒙古襞を表す点も同じである。

    耳を見ると、全体のかたちもさることながら、縦長の滴型を呈する

    耳朶の孔の形状や、耳輪と下脚との対向する巻き込みの角度もそっ

    くりである。

    首を見ると、三道ならぬ二道を表す点も二軀の共通項として見逃

    せない。

    右手(図17・18)は、いずれも施無畏印風のかまえだが、掌にはい

    わゆる生命線・感情線・知能線の三条をよく似た角度に刻み、運命

    線は表さない。やわらかな指の曲げ方や、親指の繊細なしなりも近

    いし、付け根を除いて指の関節線を表現しないのも同じである(10)。

    左手に執る持物は異なるが、いずれもかなり小さく、これも作者

    の癖といえそうである。夢違観音像に多用される左右交互に対向す

    る衣文が、香薬師像においても背面下方に認められる。

    このように、両者の作風や細部の表現形式の共通点はまことに多

    く、両像の作者、少なくとも蠟型原型の制作者は同一人であると考

    えるべき域に達していよう。

    香薬師像は盗難に遭って現在所在不明であり、その鋳造技法を確

    認することができないが、明治二十一年(一八八八)に小川一真が

    撮影した写真(図19)を見ると、後補と思われる木製蓮華座の上に

    立っているので、足�立ちであることはまちがいない。また貴田正

    子氏の近著『香薬師像の右手』には、明治四十四年(一九一一)の

    二度目の盗難事件の際に切り取られた両足首の断面を写した像底写

    真(11)が掲載されている。これを見ると、両足首の間に比較的大きな方

    形の貫通孔がある。したがって同像は「無垢(ムク)」でも「くるみ

    中型」でもないわけで、この点も夢違観音像と共通するものであろ

    う。これらにくわえて、先にみたように頭部表面の特徴ある仕上げ

    も軌を一にするわけであるから、両像の制作技法もまた酷似すると

    いってよかろう。

    5 ���� 17・18 (2017)

    /鹿園雑集 17・18号/17・18号/白鳳彫刻二題01 2017.01.31 15.58.50 Page 61

  • 図9 銅造観音菩薩立像(夢違観音)正面 奈良・法隆寺図10 銅造薬師如来立像(香薬師)正面 奈良・新薬師寺

    6

    /鹿園雑集 17・18号/17・18号/白鳳彫刻二題01 2017.01.31 15.58.50 Page 62

  • 図11 銅造観音菩薩立像(夢違観音)左側面奈良・法隆寺

    図12 銅造薬師如来立像(香薬師)左側面奈良・新薬師寺

    7 ���� 17・18 (2017)

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  • 図13 銅造観音菩薩立像(夢違観音)背面 奈良・法隆寺図14 銅造薬師如来立像(香薬師)背面 奈良・新薬師寺

    8

    /鹿園雑集 17・18号/17・18号/白鳳彫刻二題01 2017.01.31 15.58.50 Page 64

  • 図15 銅造観音菩薩立像(夢違観音)面部 奈良・法隆寺

    図17 同上 頸部・右掌

    図16 銅造薬師如来立像(香薬師)面部 奈良・新薬師寺

    図18 同上 頸部・右掌

    9 ���� 17・18 (2017)

    /鹿園雑集 17・18号/17・18号/白鳳彫刻二題01 2017.01.31 15.58.50 Page 65

  • 図19 銅造観音菩薩立像(夢違観音) 明治21年(1888) 小川一真撮影 奈良・法隆寺

    10

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  • 作風のみならず、確認できる範囲ではあるが構造・技法も共通す

    ることは、原型段階の作者のみならず、鋳造に携わった工房も同じ

    であろうという推定を導く。つまり両像は同作とみなすべきである。

    伝文殊・勢至菩薩像(六観音像のうち)

    の表現形式をめぐって

    法隆寺伝来のいわゆる六観音像は、作風・法量の近い六軀の木造

    菩薩立像を指し、文殊(口絵3、図20)・普賢(図21)、観音(図22)・

    勢至(口絵4、図23)、日光・月光菩薩の名で伝承される。ただしこれ

    は、金堂の釈迦・阿弥陀三尊及び薬師如来像の脇侍として安置され

    ていた時期があることによるもので、化仏と水瓶の標識によって尊

    名の確定できる観音・勢至菩薩像の二軀以外、造像当初の尊名を保

    証するものではなく、その組み合わせにも検討の余地があることは

    いうまでもない。

    構造・技法をうかがうと、いずれも木心を籠めたクスノキ材を用

    いた一木造で、像の大半から台座の丸框までを同材から彫成する。

    ただし両前膊の半ばから先は別材を矧ぎ付け、また頭上の髪筋は木

    屎漆の盛り上げによって形づくり、三面頭飾も麻布を用いた乾漆造

    の別製で、鉄釘を打付して留めている。

    なお、根津美術館とアメリカ・フリーア美術館にも六観音像に作

    風の近い菩薩像が所蔵されることが知られ、都合八軀がもとはまと

    まって伝来していた可能性もないとはいえない。その場合、これら

    八軀は、『金堂日記』承暦二年(一○七八)条に見える、法隆寺金堂内

    中央大厨子下階に奉加された「本(木カ)仏八躰」に該当し、さらに

    同書の建久七年(一一九六)条にある「橘寺木仏八躰」に該当するの

    ではないかとする会津八一氏の推測(12)が想起されるが、かりにそうで

    あったとしても、それはあくまで平安時代後期における伝来の状況

    にすぎず、これらの像が造立されたと考えられる白鳳期における実

    態についてはなおも不明である。ここでは、法隆寺に現存する六軀

    のうち、法量に明らかな差のある伝日光・月光菩薩像(13)を除いた四軀

    の細部形式を見つめることにより、当初の組み合わせに関わる問題

    を考えてみたい。

    伝文殊・伝普賢・観音・勢至菩薩像の四軀(図20〜23)は、いずれ

    も請花と反花からなる蓮華座に立ち、両肩から懸けた天衣を体側か

    ら蓮華座まで垂下させる。双髻を結うこと、垂髪を表すこと、三条

    の瓔珞を下げる胸飾を付けること、そして片手は垂下、片手は屈臂

    することも軌を同じくするが、より詳細に見つめれば細部には異同

    のあることが知られる。とくに目立つのは、天衣と台座の形式であ

    る。ま

    ず天衣から見る。伝文殊菩薩像と勢至菩薩像では両肩から体前

    面を垂れる天衣が両脚の前でX字状に交差し、また背面では臀部の

    あたりでU字状のラインを描くが、伝普賢菩薩像と観音菩薩像には

    この表現がなく、両肩から降る天衣はそのまま肘の内側をまっすぐ

    垂下する。

    次に台座である。伝文殊菩薩像と勢至菩薩像では、請花・反花と

    もに二段複弁であるのに対し、伝普賢菩薩像では請花・反花ともに

    二段だが単弁、観音菩薩像では請花は一段単弁、反花のみ二段複弁

    となる(14)。

    つづいて背面(図24・25)である。背面中央に垂下する瓔珞を見る

    11 ���� 17・18 (2017)

    /鹿園雑集 17・18号/17・18号/白鳳彫刻二題01 2017.01.31 15.58.50 Page 67

  • 図20 木造伝文殊菩薩立像(六観音のうち)正面奈良・法隆寺

    図21 木造伝普賢菩薩立像(六観音のうち)正面奈良・法隆寺

    12

    /鹿園雑集 17・18号/17・18号/白鳳彫刻二題01 2017.01.31 15.58.50 Page 68

  • 図22 木造観音菩薩立像(六観音のうち)正面奈良・法隆寺

    図23 木造勢至菩薩立像(六観音のうち)正面奈良・法隆寺

    13 ���� 17・18 (2017)

    /鹿園雑集 17・18号/17・18号/白鳳彫刻二題01 2017.01.31 15.58.50 Page 69

  • 図24 木造伝文殊菩薩立像(六観音のうち)背面奈良・法隆寺

    図25 木造勢至菩薩立像(六観音のうち)背面奈良・法隆寺

    14

    /鹿園雑集 17・18号/17・18号/白鳳彫刻二題01 2017.01.31 15.58.50 Page 70

  • 図26 木造伝文殊菩薩立像(六観音のうち)左側面奈良・法隆寺

    図27 木造勢至菩薩立像(六観音のうち)左側面奈良・法隆寺

    15 ���� 17・18 (2017)

    /鹿園雑集 17・18号/17・18号/白鳳彫刻二題01 2017.02.07 18.08.08 Page 71

  • と、伝文殊・勢至菩薩像ではその先端に蕾形の飾りが付くのに対し、

    伝普賢・観音菩薩像ではこれがなく、中央に円花形を表し、そこか

    ら左右に瓔珞が分岐してゆく。

    また腹部中央に表された腰帯の一部と見なされる輪状の突起の中

    を瓔珞がくぐる形式も、伝文殊・勢至菩薩像の二軀のみのものであ

    る。こ

    のように観察すると、伝文殊・勢至菩薩両像の形式の共通は際

    立っている。そして後像は額上正面の水瓶の標幟によって勢至菩薩

    像であると尊名を確定できるが、現在のところ勢至菩薩像が単独で

    造像・信仰された形跡は少なくとも上代には認めがたい。よってこ

    の像はやはり、観音菩薩像(ただし現存する六観音中の観音菩薩像とは

    別の像)とともに阿弥陀如来像の脇侍として制作されたと考えられ

    る。問題は、伝文殊菩薩像の位置づけであろう。

    鎌倉時代以降ともなると、如来三尊像の両脇侍において、着衣形

    式や姿勢を意図的に違えて変化をつける例が認められるが、上代に

    は基本的にこれはないものと思われる。とすれば、勢至菩薩像と一

    具たりうるのは、現存する像のなかでは各所の表現の酷似する伝文

    殊菩薩像以外にはありえない。

    伝文殊菩薩像の額上に付く正面頭飾の中央部を見ると、下部に蓮

    華形を残し、その上に何らかの標幟があったことは疑いない。それ

    が阿弥陀化仏であった可能性は考えうるだろう。

    勢至菩薩像は基本的に右脇侍であったと思われる。これとは本来

    別具であると考えられるにいたったが、六観音像中の観音菩薩像は

    左脇侍とみなされよう。前者は右手を上げて左手を垂下させており、

    後者はその逆である。伝文殊菩薩像もまた左手を上げるので、この

    点からも本像は左脇侍であり、当初は観音菩薩像であったと見なす

    余地はあるだろう(15)。

    先に見たように両像の天衣は正面脚部でX字状に交差するが、伝

    文殊菩薩像では右肩から垂れる天衣が外側となるのに対し、勢至菩

    薩像では左肩から垂れる天衣が外側であり、両者で左右対称の形式

    となることも、この二軀を一対と考えるのに都合がよい。

    がしかし、さらに細かな部分に目を向けると、両像に小さな相違

    点が見出せることもまた事実である。まず、伝文殊菩薩像では腕か

    ら垂下する天衣が一度ねじれた後、先端が前方に向かって翻転する

    動きを示すのに対し、勢至菩薩像の天衣はねじれることなくまっす

    ぐ垂下し、先端を下に向けて尖らせている(図26・27)。あるいは背

    面裙裾にたたまれた品字形の衣文が、前像では大きく、後像は小さ

    い(図24・25)。また額上正面の頭飾を見ると、伝文殊菩薩像では中

    央の標幟をはさむ左右の飾りに表された蕨手が外に向かって旋転す

    るが、勢至菩薩像ではこれが内向きに旋転している(図28・29)。

    これらの相違が、二軀を一具とみなすことに対する障害となりう

    るか否か、判断はかなり難しい。少なくとも制作に当たった工人は

    共通すると認めるべきで、同じ工人が携わった二具の像の一軀ずつ

    が残されたのか、それとも一具の三尊像の両脇侍が残されたのか、

    かんたんには決めがたい。

    このことについて考えるための参考として、同じく法隆寺に伝わ

    り、やはり白鳳期の代表的作例である伝橘夫人念持仏の銅造阿弥陀

    三尊像両脇侍を見よう。

    正面観(図30・31)においては、手の上げ下げはともかく、天衣の

    流れ方や裙裾のたたみ方まで一致し、標幟を除けば一方が一方を写

    16

    /鹿園雑集 17・18号/17・18号/白鳳彫刻二題01 2017.01.31 15.59.28 Page 72

  • したかのような類似を示している。ただし腹部における裙の折り返

    しの襞のとり方は左右を逆転させ、対称を明示している。

    一方、背面観(図32・33)では比較的相違が目につく。まず正面で

    は両像に見られた天衣に沿って流れる瓔珞の表現が、背面では左脇

    侍の観音菩薩像において省略されているのは不審だが、それ以外に

    も裙裾の襞のとり方は明瞭に異なっている。正面観は一致させよう

    と努めながら、背面においては意図的に差を設けようとしているよ

    うにも思える。

    そして次に側面(図34・35)へ回ると、天衣の垂下部のかたちに相

    違のあることが知られる。いずれも膝の横のあたりで折りたたみを

    つくることや、先端が階段状の襞をとることは共通するが、観音菩

    薩像の左方の天衣のみ、蓮華座の上縁の位置でねじり、一八〇度反

    転させているのは目につく違いである。

    伝橘夫人念持仏脇侍の場合、二軀の間で台座に関しては細部にい

    たるまで同形式である。このことに鑑みれば、法隆寺六観音像にお

    いて、一具たりうる可能性があるのはやはり伝文殊・勢至菩薩像の

    二軀しかありえない。

    像本体に関していえば、伝橘夫人念持仏脇侍の場合は、正面観に

    おいてほぼ同じ形でありながら、背面の着衣のひだや側面の天衣の

    処理では二軀間で差をつくるものであった。

    六観音像中の伝文殊菩薩像と勢至菩薩像では、先に見たように台

    座形式は完全に一致し、正面観においては左右対称形式がよく守ら

    れていた。ただし側面における天衣の処理では明らかな相違が認め

    られたが、この点は伝橘夫人念持仏脇侍と軌を同じくするというべ

    きである。伝橘夫人念持仏が三軀一具であることは疑いない。とす

    図28 木造伝文殊菩薩立像(六観音のうち) 面部奈良・法隆寺

    図29 木造勢至菩薩立像(六観音のうち) 面部奈良・法隆寺

    17 ���� 17・18 (2017)

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  • 図30 銅造観音菩薩立像(伝橘夫人念持仏左脇侍)正面奈良・法隆寺

    図31 銅造勢至菩薩立像(伝橘夫人念持仏右脇侍)正面奈良・法隆寺

    18

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  • 図32 銅造観音菩薩立像(伝橘夫人念持仏左脇侍)背面奈良・法隆寺

    図33 銅造勢至菩薩立像(伝橘夫人念持仏右脇侍)背面奈良・法隆寺

    19 ���� 17・18 (2017)

    /鹿園雑集 17・18号/17・18号/白鳳彫刻二題01 2017.01.31 15.59.28 Page 75

  • 図34 銅造観音菩薩立像(伝橘夫人念持仏左脇侍)左側面奈良・法隆寺

    図35 銅造勢至菩薩立像(伝橘夫人念持仏右脇侍)左側面奈良・法隆寺

    20

    /鹿園雑集 17・18号/17・18号/白鳳彫刻二題01 2017.01.31 15.59.28 Page 76

  • るなら、伝文殊・勢至菩薩像の相違点も、一具の脇侍像としてあり

    うべき振幅の枠内とみなす余地はあろう。

    以上、いまこれを断定することは困難だが、仮説として提示し、

    今後の検証を待ちたいと思う。

    ところで、いまこの仮説が正しいとするなら、伝文殊(実は観音

    か)・勢至菩薩両像を脇侍とする阿弥陀如来像が存在したことにな

    る。六観音像に作風の近い三重・見徳寺薬師如来坐像を拡大したよ

    うな像であったかもしれない。ただしこれ以外の六観音像のこり四

    軀に、根津・フリーア両美術館に所蔵される各一軀を含めた都合六

    軀については、その位置づけはなお不明である。根津・フリーア像

    には細部形式の近似が認められ、その関係を検討する余地があるか

    もしれないが、公表されている像高には四㎝の差があるので、ただ

    ちに一具性を認めるのは難しいだろう。これらについては今後の課

    題である。

    (いわた

    しげき/奈良国立博物館上席研究員)

    注(1)地域的な観点からいえば、東北地方に所在する作品は出陳されていな

    い。なお、薬師寺金堂月光菩薩像のように制作年代に白鳳・天平両説

    ある作品も出陳された。本展を機に研究の深化が期待される。

    (2)町田甲一「観音菩薩立像

    夢違観音」(『奈良六大寺大観

    第二巻

    隆寺二』所収、岩波書店、昭和四十三年初版)

    (3)γ線写真の閲覧・掲載については東京文化財研究所の津田徹英、皿井

    舞両氏のご高配に預かった。

    (4)岩佐光晴「観音菩薩立像(夢違観音)」(『日本美術全集2

    飛鳥・奈良

    時代Ⅰ

    法隆寺と奈良の寺院』作品解説、小学館、平成二十四年)

    (5)香薬師像については写真の観察による判断にとどまるが、昭和十八年

    の盗難以前に型取りが行われ、これを使用して造られた模像が新薬師

    寺や奈良国立博物館などに所蔵されており、それらにも螺髪の接着痕

    らしきものは見えない。

    (6)香取秀真「深大寺の釈迦像鋳作方法に就て」(同『続金工史談』所収、

    国書刊行会、昭和五十一年)

    (7)松山鉄夫「深大寺銅造釈迦如来像について」(『佛教藝術』一三三号、

    昭和五十五年)

    (8)「白鳳」展図録の「法隆寺夢違観音像・深大寺釈迦如来像の頭部仕上

    げについて」と題するコラム(奈良国立博物館『白鳳―花ひらく仏教

    美術―』所収、平成二十七年)においてこの点を述べた。

    (9)図10・12・14・16・18はいずれも(株)飛鳥園提供。撮影年時は不明

    だが、右手首先が円鐶を用いて接合されており、両足首に亀裂が見い

    だせる。香薬師像は明治四十四年(一九一一)六月に二度目の盗難に

    遭ったが、約二週間後に、一度目の盗難の折りに切断された右手首先

    が再び外れ、かつ両足首から先が切断され失われた状態で発見された。

    その後、両足首先は木製で後補され、写真に亀裂が見えるのはこの木

    製後補の足首が写っているためと思われる。したがってこれらの写真

    の撮影年時は、明治四十四年以降、昭和十八年(一九四三)三月に三

    度目の盗難事件が発生するまでの間ということになる。

    (10)平成二十八年(二〇一六)十月十二日付読売新聞に報道されたように、

    香薬師像の右手と思われるものが発見され、前年の平成二十七年(二

    〇一五)八月三十一日に六十五年ぶりに新薬師寺に返還された(平成

    二十八年十二月二十一日、奈良国立博物館に寄託)。発見の経緯につい

    ては貴田正子『香薬師像の右手

    失われたみほとけの行方』(講談社、

    平成二十八年十月)に詳しいが、同書のなかで、実物を調査された水

    野敬三郎氏の意見書が紹介されている。それによれば、水野氏も夢違

    観音像の右手との酷似を指摘され、両像の作者が共通する可能性につ

    いて言及されている。なお筆者は平成二十七年の特別展『白鳳』図録

    の作品解説において、香薬師像と夢違観音像との作風の近似について

    言及しており、本稿はそれを詳述するものとなる。

    (11)注10貴田前掲書二一九頁。

    (12)会津八一「法隆寺六躰並に白檀地蔵像の伝来を論じて再び四天王像の

    金堂移入に及ぶ」(『東洋美術』五号、昭和五年)

    (13)『奈良六大寺大観

    第四巻

    法隆寺四』(岩波書店、昭和四十六年初

    版)、『根津美術館蔵品選

    仏教美術編』(平成十三年)、『the

    Freer

    21 ���� 17・18 (2017)

    /鹿園雑集 17・18号/17・18号/白鳳彫刻二題01 2017.02.07 18.08.40 Page 77

  • GalleryofArtIIJapan

    』に掲載された各像の総高及び像高は次のと

    おり(単位㎝)。

    伝文殊菩薩

    一○八・八

    八五・七

    伝普賢菩薩

    一○九・二

    八三・九

    観音菩薩

    一○八・六

    八六・九

    勢至菩薩

    一○八・二

    八六・○

    伝日光菩薩

    九六・八

    八○・三

    伝月光菩薩

    九六・六

    七七・九

    根津美術館菩薩像

    九六・四

    七七・二

    フリーア美術館菩薩像

    八一・二

    (14)いずれも請花・反花ともに間弁が付く。

    (15)例外的な存在として、法隆寺金堂釈迦三尊像や石川・薬師寺如来三尊

    像の場合、両脇侍像が同じ側の手を上げ、あるいは下げている例があ

    るので、厳密にはこれだけでは判断の指標たりえない。

    〔写真提供〕

    ・口絵1・3・4、図3〜7、9・11・13・15・17・20〜35

    奈良国立

    博物館(うち口絵4、図22・23・25・27・29は森村欣司氏、その他は佐々

    木香輔氏撮影)

    ・口絵2、図8・10・12・14・16・18

    (株)飛鳥園

    ・図1・2

    東京文化財研究所

    ・図19:

    東京国立博物館

    22

    /鹿園雑集 17・18号/17・18号/白鳳彫刻二題01 2017.02.07 18.08.59 Page 78

  • はじめに(調査の経緯)

    奈良市法華寺町に所在する法華寺は、光明皇后を開基とし、奈良

    時代に創建された官寺であり、正式な寺名は法華滅罪之寺、国ごと

    に設置された国分尼寺を総括する総国分尼寺の地位にあった。現在

    の本尊は、平安時代初期に制作された檀像彫刻の名品、国宝・木造

    十一面観音菩薩立像である。

    平安遷都後は次第に衰微の途をたどったが、平安時代末の治承四

    年(一一八〇)、平重衡による南都焼討に罹災し、惨憺たる有様とな

    ったようである。復興はまず東大寺大勧進俊乗房重源によって試み

    られたが、本格的な再興は西大寺叡尊によって進められた。法華寺

    が近年まで真言律宗に属していたのもこの機縁による。残念ながら

    室町時代に再び兵火のため焼亡の憂き目を見、現在の寺観は、近世

    初頭に豊臣秀頼の母淀君が発願し、片桐且元を奉行として行われた

    再建伽藍である。

    同寺本堂の外陣東端、格子戸に隔てられた脇間内に、等身大の十

    一面観音菩薩立像とともに安置されるのが、ここに報告を行う文殊

    菩薩騎獅像である。

    柳澤保徳氏(法華寺檀家総代、帝塚山学園学園長。元奈良教育大学学

    長)よりご連絡を受け、樋口教香師(法華寺住職)が本像の調査を希

    望しておられることを山岸が知ったのは、平成二十四年(二〇一二)

    九月であった。これより先、平成二十一年二月には、西山厚氏(当時

    奈良国立博物館学芸部長)・金原正明氏(奈良教育大学教授)とともに

    同像を台座からお下ろしし、山岸研究室保管のビデオスコープ(径

    六㎜)の挿入を試みたことがあった(1)が、釘孔はあるものの開口部が

    小さく果たせなかった。その後径二・四㎜のファイバースコープを

    購入していたことから、柳澤氏からのお話は渡りに船で、平成二十

    四年十二月二十八日にファイバースコープ調査の実施が叶った。

    二・四㎜ファイバースコープは冠繒の孔から頭部内に挿入すること

    ができ、頭部上半内部に梵字銘文(図18、19)が記され、納入品(眉

    間に金属製火焰付工芸品、頭部下半に錦包ほか、図20)が納められている

    ことを見出した(2)。ただ頭部内は紙包、錦包に満ちており、頭部下半

    内及び体部内は窺うことができず、金属製火焰付工芸品の全体像も

    不明であった。

    このためX線透過撮影の必要性が痛感され、その機器・設備なら

    びにスタッフを有する奈良国立博物館と協議したところ、博物館と

    してもそのことの意義は大きいと判断し、共同調査を実施する方向

    ―作品研究―

    奈良・法華寺文殊菩薩騎獅像

    岩井共二・岩田茂樹・大江克己・佐々木香輔・鳥越俊行・山岸公基・山口隆介

    23 ���� 17・18 (2017)

    /鹿園雑集 17・18号/17・18号/奈良・法華寺文殊菩薩騎獅像02 2017.01.31 16.00.22 Page 87

  • で調整に入った。

    なお本像については『大和古寺大観』第五巻に掲載され、基本的

    な情報は提示されている(3)ものの、作行きの優秀さを鑑みれば、より

    詳細な報告ならびに写真の提示を行うことが望ましいと思われた。

    このため像を奈良国立博物館にいったん輸送し、X線透過撮影と高

    精細デジタル画像撮影、ならびに綿密な調書作成を行いたい旨を寺

    に対してお願いし、快諾を得た。

    本像を実際に奈良国立博物館に輸送し、諸種の撮影及び調査を実

    施したのは、平成二十七年(二〇一五)六月十一日・十二日であり(4)、

    後述のとおりの成果を得た。同年十二月二日に寺内で実施した追加

    調査(5)の成果を含め、詳しく報告を行い、今後の研究に資したい。

    なお、各項目の執筆担当者についてはそれぞれの部分の末尾に明

    記した。X線透過撮影は鳥越と大江、蛍光X線調査は鳥越、高精細

    デジタル画像撮影は佐々木が担当した。また原稿に関する全体の調

    整は岩田と山岸、編集作業は主として岩井が担当した。

    (岩田・山岸)

    1

    像の基本データ

    本像は、総高二三七・一㎝、像高(本体)七三・〇㎝の騎獅像で 図1 文殊菩薩騎獅像 全図 奈良・法華寺

    24

    /鹿園雑集 17・18号/17・18号/奈良・法華寺文殊菩薩騎獅像02 2017.01.31 16.00.22 Page 88

  • 図2 文殊菩薩騎獅像 左側面

    図4 同 左斜側面

    図3 同 右側面

    図5 同 背面

    25 ���� 17・18 (2017)

    /鹿園雑集 17・18号/17・18号/奈良・法華寺文殊菩薩騎獅像02 2017.01.31 16.00.22 Page 89

  • 図6 文殊菩薩騎獅像 顔・正面

    図8 同 左側面

    図7 同 右斜側面

    図9 同 右側面

    26

    /鹿園雑集 17・18号/17・18号/奈良・法華寺文殊菩薩騎獅像02 2017.01.31 16.00.22 Page 90

  • ある(図1)。以下に、形状、法量、品質構造、保存状態、銘記、伝

    来の順に記述する。

    【形

    状】

    体(口絵5、7、図1〜12)

    高い宝髻を結う。髪束は各三段、上方より五束・三束・三束とす

    る。宝髻上に上下二段に八字文殊の標幟を表したか(亡失)。元結紐

    は上下各二条、上部元結紐の上方に扇状の飾りを表す。天冠台は、

    上から列弁・紐二条とし、両耳上では下向き、正・背面では上向き

    に弧を描き、正面及び両側面に半截の花形飾り各一個を表す。頭髪

    はすべて束ね目入り毛筋彫り。鬢髪一条が耳前に垂れ、さらに一条

    が耳をわたる。髪の一部は、天冠台正面では半截花形飾りの両側で

    天冠台に巻きつくようだが、前面においては毛筋を刻まず、かつ漆

    箔が押され、表現としては不審。両側面では髪が花形飾りの中心を

    くぐり、さらに花形飾りの前で天冠台に巻きつく。天冠台下の地髪

    正面には、左右計五個の菊座を伴う垂飾(銅製)を表す。

    白毫相(水晶)を表す。半眼、閉口。鬢のほつれ毛、口髭・顎鬚を

    表す(墨描)。口唇部を周囲から一段彫りくぼめ、上唇の上縁を紐状

    に表す。鼻孔・耳孔を穿ち、小孔を像内に貫通させる。耳朶は紐状

    で貫通する。顎のくくり一条、三道を表す。胸のくくり左右各一条、

    腹のくくり一条を表す。

    着衣は、覆肩衣・袈裟・裙を着ける。覆肩衣は右肩から前膊まで

    を覆い、右胸下方で袈裟にたくし込まれて一度たるみ、裏を見せる。

    袈裟は左肩を覆い、右肩に少しかかって腹前にまわり、再び左肩に

    かかる。腹部から左肩にかけて縁を大きく折り返す。なお、袈裟は

    図10 文殊菩薩騎獅像 胸飾

    27 ���� 17・18 (2017)

    /鹿園雑集 17・18号/17・18号/奈良・法華寺文殊菩薩騎獅像02 2017.01.31 16.00.22 Page 91

  • 右膝にかぶさる。裙は腹

    前の袈裟の下にあらわれ、

    正面中央で左前に合わせ

    る。装

    身具は、胸飾と両腕

    の腕釧(各金銅製)を付け

    る。胸飾(図10)は、基本

    帯を上から紐一条、連珠、

    紐一条、列弁で表し、そ

    の中央に大一(上下に小

    玉を各一個付ける)、両端

    部に小一(内側に小玉一

    個を付け、上下に菊座各一

    個を下に重ねる)の、中央

    部が前向きに突起した円

    形菊座を付ける(X線透

    過画像から、この円形菊座

    が胸飾を留める鋲を兼ねて

    いると判断される)。両端

    部に珠繋二個を表す。基

    本帯に唐草が絡みつくよ

    うに配され、中央で両側

    からの唐草が合体し、唐

    草から垂飾を垂らす。垂

    飾は露玉と銅製透彫金具

    からなり、当初は垂飾を七箇所から垂らしていた(現状では中央と向

    かって右から二番目の垂飾のみ金具が残存し、中央の垂飾は一部後補。向

    かって左から二番目の垂飾は完全に亡失)。腕釧は紐二条の帯に、右手

    では外、左手では内に、四方に小玉の付く円形菊座を表す。

    左手を屈臂して掌を内に向けて第一〜四指を捻じ、経巻の載った

    蓮の茎を執る。右手は垂下、右膝のやや上にて掌を内に向け、五指

    を捻じて三鈷剣の柄を握る。ごくわずかに左方を向き、右足を外に

    して獅子上の蓮華座に半跏趺坐する。

    図11 文殊菩薩騎獅像 截金文様 正面左腋部図12 文殊菩薩騎獅像 像底

    図13 文殊菩薩騎獅像 光背(頭光・部分)

    28

    /鹿園雑集 17・18号/17・18号/奈良・法華寺文殊菩薩騎獅像02 2017.01.31 16.00.22 Page 92

  • 背(口絵6、図13、14)

    二重円相光。

    頭光の中心に八葉蓮華を表す。八葉蓮華の中心の蓮肉は十三個の

    蓮実を表し、周縁に一条の陰刻線を入れ、さらに輪郭は八方入隅と

    する。蓮肉の周囲に蘂を表し、その外側に如意頭状の輪郭をなす蓮

    弁(複弁)を八枚表す。頭光の圏帯には、中央に木瓜形の突起をとも

    なう楕円形の菊座を持つ飾りと、中央に円形の突起をともなう菊座

    を持つ唐草飾りとを交互に合計八個(各四個)配する。その外縁は内

    側から紐二条、列弁帯とする。身光の圏帯は内外二区に分かれ、内

    区は左右最上部に何かしらの飾りがあったと見られるが亡失し、外

    区は頭光の圏帯と同じパターンで合計八個(左右各五個)の飾りを表

    し、さらに内側から紐二条と列弁帯で縁取る。光脚の表・裏に蓮弁

    を浮彫する。この蓮弁は五弁間弁付で、各弁の中央に三葉形ならび

    に弁脈を表し、縁は左右とも内向きに巻きこむ。さらに上縁部に蘂

    を表す。頭光周縁部は頂部に胎蔵界大日如来像(宝冠を戴き、冠繒を

    付ける。条帛・裙を着け、左手を上に禅定印を結び蓮華座上に坐す。)、両

    側に各二軀の飛天(いずれも双髻を結い冠繒を付け、天衣、裙を着け、雲

    上に舞う姿に表される)を配し、それらの冠繒、天衣、裙裾および雲形

    を火焰状に表す。身光部周縁には透彫唐草を火焰状に表し、その間

    に左右各四個の円輪を蓮華座上に配する。円輪中に梵字各一字が記

    され、文殊八字真言が表される。梵字(

    オン・

    アク・

    ビ・

    ラ・

    ウーン・

    キャ・

    シャ・

    ラク)は、上から下に、右、

    左の順に配する。

    座(図1)

    獅子座。獅子は蓮華座を背中の鞍上に載せ、頭を左方に向け開口

    して、方座上に立つ。

    (岩井)

    ﹇法

    量﹈単位㎝

    総高二三七・一

    体像高七三・〇(二尺四寸一分)

    髪際高五四・五(一尺八寸)

    頂―顎三二・八

    面長一四・〇

    面幅一一・九

    耳張一五・八

    面奥一六・三

    胸奥二〇・三

    腹奥二五・〇

    肘張四〇・一

    膝張五三・〇

    坐奥四四・一

    膝高(左)一一・七

    (右)一一・七

    背高一〇八・七

    幅七八・九

    子像高(頭頂)一一八・四

    (岩井)

    図14 同 身光(部分)

    29 ���� 17・18 (2017)

    /鹿園雑集 17・18号/17・18号/奈良・法華寺文殊菩薩騎獅像02 2017.01.31 16.00.22 Page 93

  • 図15 文殊菩薩騎獅像 X線透過画像 正面

    30

    /鹿園雑集 17・18号/17・18号/奈良・法華寺文殊菩薩騎獅像02 2017.01.31 16.00.22 Page 94

  • 図16 同 側面

    31 ���� 17・18 (2017)

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  • 図17 同 斜側面

    32

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  • 【品質構造】

    体針葉樹材。一木割矧造か。内刳。金泥塗り、截金文様。玉眼。

    表面観察およびX線透過画像(図15〜17)により、本像の構造につ

    いては次のように解釈しうると思われる。

    まず頭部を見ると、両耳後を通る線、後頭部中央を縦に通る線、

    前頭部中央の地髪から天冠台にかけての位置を縦に通る線が、肉眼

    で確認できる。X線透過画像を見ると、両耳後を通る線はそのまま

    真っ直ぐ体部に達すると見えるが、頭部中央を縦に通る線について

    は体部に連続するか否か確定できない。またX線透過画像によって、

    頭体の木目は同方向に通ると見える。

    以上により、頭体を通して針葉樹の縦一材から彫成し、両耳後を

    通る線にて前後に割矧ぎ、頭部については割首の後、さらに左右に

    割矧いでいる可能性が高いかと思われるが、割矧ぎではなく寄木で

    ある可能性も皆無ではない。三道下で割首すると思われ、背面襟際

    で斜めに鉄釘を打ってこれを留める。宝髻は別材製。宝髻束ね目の

    上段五ヶ所、中段三ヶ所に小孔を穿っており、元は別製の八字文殊

    の標幟を�挿ししたと見られる。冠繒は別製(亡失。天冠台側面の半

    截花形飾り中央の孔および両肩下がりにある各一個の小孔がこれに関わる

    と見られる)。天冠台前半に都合五個の小孔があり、かつて別製飾り

    を挿したものとみられる(すべて亡失)。

    両体側部は肩下がりにて各縦一材を矧ぐ。肩の矧ぎ目に左右各二

    本の雇い�を設けて緊結する。左前膊半ばから先の部位の袖は左右

    各一材とするか。右前膊半ばから先(袖を含む)に一材を矧ぐ。左前

    膊部(肉身)、右手首先を各別材製とし、挿し込む。

    頭部、体幹部および両体側部に広く内刳を施す。像底(図12)に底

    板を貼り、都合五本の鉄釘を打ってこれを固定する。底板前方中央

    の裳先裏に縦三・八㎝、横五・四㎝の方形板状の�を三本の釘で打

    って留めていた痕跡があるが、現在は亡失。これは像本体と台座と

    の固定を計った仕様と考えられる。

    表面の仕上げは次のとおり。

    肉身・着衣ともに漆塗りの上に白下地とし、さらに丹と見られる

    淡紅色の顔料を重ねたうえで、金泥塗りとする。像底も同じだが、

    漆塗りの下に布貼りが認められる。

    頭髪は群青を塗り、髪際に緑青の線を引く。髻の元結紐は朱を塗

    り、髻上方の扇状の飾りと天冠台は漆箔押し。髪際および鬢のほつ

    れ毛、髭、鬚は墨で描く。玉眼は黒目に墨を塗り、茶色がかった赤

    色でその輪郭をくくり、目頭・目尻を青でぼかす。唇に朱を塗る。

    着衣に次の截金文様が認められる。(口絵7―1〜4、図11)

    袈裟(表):

    田相部は雷文繋ぎ文。条葉部は蓮華唐草文。

    同(裏):

    内区は外形が杏仁形を呈する雷文。縁に蓮華唐草文。

    覆肩衣(表):

    二重斜格子文と四弁花(ないし四菱)入りの七宝繋ぎ

    文との重ね文様。

    同(裏):

    亀甲文と籠目文との重ね文様。

    裙(表):

    卍字繋ぎ文の地に蓮華丸文(カ)を散らす。

    袈裟(表)の田相部と条葉部との境界、袈裟(裏)の内区と縁との

    境界、丸文の輪郭は、いずれも太線一条と細線二条で画す。

    白毫は水晶製、嵌入。天冠台正面に下げる飾りの基部(鐶と菊

    座)・胸飾・腕釧は銅製鍍金(6)。

    33 ���� 17・18 (2017)

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  • 針葉樹材。金泥塗り、截金文様。

    構造の詳細は不明の点もあるが、角�の中央に縦方向の矧ぎ目が

    あり、これは光脚の上端まで達する。これにより、二重円相部は通

    して左右二材矧ぎかと推測される。光脚は正・背面から各一材を貼

    り足す。頭光中心の蓮肉は別材製で、上下二材矧ぎか。頭光周縁部

    は、各尊像およびその着衣部と下方の雲形を一材から彫出し、都合

    五材からなる。身光周縁部は、左右とも上下二材から彫出する。周

    縁部の各区(頭光五、身光四)は二重円相の小口に�挿しする。ただ

    し現状では、一部を除いて二重円相の最外縁に小孔を穿ち、これに

    銅線を通して固定している。頭光圏帯および身光圏帯外区に白銅板

    を貼り、これに金銅製(7)透彫の飾り金具を打ち付ける。身光圏帯内区

    の最上部は、左右ともに金泥の輝きがよく残り、また小孔各一個が

    認められることから、当初ここにも金銅製の飾り金具があったと思

    われる。身光周縁部の梵字を表す円相は、縁近くに釘孔が点在する

    ことから、銅製覆輪をめぐらせていた可能性がある。

    表面は、二重円相、光脚、周縁部ともに金泥塗り。金泥は光脚の

    底部および角�前面にも施される。

    身光圏帯内区は、截金で籠目文と七宝繋ぎ文との重ね文様を表し、

    籠目の辻には、内側六個、外側六個の截箔を円形に配して花文風に

    表す。頭光中央の八葉蓮華の蓮弁と、光脚の蓮弁、身光周縁部の透

    し彫り唐草、および梵字を表す円相に付属する蓮華の蓮弁に、同じ

    く截金で弁脈ないし葉脈を表す。頭・身光ともに最外縁は漆箔。

    頭光周縁部の五軀の尊像は、頂上の大日如来像および後補の飛天

    ③(左下)を除き、漆塗り、白下地の上に、さらに丹かと見られる淡

    紅色の下地を施し、金泥を塗る。大日如来像については金泥の下の

    淡紅色が見えない。

    大日如来像、飛天①(左上)・②(右上)・④(右下)は頭髪に群青を

    塗る。

    大日如来および飛天①・②・④の着衣には、いずれも截金で次の

    文様を表す。

    大日如来:

    冠繒は雪の結晶風の花文。条帛は斜格子文。裙(表)は

    雷文繋ぎ文。裙(裏)は袈裟襷文。

    飛天①:

    冠繒および天衣は雪の結晶風の花文。裙(表)は雷文繋

    ぎ文。裙(裏)は斜格子文。

    飛天②:

    冠繒・天衣は①に同じ。裙(表)は麻葉繋ぎ文か。裙

    (裏)は籠目文か。

    飛天③:

    (後補につき省略)

    飛天④:

    冠繒・天衣は①・②に同じ。裙(表)は麻葉繋ぎ文。裙

    (裏)は斜格子文。

    身光周縁部の円相は、白色に塗り、金泥で梵字を書く。

    (岩田)

    【保存状態】

    体宝髻上に表された八字文殊の標幟すべて、冠繒、天冠台に付属す

    る別製飾りすべて、胸飾の垂飾の一部、像底前方の方形板状�、以

    上亡失。宝冠、持物、胸飾の垂飾の一部、以上後補。

    背飛天①は右腕前�、②・④は両腕前�を亡失する。飛天③および

    その着衣すべてと雲座の一部は後補。頭・身光周縁部の一部に亡失

    34

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  • 箇所および後補の箇所がある。

    座獅子座は後補。蓮華座は他からの転用か。

    (岩田)

    【銘

    記】

    頭部内に以下の梵字が墨書されることがファイバースコープを用

    いた観察により確認される(図18〜19)。

    (以下五字、右から左に横一列に)

    (イー)

    □(不明)

    (バン)

    (バイ)

    (バー)

    これら五字の上に文字は見られない。下方は錦包、紙包に妨げら

    れており、真言や陀羅尼の最上列ではないと断定することはできな

    いが、字間が開き気味であり、

    (イー)のように真言・陀羅尼中

    に用いられることが稀な字を含むことから、種子である可能性が大

    きいと考えられる。その場合、

    (バン)は金剛界大日如来を表し、

    また

    (イー)は帝釈天、

    (バイ)は毘沙門天、

    (バー)は風

    天で、確認できなかった他の梵字とあわせ八天ないし十二天をなす

    可能性が考えられる。

    他に梵字としては

    (ア、種子とすれば胎蔵大日如来ほか)、

    (キ

    リーク)か(種子とすれば阿弥陀如来)、

    (オン、種子とは考えにくい。

    真言もしくは陀羅尼の初字か)などがあるが、ファイバースコープの

    挿入角度の限界もあり、現時点で全貌を明らかにしえない。(

    山岸)

    【伝

    来】

    一、現在、本堂内外陣東端の脇間内に安置される。

    二、明治二十年(一八八七)にまとめられた『社寺宝物古文書目

    録』(奈良県立図書情報館蔵)の添上郡法華寺村法華寺の項にみえる

    (ママ)

    「一文珠菩薩

    運慶ノ作

    壹体/但シ彩色座木像/長ケ貮尺五寸

    獅々長ケ三尺壱寸」にあたるとみられる。それ以前の伝来は知られ

    ない。

    (山口)

    2

    納入品について

    冒頭に述べたとおり、本像内には納入品が存在する。以下に今回

    の調査で得られた知見に基づき、その概要と考察を行う。

    【納入品の概要】

    X線透過撮影で得られた画像(図15〜17)により、像内頭部に左記

    納入品が確認される。

    一、金属製(銅製鍍金か)火焰宝珠形舎利容器

    一基

    高約八㎝

    図18 文殊菩薩騎獅像像内頭部墨書梵字

    図19 文殊菩薩騎獅像像内頭部墨書梵字(不明)

    35 ���� 17・18 (2017)

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  • 台座上に安置した水晶製(か)

    宝珠形容器(舎利数粒を納入)がほ

    ぼ白毫の奥の位置にあたるよう設

    置される。火焰は四方に立ち上が

    る。宝珠形容器は蓋・身に分かれ、

    蓋を貫く芯棒状のもので固定され

    る。台座は上より請花(蓮肉・蓮弁別製。蓮弁は四段か)・上敷茄子・

    華盤・下敷茄子・受座・反花・蛤座・框(以上すべて平面円形か)か

    らなる八重蓮華座であり、上敷茄子以下は芯棒で接続される。

    二、水晶製(か)球形舎利容器

    一個

    径約三㎝

    右眉の奥の位置にあたるよう設置される。舎利数粒を納入する。

    一の宝珠部分と透過度が近く、同様に水晶製と判断される。上部に

    宝珠形もしくは球形のつまみをもつ蓋がある。

    三、金属製円筒形舎利容器

    一個

    高約二㎝

    径約一㎝

    頭部内内刳の下寄りに位置する。舎利数粒を納入する。蓋に比べ

    身の透過度が高いのは身が薄作りなためか。

    四、水晶製(か)五輪塔形舎利容器

    一基

    高約四㎝

    三と隣り合う。一の宝珠部分及び二と透過度が近く、同様に水晶

    製と判断される。水輪内に空洞部があり、元来は舎利容器とみられ

    る。平面八角ないし六角の可能性がある。

    五、舎利(か)

    三、四に隣接して数粒の粒子が認められる。

    六、円筒形容器(か)

    高約六㎝

    径約四・五㎝

    後頭部内刳り内に納入される。

    いっぽうファイバースコープを用いた観察で以下のことが知られ、

    また関連して推測された。

    上記一は、眉間内部で金属製火焰が紙包の上部に突出し(図20)、

    その火焰にいずれかの紐が懸かり、さらにその上に山状に折られた

    紙包が載るさまが確認される。ただし一の水晶製(カ)宝珠以下の

    部分は見えず、紙包の中に包まれると推測される。上記二、三、四、

    五、六は確認することができなかった。紙包ないし錦包に内包され

    ると推定する(関連して、三、四はX線透過画像を見ると傾きがそろって

    おり、同包される可能性が高い)。

    また、像内体部には左記納入品が確認される。

    体部内刳り内の底部には、折りたたんだ紙のようなもの(冊子

    か)が塊状に納置される。同中央後方には、木製と思われる円筒形

    容器(高約二五㎝)が認められ、内部に複数の巻子とみられる納入品、

    及びその上部に折りたたんだ紙のようなものが重ねられる。体部内

    刳り内右寄りにも、円筒形容器に納められているかと見られる複数

    の巻子状の納入品が確認される。このほか、右体側材の内刳り内に

    も複数の巻子状の納入品が認められる。

    (山岸・山口)

    【納入品についての考察】

    像内頭部納入品一の火焰宝珠形舎利容器は、形姿が奈良・海龍王

    寺金銅火焰宝珠形舎利容器(正応三年:

    一二九〇)などと似通うが、

    規模が小さいこともあってか概形に締りが感じられる。海龍王寺舎

    利容器には晩年の叡尊(一二〇一〜九〇)が関与したことが『西大勅

    諡興正菩薩行実年譜』より知られる。また一の舎利容器は、ほぼ白

    毫の奥の位置に設置されており、奈良・般若寺の鎌倉再興期本尊文

    殊菩薩像において、造像を主導した叡尊の文永六年(一二六九)の願

    図20 文殊菩薩騎獅像像内頭部納入火焰宝珠形舍利容器(火焰部分)

    36

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  • 文中に「鏤仏骨以代白毫、宜照無明之痴闇」(仏骨を鏤めて以て白毫に

    代ふ、宜しく無明の痴闇を照すべし)と記されることが留意される。ま

    た、般若寺像は大般若経六百巻をはじめ像内に多種多様な納入品を

    奉籠していたことが知られ(『感身学正記』)、本像の場合これと通ず

    る点も注目される。

    二の上部に宝珠形もしくは球形のつまみをもつ蓋がある球形舎利

    容器の形状は、建久九年(一一九八)の滋賀・胡宮神社金銅三角五輪

    塔形舎利容器の内容器(径四・七㎝)や、建保六年(一二一八)から寛

    喜元年(一二二九)の奈良・興福寺千手観音菩薩立像納入とみられる

    水晶製(か)球形舎利容器(径約四㎝)と近似する。

    納入品を錦や紙に包む奉籠法は、建長元年(一二四九)善慶作の奈

    良・西大寺釈迦如来立像の場合と一定の類似を示している。

    (山岸・山口)

    3

    制作環境をめぐる考察

    一、本像は袈裟を着ける服制に特色がある。類品としては、とも

    に鎌倉時代初頭の制作とみられる京都・智恩寺文殊菩薩像および奈

    良・興福寺東金堂文殊菩薩像(ただし下層に着甲)などが知られるが、

    南都伝来という点に注目すれば、奈良・般若寺周丈六文殊菩薩像と

    の関係に思い至る。般若寺像は、西大寺叡尊が発願し、建長七年(一

    二五五)から文永四年(一二六七)にかけて仏師善慶・善春父子によ

    り造立されたが、延徳二年(一四九〇)に焼失した(『大乗院寺社雑事

    記』等)。ただし、天文十一年(一五四二)銘の騎獅文殊菩薩像版木及

    び元禄年間(一六八八〜一七〇四)開版とされる文殊五尊像版木(い

    ずれも般若寺蔵)も袈裟を着ける姿であることから、延徳二年火災後

    の再興像も同様だったと推定される。さらに、この再興像は、文亀

    二年(一五〇二)に高天仏師大弐(好尊)によって造像が始められた

    と知られ(『大乗院日記目録』)、大弐の起用は先祖が文殊菩薩像を造

    立した因縁によるとされる(『大乗院寺社雑事記』)ことから、旧像の

    図像を踏襲した状況が想定され、ひいては延徳焼失以前の文殊菩薩

    像も袈裟を着けていたと考えることができる。なお関連して、般若

    寺像は大般若経六百巻をはじめ像内に多種多様な納入品を奉籠して

    いたことが知られるが(『感身学正記』)、先述のように本像もこれと

    通ずる。

    二、寛元から建長年間(一二四三〜五六)にかけて、叡尊は法華寺

    で大比丘尼戒や沙弥尼戒を授け、経論を講ずるなど旺盛な活動を行

    った(『感身学正記』)。嘉元二年(一三〇四)の『法華滅罪寺縁起』や

    法華寺旧蔵の鰐口(興福寺蔵)の刻銘から、建長年間に行われた法華

    寺再興も叡尊の尽力によるところが大きかったと推測される。本像

    の大まかな衣文のあしらいや、厚みのある上体の表現は、鎌倉時代

    後期へとつながる要素であり、制作時期は建長年間頃を上限とする

    十三世紀第3四半紀がひとつの目安になるかと思われる。

    三、本像の作家系統については、いまにわかに判じがたい。ただ

    し、叡尊の知遇を得てその造仏の主要な担い手となった善慶・善春

    作の諸像にみる、目鼻を明快に刻み出す顔立ちや切れ味のよい着衣

    の彫り口とは、いくぶんおもむきが異なるようにも思われる。また、

    これに関連して三本周作氏は、鎌倉時代前・中期における仏像の金

    属製荘厳具に着目するなかで、本像の胸飾の意匠形式が建長八年

    (一二五六)快成作の奈良国立博物館愛染明王像や、いずれも康円作

    の東京・世田谷山観音寺不動明王像(文永九年:

    一二七二、内山永久

    37 ���� 17・18 (2017)

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  • 寺旧蔵)及び京都・神護寺愛染明王像(文永十二年:

    一二七五)などと

    一致することを指摘している(8)。一方、光背については、永仁二年(一

    二九四)法印院修ほか作の和歌山・常喜院地蔵菩薩像をはじめ、主

    として院派仏師の作品とのあいだに類似が認められるという(9)。今後、

    こうした指摘もふまえて制作時期や作家系統を検討してゆく必要が

    あるが、詳細は後考に委ねたい。

    (山岸・山口)

    参考文献

    東京美術学校編『法華寺大鏡』(『南都七大寺大鏡』第廿六集、南都七大

    寺大鏡発行所、一九二四年)

    工藤圭章「般若寺の歴史」(『大和古寺大観

    第三巻

    元興寺極楽坊・元興

    寺・大安寺・般若寺・十輪院』所収、岩波書店、一九七七年)

    太田博太郎「法華寺の歴史」(『大和古寺大観

    第五巻

    秋篠寺・法華

    寺・海龍王寺・不退寺』所収、岩波書店、一九七八年)

    水野敬三郎「文殊菩薩騎獅像

    本堂所在」(同右所収)

    奈良国立博物館編『興正菩薩叡尊七百年遠忌記念

    西大寺展』(一九

    九〇年)

    奈良国立博物館編『仏舎利と宝珠―釈迦を慕う心―』(二〇〇一年)

    田邉三郎助「千手観音菩薩像

    興福寺」(水野敬三郎他編『日本彫刻史

    基礎資料集成

    鎌倉時代

    造像銘記篇

    第四巻』所収、中央公論美術出

    版、二〇〇六年)

    田邉三郎助「釈迦如来像

    西大寺」(水野敬三郎他編『日本彫刻史基礎

    資料集成

    鎌倉時代

    造像銘記

    第六巻』所収、中央公論美術出版、二

    〇〇八年)

    三本周作「鎌倉時代前・中期における仏像の金属製荘厳具―意匠形

    式の分類と制作事情を中心に―」(『佛教藝術』三一三号、二〇一〇

    年)い

    わい・ともじ/奈良国立博物館情報サービス室長

    いわた・しげき/奈良国立博物館上席研究員

    おおえ・かつき/奈良国立博物館研究員

    ささき・きょうすけ/奈良国立博物館資料室員

    とりごえ・としゆき/奈良国立博物館保存修理指導室長

    やまぎし・こうき/奈良教育大学教授

    やまぐち・りゅうすけ/奈良国立博物館研究員

    注(1)法華寺友の会世話役

    出野達夫氏の周旋による。

    (2)平成二十四年十二月二十八日調査の参加者(一部参加を含む)は山岸

    及び西山・金原両氏のほか、宮武杏名(奈良教育大学大学院生)・周鑫

    (奈良教育大学研究生)・赤津將之(奈良教育大学学生)であった。

    なお調査を通じ、樋口師ならびに渡邊英世師(法華寺執事)より一方

    ならぬご高配を賜った。記して謝意を表する。

    (3)参考文献の水野解説。

    (4)調査参加者は次のとおり。

    山岸公基(奈良教育大学)

    岩井共二・岩田茂樹・大江克己・佐々木香輔・鳥越俊行・山口隆介

    (以上、奈良国立博物館)

    (5)注4に掲げたメンバーのうち、大江を除く六名による。

    (6)肉眼による観察では金色を確認できないが、蛍光X線分析調査の結果、

    金(Au)が検出されたため、鍍金が施されていると判断されるにいた

    った。

    (7)(注6)に同じ。

    (8)参考文献の三本論文。

    (9)同右。

    38

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  • 一、はじめに

    本稿の主題となる「最勝曼荼羅」(口絵8)は絹本著色の掛幅装で、

    縦三三五・〇センチメートル、横二〇二・八センチメートルをはか

    る巨幅である。五副一鋪で、絹幅は左から三九・五、四二・五、四

    〇・三、四二・八、三七・八センチメートル。画絹には室町時代に

    認められる少し粗さの目立つ絹が用いられている。画面の左右及び

    上方は、墨書の記された位置などから見ても、多少切り詰められて

    いるであろう。描写を見ると、肥痩の目立つ柔らかな筆致の墨描に

    賦彩を施す。仏菩薩の肉身は朱線で描き起こし、面貌の賦彩は、群

    青の髪の際を緑青でひくなど仏画の常套を省略することなく行い、

    衣など面的な部分では同色の濃淡によって陰影をつけ立体感を表す

    など、一見あっさりした印象を与える一方で、大幅ながら十分丁寧

    に描かれた優作といえよう。

    「最勝曼荼羅」とは『金光明最勝王経』を主な典拠とする曼荼羅

    のことで、大乗院尋尊(一四三〇〜一五〇八)の記録である『大乗院

    寺社雑事記』など、室町時代の興福寺関連の史料に「最勝曼荼羅」

    の製作と懸用が確認できる。そうした史料によれば、「最勝曼荼

    羅」はこの時期興福寺一山で数年に一度程度行われていた祈雨の祈

    禱に用いられた画像で、祈禱の際にはその都度『金光明最勝王経』

    六部の書写と「最勝曼荼羅」の製作が行われた。興福寺における「最

    勝曼荼羅」の製作と懸用をめぐっては、早く森末義彰氏が文献史料

    を駆使してその実態に関する論考をまとめられている(1)。しかし森末

    氏の論考では具体的な実作例への言及はない。

    当館所蔵となった「最勝曼荼羅」は、後に述べるようにそうした

    「最勝曼荼羅」の現存作例と見做せる稀有な画像である。特に本図

    の場合は画中に書き込まれた墨書によって製作の経緯や伝来が明ら

    かとなる点で画期的な存在意義を持つといえる。

    本稿は本図に関する基本的な情報の開示につとめ、美術史のみな

    らず、中世史や仏教史、神道史といった関連する諸分野の研究に少

    しでも寄与するところがあれば幸いと考える。

    二、伝来

    まず本図の伝来を確認する。近代以降の伝来に関する資料を尋ね

    ると、本図は昭和十一年(一九三六)の川崎男爵家第二回売立目録

    『長春閣蔵品展観図録』(昭和十一年初版、同十三年再版)に収録され

    ―資料紹介―

    新所蔵の「最勝曼荼羅」について―室町時代興福寺の祈雨本尊―

    39 ���� 17・18 (2017)

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  • ていることから、川崎男爵家に伝来していたことがわかる。ただし

    ここでは「釈迦如来八大龍王図」の名が与えられ、本図を「最勝曼

    荼羅」とする認識はない。これを遡る伝来に関する史料は知られな

    いが、本図では、画面中の上方に一筆で記された墨書(図1)が、こ

    の画像の製作事情と伝来について重要な史料となる。まずは画像と

    ともに翻刻を示そう。

    【墨書翻刻(2)】

    ﹇向かって右﹈

    □(此カ)本□(尊)者、依祈雨立願、文安/元年七月廿八日、

    於興福寺/□(一カ)日畫供養畢、七僧百僧/導師権別当権僧正貞

    兼/呪願権大僧都専慶

    ﹇同左﹈

    立野豊前守平信俊、頻令/所望之間、仰別会五師訓営/乞請学侶之

    処、無相違也/許可之間、同八月六日遣/信俊方了、然申詫〔託〕

    宣事/懇望之間、同書遣了、/文安元年八月六日/苾蒭一叟(花

    押)

    図1‐2

    図1‐1

    40

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  • 中央に記されたいわゆる「三社託宣」については後に触れること

    にし、まず左右の墨書を確認しよう。

    墨書に記されるところによれば、この絵画は祈雨の本尊として、

    文安元年(一四四四)七月二十八日、興福寺において供養された。こ

    のとき百の僧が参加し、導師は権別当、権僧正の松林院貞兼、呪願

    は権大僧都専慶であった。この絵画を立野信俊がしきりに所望した

    ため、別会五師の訓営を仰ぎ、また学侶にも相談したところ許可が

    得られた。そこで同年八月六日に信俊へその旨を伝えると、託宣を

    記すことを強く望んだので、ここに記し与えたという次第である。

    この墨書は文安元年八月六日に記されたもので、末尾の花押(3)及び筆

    跡から、大乗院経覚(一三九五〜一四七三)の筆と判じることができ

    る。応

    永二年(一三九五)に九条経教の子として生まれ、同十四年に出

    家、十七年には興福寺大乗院主となった大乗院経覚については、そ

    の日記である『経覚私要鈔』などによってその動向を把握すること

    ができる。こうした史料を参照すると、興福寺で祈禱のために作ら

    れた絵画に三社託宣を書き加えて譲り渡すという、経覚の立野信俊

    に対する格別の対応は、両者の懇意に拠ることが推測できる。立野

    氏は大和国平群郡立野(現・奈良県生駒郡三郷町)を本拠とする大乗

    院方の国民で、経覚は永享十年(一四三八)に将軍足利義教の不興を

    買った際、立野へ逃れている。この後経覚は三年と少しの間立野に

    滞在し、立野氏との交流を深めたのであろう。その後も贈答や面会

    など、さまざまなやりとりから経覚と立野氏の懇意をうかがうこと

    ができる(4)。文安元年の七月末といえば経覚が筒井氏と対立するさな

    かであり、経覚は八月十日には大乗院内に築かれた鬼薗山城へ移住

    ﹇中央﹈

    八幡大菩薩/銅焔雖為食不/□心

    穢人之物/銅焔雖為座不/□心汚

    人之□/

    天照皇太神宮/謀討者雖為眼前之

    /利潤必当神明罰/正直吉雖非一

    日之/依怙終□日月憐/

    春日大明神/雖曳千日注連/不□

    邪見□家/雖為重服深厚/必□慈

    心之室

    図1‐3

    41 ���� 17・18 (2017)

    /鹿園雑集 17・18号/17・18号/新所蔵の「最勝曼荼羅」について03 2017.01.31 16.02.01 Page 129

  • している(『大乗院日記目録』)。親しい存在であった立野氏であるか

    らこそ、こうした時期にこのような格別な譲渡が成立したといえる

    だろう。そしてその結果として、興福寺一山の祈禱のために製作さ

    れた絵画が、製作の経緯とその年代が明らかなかたちで現在まで伝

    えられることになったのである。

    文安元年七月二十八日に興福寺で行われた供養については『大乗

    院日記目録』の同日の項に「最勝万タラ図絵供養」との記載があり、

    『大乗院寺社雑事記』にもこの日の供養が「最勝曼荼羅」供養の先

    例として挙げられていることから(5)、この日興福寺において、本図を

    本尊とした祈雨の供養が行われたことは史実として相違ない。つま

    り本図は文安元年(一四四四)七月二十八日、興福寺で「最勝曼荼

    羅」として製作供養された絵画そのものであることが、この墨書に

    よって明らかとなる(6)。

    三、「最勝曼荼羅」の製作と懸用

    以上のように大乗院経覚による墨書の記述から、本図は興福寺に

    おける祈雨祈禱のために製作された画幅であり、日記類を参照する

    ことによって本図が「最勝曼荼羅」にあたることは明らかである。

    そこで森末氏の研究に拠って「最勝曼荼羅」の性格について述べて

    おきたい。

    中世興福寺では寺領の安定のためさまざまな祈雨の祈禱が行われ

    た。郷民によっても様々に行われたが、寺内では学侶と六方衆を主

    体とした興福寺寺門により、「深密五講」、「百座仁王講」といった

    様々な講問や、「観音経」三百三十三巻、「大般若経」、「唯識三十頌」

    といった様々な経論の読誦によって降雨が祈られた。そしてこうし

    た講問や読誦は、水源である春日山南方の高山龍王池、唐招提寺の

    龍池、秋篠(寺)の龍池という三つの水神に僧侶が群参し、読誦及び

    勤行を行うこと(「三方入」)により果遂される。

    このような様々な祈禱とともに、本尊画像を用いる祈雨祈禱とし

    て『大般若経』書写と「十六善神像」の製作及び供養、そして『金

    光明最勝王経』書写と「最勝曼荼羅」の製作及び供養も、それぞれ

    一連で行われた。こうした祈禱は経典書写と絵画製作の材料準備に

    始まるもので、経済面においても人的側面においても、経論の読誦

    に比較すれば大事である。なかでも特に『金光明最勝王経』の書写

    と「最勝曼荼羅」の製作供養は、さまざまな方法が尽くされてもな

    お験のない場合に行われる、いわば祈雨を願う最後の手段とされ(7)、

    したがって当時の興福寺では最も厳粛で大規模な祈雨祈禱であった。

    寺門での供養のために用意される曼荼羅は長さ一丈(約三メートル)、

    幅五尺(約一・五メートル)という破格の大きさであり(8)、その製作の

    為に絵所座に用意される経費は、例えば十六善神像や薬師如来像で

    は五千貫文であるのに対し、倍の一万貫文という莫大なものであっ

    た(9)。ちなみにこうした記録に残る画幅の法量と本図の法量が近似し

    ていることは、本図が興福寺一山の祈禱に用いられたいわば正統の

    最勝曼荼羅であることを示すといえよう。

    祈禱の遂行は、学侶及び六方衆の集会による決議によって定まり、

    寺内各所へさまざまな作業が差配されている。例えば興福寺一山に

    よる「大般若経」書写と「十六善神像」製作についてみ